和颯の屋敷
「ちょっと待て!」
胡蝶が! 三河に! 行ってくるだと!?
敵国に乗りこむつもりか!?
正気の沙汰とは思えない。
俺の! 正妻だぞ!
「いっ――一益っ!」
俺は大声をあげた。
「はっ、ここに」
すぐに扉が開き、一益が滑り込んできた。
「胡蝶が、三河に行くと言い出した。止めてくれ」
一益が動きを止める。
胡蝶が視線を鋭くした。
「和颯様は、既にご許可を出されました!
男に二言はないともおっしゃったはず。納得できません!」
「だけど! 三河は敵国で、胡蝶は俺の正妻じゃないか!」
見つかったら――見つかったら――見つかったらどうするんだ!?
「でしたら離縁――」
「和颯様!」
一益が割り込んだ。
冷静に言葉を紡ぐ。
「三河に乗り込むのは、名案だと思います」
胡蝶が、ふっと肩の力を抜いた。
一益が続ける。
「今、織口家は2つの外敵と戦っております。
北の岩倉・斎藤家。
東の今川家です。
織口家の力は弱まり、もはや崩壊寸前。
このまま2つの敵と戦い続けても、我々は消耗し、いつか滅ぼされてしまうのは明らかです」
その通りだ。
現に今日だって。
なんとかギリギリで躱すことができたけど、竜眼寺で岩倉軍に全滅させられていてもおかしくなかった。
本当に危ない所だったんだ。
胡蝶が口を開いた。
「今川家は破竹の勢いで遠江と三河に侵攻し、あっという間に平定しました。
しかし、そのやり方は乱暴で、三河武士たちは密かに反感を抱いています。
彼らを煽り、支援すれば――。今川家は窮地に立たされます。
今川家の窮地は、織口家の好機」
たしかにそうだ。理屈ではその通りだけど――。
俺は跪いて胡蝶の肩に触れた。
「だけど胡蝶。お前は女じゃないか。
そんな場所に一人で乗り込むのは危険だ。
その仕事は、誰かほかの者に指示するから――」
胡蝶は俯いた。
彼女の全身から放たれていたまばゆい光が、たちまちしぼみ、くすんで濁る。
――胡蝶……
一益は、じっと胡蝶を見ている。
おもむろに、その口が開いた。
「ならば、わたくしが一緒に参ります」
胡蝶がぱっと顔を上げた。すでに、瞳に輝きが戻り始めている。
たっぷりの期待を込めて俺を見上げる、大きな漆黒の瞳が、きらり、と光った。
――ああ、もう。
どうしてこうなるんだ。
俺は立ち上がった。
うろうろと部屋の中を歩き回り、何かほかの方法がないか模索する。
何でもいい。何か、代替案を――。
胡蝶はその様子をじっと見つめている。
俺は立ち止まった。
そうだ。一益と部下に行かせればいい。
胡蝶は留守番だ。俺と一緒に清州に残ればいい。
そのほうがずっと安全だ。
とにかく。胡蝶が敵国に潜込するなんて許可できない。
俺はそう告げようと――。
輝く黒い瞳。
俺は、直視することができない。
俺の喉の奥がぐう、と鳴る。
胡蝶はまだ、俺を見つめている。まるで背中から、光の粒が滲み出るようだ。
仕方なく俺は、自分の想いとは真逆の言葉を口にする。
「…………分かった。許可しよう」
ああああぁぁっ!! ほんとにもうっ!
どうしてこうなるんだ――っ!
「ありがたき幸せ!」
胡蝶が低頭し、髪が弾んだ。




