~織口 信勝~
「お気をつけて、お帰りくださいませ」
美しい所作で頭を下げた胡蝶義姉さまを、母上がキッ、と睨みつけた。
「まったく。和颯は優しい子だったのに。
とんだ嫁を貰ったせいで、ひどい目にあったわ」
勝家と秀貞が、はっとした様子で顔を上げ、オレを見た。
オレは慌てて止めに入った。
「母上っ……」
「信勝は、織口家当主。和颯の主君だったのよ。
それを裏切るなんて。
あの、泣き虫で優しかった和颯が、そんなことをするなんて。
とても考えられないわ」
そう。
兄上は昔から、とても優しかった。
優しくて、穏やかで、泣き虫で、寂しがり屋で――まるで頼りなかった。
父上から那古野の屋敷を与えられてからも、しょっちゅう本家に顔を出していた。毎度様々な理由をつけてはいたが、要は母上に甘えたかっただけだというのは、誰の目にも明らかだった。
母上は口では困った子だと言いつつも、いつだって兄上のためにとっておきの菓子を用意して待っていたのに。
その兄上が、結婚したとたん、がらりと変わった。
ぴたりと本家に顔を出さなくなった。呼ばれるまで、来ない。なんなら、呼んでも来ない。
みるみる顔つきが精悍になっていって、聞こえてくるのは頼もしい噂ばかり。
那古野は領民を束ねるのに苦労していた土地なのに、たちまち夫婦そろって、領民に慕われるようになった。
舅・道三からは1000人の援軍を引き出し、今川家が作った難攻不落の砦を落として帰ってきた。
お膳立てされた初陣で負けて、その日のうちに帰宅することすらできなくて、予定外の野宿をした挙句、泣きながら帰陣した、あの、兄さんが、だ。
結婚して3年で子供ができなければ、普通は離縁する。
だが兄さんは、子供を授からない胡蝶義姉さまを、決して手放そうとしない。側室を迎えることすら、拒んでいるという。
母上は、少し嬉しくて、でもやっぱり寂しくて――身を焼くほどに、嫉妬している。
「胡蝶義姉さま。申し訳ございません」
オレは頭を下げた。
「兄上に命乞いに来た帰りに、胡蝶義姉さまに暴言を吐くなんて――全くどうかしている」
母上が周りの者に厳しいのは昔からだ。
それでも以前は、こんな風にタガが外れたようになることはなかった。
最近母上は、急に取り乱すことがある。
きっかけなら、分かっている。
秀孝の件があってから、だ。
昨年、俺たちの弟・秀孝が、守山で殺された。
人違いが原因の、完全な事故だった。
問題は、秀孝を殺したのが、守山を治めていた信次叔父さんだった事だ。
俺も兄さんも、すぐさま仇討ちに出たが、信次叔父さんは泡を食って逃げ出したあとだった。
本家は守山の主を新たに選任したが、守山に残った家臣たちは納得しなかった。
すったもんだの末、本家は守山を攻撃。兄さんも本家に協力してくれた。
暗殺や裏切りが続出し、何度も主を据えなおした。それでも収まらなかった。
泥沼だった。
兄さんが言った。これ以上揉めたら織口家が内部崩壊してしまう、と。
その通りだ。
俺たちは信次叔父さんを許すことにした。
逃げまわっていた信次叔父さんを呼び戻して、もういちど守山の主人に据えた。
信次叔父さんは涙を流して謝罪し、いつかかならず借りは返すと誓った。
信次叔父さんさんの家臣たちがが納得し、騒ぎは収まった。
(守山騒動)
ただ、母上としては納得がいかないのだろう。
罪もない自分の息子を殺した男がおとがめなしだったのだ。当然、か。
それに、オレと兄さんが、秀孝の無念を晴らす事を諦め、血を分けた兄弟の絆を捨てたと思っているんだ。
オレたちだって、納得したわけじゃない。だけど。仕方ないじゃないか。
これ以上争っている余力なんて無い。他に方法はなかったんだ。
オレの目の前で、オレたちの織口家が、みるみる力を失っていくのが、手に取るように分かる。
それが、とても、辛い。




