~陰の巻~ 屋敷の外2
信勝がまじまじと胡鳥の顔を覗きこんで、はっと息を呑んだ。
「――胡鳥義姉様!
母上に罵倒されるのは、これが初めてではないのではないですか!?」
図星だった。胡鳥は目を逸らした。
信勝は哀しげなため息をついた。
「どうして――。
どうしてわたくしに教えてくださらなかったのです!?」
「――義母上がおっしゃったことは全て、事実ですから……」
胡鳥は目を閉じ、乱れかけた呼吸を整える。
――落ち着け。
落ち着け。こんなの。
ちっとも大したことじゃない。
心を……乱すな――。
信勝がせかせかとあたりを歩き回る足音がする。
その足音がぴたりと止まった。
顔を上げると、目の前に手拭いが現れた。
「胡鳥義姉さま――泣かないでください……」
膝立ちになった信勝が、自分の目を潤ませて胡鳥を見上げていた。
信勝が、手にした手拭いで、そっと火鳥の頬に触れた。
――えっ……?
胡鳥は慌てて自分の目元を拭う。
驚いたことに、胡鳥の目からは涙がこぼれ落ちていた。
「すみません――お見苦しい所を……」
「ちっとも見苦しくなどはありません。
わたくしは兄上に――腹が立つ」
「……わたくしが悲しいのは、和颯様のせいではありません」
「いいえ。兄上が――」
「違います。
わたくしはただ……何もできない、自分が不甲斐ないのです」
嫁いで六年も経つのに、未だに子供を産むことも、側室を迎えることもできていない。
本家への偵察任務も、柴田勝家の暗殺任務も、活動許可すら下りなかった。
「胡鳥義姉さま、そんなことをおっしゃらないでください」
「ですが、これも事実です。
わたくしは本当に何もできなくて――」
……役立たずだ。
自分は、女としても、正妻としても、くのいちとしても、まるで役に立っていない。
役に立たないということは――存在価値がないということだ。
こんなにも自分が情けないと思ったことはない。
「それはちがいます」
優しく寄り添うような声に包み込まれる。
「兄上には、胡鳥義姉さまが必要です。
間違いありません。
――弟の私が、保証します」
「信勝――さま……」
顔を上げて、信勝を見る。
信勝は、胡鳥に向かってそっと笑いかけた。瞳の奥には切なげな光が宿っていた。
「胡鳥義姉さまにしかできないことがあるでしょう?
ほかの誰にもできない、胡鳥義姉さまにしかできないことです。
胡鳥義姉様が隠しても、兄上を見ていれば分かります。
私は、兄上と血を分けた、弟ですから。
誰が、何と言おうと。
兄上には、胡鳥義姉さまが必要です。
母上が言ったことなど、気になさらなくていいのです。
胡鳥義姉さまには、胡鳥義姉さまにしかできないことをなさってください。
それで――充分です」
どうしよう。
また、涙がこぼれそうだ。
「――わたくしが、できること……」
「ええ、そうです。
胡鳥義姉さまにしかできないことです。
あるでしょう――?」
やさしい瞳に、覗き込まれる。
「あり……、ます……」
そう。
自分に、できること。
「胡鳥義姉さま。
私は当主としての力を失った。
これからは、兄上が織口家の当主です。
織口家は今、窮地に立たされています。
我々は、内戦で力を失いました。
外敵は今がチャンスと狙っています。
北からは美濃と岩倉家。西からは今川家。
兄上は、それに立ち向かわなくてはならない。
どうか、胡鳥義姉様が。――兄上を支えて差し上げてください」
胡鳥は顔を上げた。
そう。
私にはまだ、できることがある。
顎を上げる。背筋が伸びる。
すうっ、と呼吸が楽になった。
ああ。こんなに楽に息が吸えるるのは、久しぶり。
「ええ、そういたします」
胡鳥は信勝に向かって微笑んだ。
信勝の目が見開き、呼吸が止まったように見えた。
「たった今、自分の、進むべき道が見えた気がいたします。
信勝様。ありがとうございます。
信勝様は胡鳥の――。恩人でございます」




