~陽の巻~ 門の前
馬に乗り、屋敷の庭を横切る。
兵士たちの半分以上はすでに稲生村に築いた砦で待機している。
屋敷の外で俺を待つ兵士は、100名ほどだった。
門の前にはいつもの通り、胡蝶がひとり、立っていた。
胡蝶は俺を見ると、表情を変えずに頭を下げた。美しい所作。
――これが、見納めになるかもしれない。
俺は、馬を降りた。
胡蝶が、表情を変えずに俺を見た。
「胡蝶――」
俺は両手で胡蝶の躰を抱き寄せた。
俺の手には矢傷を防ぐための手袋がかぶされていて、胸元は分厚い甲冑でおおわれている。こんなに近くにいるのに、決して触れることのできないその隔たりがもどかしい。
俺は俯いた。いかつい兜が邪魔で、髪に頬を寄せることすらできない。
胡蝶は泣くことも笑うことも抗うこともなく、黙って、俺に引き寄せられるがままになっている。
「胡蝶――」
「……聞こえて、おります」
胡蝶は俺の胸元を見つめたまま言った。
「――俺は……。
本家に戦を仕掛けようとしている」
「はい」
「戦力差は……圧倒的だ」
「存じ上げております」
「俺は――負けるかもしれない」
胡蝶が、さっと顔を上げた。
「和颯様。
今、この場で。
胡蝶に、お命じくださいませ。
柴田軍は現在、稲生村に向かって進軍中。
今夜は村の近くで野営をし、明日の朝、夜明けとともに攻撃を開始するつもりに違いありません。
胡蝶は、たった今から少年に化けて敵兵に紛れこみます。
夜になったら、闇に紛れて本陣へ忍び込み、大将・柴田勝家の首を狙ってまいります。
たとえこの命に代えても必ずや――」
「必要ないっ!」
つい、大声が出た。
胡蝶が口を閉じ、悲しそうに目を伏せた。
「――………出過ぎた真似を、致しました……」
「いや、いい。
そんなことはするな。
ただ――。
胡蝶は俺の正妻で、俺の唯一の家族だ。
俺が負けたら――胡蝶も、殺されるかもしれない。
……それは、嫌だ………。
俺は――……。俺が――……。
たとえ、俺が死んだとしても――」
俺は、言葉を切った。
あふれ出る想いを、何とかありきたりな言葉の中に押し込める。
「俺は――。……死んでも……。妻を守りきれなかった汚名とともに、あの世へ行くのは嫌だ。
だから……。だから、胡蝶には逃げ延びてほしい。
――胡蝶、死ぬな。……それが、命令だ」
胡蝶は、大きな漆黒の瞳で俺を見た。
「御意。
たとえこの屋敷が敵に囲まれたとしても。敵の目を欺き、萌と自分の身を守り、必ず逃げ切ってご覧に入れます。
和颯様がいらっしゃらなくても、この先ずっと、萌と2人で生き抜いていくための、知恵と技術もございます。
この度の戦でたとえ何が起ころうとも、和颯様のお名前を汚すことは致しません――その点はどうぞ、ご心配なきよう」
「そうか」
――なら、いいんだ。
「――行ってくる」
俺はもう一度胡蝶を見つめ、馬にまたがった。
知らなかなった。どうしようもなく切ないとき、胸は本当に痛くなるんだな。
俺の胸が痛む。
俺は死ぬかもしれない。
また、目の前で多くの仲間を失う。
たとえ戦死しなかったとしても、信勝との関係はもう決して、今までと同じ場所には戻らない。
それでも。
それでも、ここで引き下がったら、俺はきっと、もっと後悔する。
そんなのは、嫌だ。
これは、俺の意思だ。
これが俺の出した結論で、俺の望みだ。
だから、行く。
「――ご武運を」
火鳥が頭を下げた。
俺は胸の奥の一部を引きちぎられるようにしながら、屋敷を後にした。
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↑ 地図です。簡単にですが。書き直しました。
三つの矢印の先が稲生村です。
徒歩で移動した場合、
清州からだと1時間強。(途中、川あり)
末森からだと2時間強
清州からだと1時間弱です。
※ この時代の戦は、早朝に開始することが多い。
当時は明かりが乏しく、日が沈むと、とぉ~~~~っても暗くなるため、夜間の行動は困難。
武士も百姓も「日が昇る前に起き、日が沈んだら眠る」のが基本だったそうです。
(明かりがない状態のとき、空は日の出前から明るくなり、人間も行動できるようになります)
合戦の時は、前日までに両軍ともに現地入りしてスタンバイしておいて、
夜明け、または日の出直後から合戦を開始。日が沈むまでに終わらせる。
これが基本形だったようです。




