清須・和颯の屋敷 午前11時
昨日の雨が嘘のように晴れた日の朝。
泥を踏む馬の足音が聞こえる、と思ったら屋敷の外が騒がしくなった。
一益が、本家・末森に配置していた偵察部員が、駆けこんできたらしい。
「柴田勝家殿は、末森の本家を出発し、こちらへ向かっております!
その数1,000人っ!」
――げげっ。1,000人!?
……俺たちは700人にも満たない。
でも、先に挑発したのは俺だ。
おめおめと、引き下がるわけにはいかない。
1,000人の兵士なら、見たことがある。
俺が村木砦に行ったとき、斎藤道三が派遣してくれたのが1,000人だった。あの時は、突然現れた大軍に本家がひっくり返っていたっけな。
だけど結局、彼らは戦闘はせずに美濃へ帰っていった。
「――分かった。出陣する」
俺は立ち上がった。
――信勝め。いきなり本気出してきたな……。
俺たちは――俺たち兄弟は。
いよいよ後戻りできなくなる寸前まで来ている。
引き返すなら、今だ。
俺には分かる。信勝も。それを望んでいるはずだ。
だからこその1,000人。
信勝軍は、ほとんど農民だ。農閑期ならもう少し人数も集められただろう。
だが、今は稲刈りの時期で、皆忙しい。数日の間に1,000人も集めるのは相当に大変だったはずだ。
信勝は、織口家当主としての地位をフル活用して、速攻で搔き集めた目一杯の人数を勝家に預け、こちらに向かわせている。
俺たちは700人。
この日に備え、稲生村の外れに、砦を作っておいたが……。
1.5倍の敵を前にして、簡単に勝てるとは思えない。甚大な被害を被った挙句、こちらが負ける可能性も高い。
――ねえ兄さん、戦うのはやめようよ。
それが信勝からの、渾身のメッセージだ。
信勝は、俺が、自分の兵士たちをものすごく大切にしていることを知っている。彼らは俺の部下で、家族で、友達で、仲間だ。俺は皆を、殺されたくない。
信勝の声が聞こえるようだ。
――兄さん、よく考えてよ。降伏以外に方法はないでしょ?
今、俺が鎧に袖を通さず、稲生村に行って土下座して謝れば、きっと信勝は許してくれる。
そうすれば、俺たちはまた、昨日までの関係に戻れる。
しばらくはぎくしゃくするかもしれないが、それでも、きっと、以前のように笑って、泣いて、相談しあえる関係になる。
ただし、信澄を人質に出す、という条件付きで、だ。
――それは……。
――嫌だ――!
信勝は――。信澄のためなら『毒だと分かっている酒を、旨そうにあおる』ことができる、と言っていた。
だけど。どんなに旨そうに飲めたって。
毒は、毒だ。
飲ませてたまるか。
信勝は――。たった一人の、おれの弟なんだぞ。
俺は、生まれたばかりの甥っ子を人質に出して、まやかしの平和の上に座った挙句、真綿で首を絞められていくくらいなら、今ここで大声で異を唱えた方がいい。
たとえ、負けると分かっていても。
それが、俺の、正義だ。
「鎧を!」
鎧はもう用意されていた。俺は手早くそれを身に着ける。
「申し上げます!」
先ほどとは別の声が駆けこんできた。
「那古野に兵士が集結しています。その数、およそ700人!」
――そうか。敵は、1,000人じゃなくて、1,700人か。
俺たちの2.5倍だ。
もはや清々しいような気持ちになる。
野戦では。兵力差が3倍になると、もう勝負にならなくなる。
常識だ。
それでも。
俺は。行く。
人は必ず死ぬ。
どうせいつか死ぬなら。
妥協なんかしたくない。
俺は。この命尽きる最後の瞬間まで。
理想を追って、正義を求めて、力いっぱい戦って、胸を張って死にたい。
「出陣する」
俺は部屋を出た。




