【第53話】闇を見通す刃
天明六年、冬。
小刀の刃先が、お里の右下腹部に触れた。
青洲は静かに息を整えた。
灯明の炎が揺れ、治療台の上に幾重もの影を落としている。
しかし、その視界には、すでに【医神の眼】によって映し出されたお里の体内構造が重なっていた。
皮膚の下にある筋肉。
その奥の腹膜。
腸管の位置と、炎症を起こした虫垂。
青洲はそれらの位置関係を、もう一度確かめた。
(……ここだ)
小刀を動かす。
皮膚が切り開かれ、赤い血がにじんだ。
「……ああっ!」
お里の背が反り、治療台の上で体が強張った。
青洲はすぐに刃を離した。
「新吉、肩を支えてくれ。急に動いたとき、台から落ちないようにな」
「はい!」
新吉が両手を添える。
加恵は枕元で、お里の顔をのぞき込んだ。
「お里さん、私の声が聞こえますか」
「……いたい……! いたい……!」
お里は涙を流し、苦しそうに顔をゆがめた。
「ええ、痛みますね。私はここにいます。息を止めずにいてください」
加恵は額の汗を拭いながら、呼吸の様子を確かめた。
青洲はお里の脈を取った。
速い。
だが、まだ指先にはっきりと伝わってくる。
(……耐えられる時間は長くない)
前世の華岡蒼真なら、患者がこれほどの苦痛を受ける状態で腹を開くことなど考えなかった。
安全な麻酔も、呼吸を管理する装置もない。
それでも、今のお里には、病んだ虫垂を残したまま回復を待つ余裕がなかった。
青洲は再び小刀を握った。
*
切開を少しずつ進める。
新吉が差し出した布で血を拭い、青洲は傷の深さを確かめた。
【医神の眼】の視界には、刃先の向こうにある血管や筋肉の重なりが映し出されている。
だが、透視できるからといって、手元の感触をおろそかにはできない。
皮膚の抵抗。
筋肉の厚み。
組織が離れる感触。
その一つ一つを確かめながら、青洲は進めた。
「新吉、そこに見える赤い筋が分かるか」
「……はい。かすかに」
「血の通うところだ。傷つければ出血する。器具を動かすときは、その先に何があるかを考えなければならん」
「はい」
新吉は返事をしながら、師の手元を見つめた。
自分には、灯明に照らされた傷の表面しかはっきり見えない。
それなのに青洲は、暗い部分に隠れた組織の位置まで知っているようだった。
(先生には……本当に、そこまで分かるのか)
疑問は胸に残ったが、今は尋ねなかった。
青洲の指示を聞き逃すことの方が恐ろしかった。
やがて腹壁の深い部分に達した。
青洲は小刀を置き、別の器具を手に取った。
腹膜の向こうには腸管がある。
一つ間違えれば、病んでいない場所まで傷つけてしまう。
(見えている。だが、油断するな)
青洲は慎重に腹膜を開いた。
*
「……ううっ!」
お里が喉の奥から苦しげな声を漏らした。
加恵がすぐに顔を近づける。
「お里さん、私の手を握れますか」
お里の指が、加恵の手を弱々しくつかんだ。
「はい、そのままでいいですよ。私はここにいます」
加恵はその手を包み、青洲へ目を向けた。
「あなた、顔色が先ほどより悪くなっています」
青洲は傷口から目を離し、お里を確かめた。
唇の色が薄い。
呼吸は速く、浅い。
「新吉、脈は」
「速いです。先ほどより少し弱くなっています」
青洲は手を止めた。
(……これ以上、苦痛を長引かせられない)
一方で、急げばよいというものでもない。
腹の中には、傷つけてはならない臓器が密集している。
青洲はお里の呼吸がわずかに落ち着くのを待ち、再び患部に向き直った。
【医神の眼】の視界を深部へ移す。
盲腸の先から伸びる虫垂が、炎症によって大きく腫れ上がっていた。
周囲の組織も腫れ、虫垂の一部は腸管に接するように位置している。
(……予想していたより、周囲の炎症が強い)
しかし、まだ破れてはいない。
青洲は慎重に病変へ近づいた。
*
新吉は息を詰めていた。
腹の中に見えるものが、何なのか分からない。
薄い膜。
赤く湿った組織。
灯明の影に隠れる、さらに奥の部分。
青洲はその中から、一か所を指し示した。
「新吉、ここを見てくれ」
「はい」
「この腫れた部分が、病のもとだ」
「……これが?」
「ああ。ここに炎症が起きている。このまま悪くなれば、腹の中へ広がる恐れがある」
新吉は目を凝らした。
ようやく、周囲と異なる形の組織が見えた。
「先生は……最初から、これがどこにあるか分かっていたのですか」
「おおよその位置は、診察で確かめていた」
青洲は短く答えた。
新吉は黙った。
確かに、青洲は腹を開く前から病変の位置を示していた。
しかし、実際に開いた腹の中は複雑で、書物の絵のようには見えない。
まして、この暗さだ。
(……おおよその位置だけで、ここまで正確に進められるものなのか)
新吉は師の横顔を見た。
青洲の目は、傷の奥の一点を捉えていた。
その視線には、何かを探す迷いがなかった。
*
青洲は虫垂の周囲を慎重に確かめた。
炎症によって組織が腫れ、扱いにくくなっている。
無理に引けば、薄くなった虫垂の壁が破れる危険があった。
青洲は【医神の眼】によって根元の位置と血管の走行を確認し、器具を動かす範囲を慎重に選んだ。
「新吉、糸を」
「はい!」
新吉は用意していた糸を差し出した。
青洲は虫垂の根元へ処置を進める。
そのとき、お里の体が大きく震えた。
「……ああっ!」
「先生!」
新吉が叫んだ。
青洲は即座に器具を止めた。
お里の体が横へ傾きかける。
「新吉、肩を支えろ!」
「はい!」
加恵も枕元から体を支えた。
お里は激しく息をつき、涙を流している。
「……もう……いや……」
その言葉に、青洲の胸が痛んだ。
前世で経験した数多くの手術でも、患者の苦しみに向き合ってきた。
だが、これほど直接的な痛みを与えながら処置を続けることは、元の世界の医療では考えられなかった。
(……すまない)
青洲は心の中でつぶやいた。
しかし、ここで手を止めれば、お里を救う道はさらに狭くなる。
「お里、聞こえるか」
お里は苦しそうに目を開いた。
「……せん……せい……」
「つらいのは分かっている。だが、病んだところを取り除かなければ、命が危ない」
お里の目から、新たな涙がこぼれた。
青洲はその表情を見つめた。
「私も、できる限り早く終わらせる」
お里は唇を震わせ、小さくうなずいた。
青洲は加恵と新吉に目を向けた。
「続けるぞ」
*
青洲は虫垂の根元を慎重に確かめた。
【医神の眼】に映る血管の位置と、実際に触れる組織の感触を照らし合わせる。
(……ここを傷つけてはならない)
器具を持ち替え、周囲の組織を少しずつ離していく。
灯明の炎が揺れ、傷の奥が一瞬、影に沈んだ。
それでも青洲の手は、必要な位置で正確に止まった。
「……先生」
「何だ」
「今、そこは暗くて……私にはほとんど見えませんでした」
青洲は器具を動かしながら答えた。
「手元をよく見ておいてくれ」
「……はい」
新吉はそれ以上、言葉を続けられなかった。
青洲は病変の根元にある細い血管を避け、処置を進めている。
その動きは、まるで暗闇の向こうまで見えているかのようだった。
(……そんなことが、あるのか)
新吉の胸に、驚きと畏れが入り交じった。
だが、青洲は何も語らなかった。
今は説明できない。
そして、説明すべき時でもなかった。
*
やがて、青洲は虫垂の根元を確保した。
周囲の血管に注意しながら、病変を切り離すための処置を進める。
お里の呼吸は浅い。
加恵が呼びかけると、かすかに反応がある。
新吉は脈を確かめ続けていた。
「先生、脈がさらに弱くなっています」
「分かった」
青洲は一度手を止め、お里の状態を確かめた。
顔色は悪い。
だが、呼吸は続いている。
(……もう少しだ)
青洲は患部に向き直った。
虫垂の根元を確かめ、周囲への出血がないかを確認する。
そして、最後の処置を行った。
腫れ上がった虫垂が、周囲の組織から切り離された。
青洲はそれを清潔な布の上に置いた。
「……取れた」
新吉が息をのんだ。
「先生……これが……」
「ああ。お里を苦しめていたものだ」
新吉は腫れた虫垂を見つめた。
人の腹の中から、病んだ部分を取り除く。
それを目の前で見たこと自体が、信じられなかった。
しかし、何より驚いたのは、青洲の技術だった。
暗い灯明の下で、見えないはずの血管を避け、病変だけを取り除いた。
(……先生には、何が見えているんだ……)
青洲は切除した虫垂から視線を戻した。
病変を取り除くことはできた。
しかし、お里の腹はまだ開いたままだ。
そして、弱くなった脈が、残された時間の少なさを告げていた。
青洲は静かに息を整えた。
(……ここからが、もう一つの勝負だ)
灯明の炎が揺れた。
青洲は再び、傷の奥へと視線を向けた。




