【第52話】命を預かる夜
天明六年、冬。
夜の冷たい風が、華岡家の障子を静かに揺らしていた。
診療部屋には、いくつもの灯明がともされている。
青洲は治療台の前に立ち、並べられた器具を見つめていた。
小刀。
鋏。
探り針。
そして、清潔な布。
京で学んだ頃から使い続けてきた道具もある。
だが、今夜これらを用いて行おうとしている処置は、これまで経験してきた外科の治療とは大きく異なっていた。
青洲は治療台に手をかざした。
その瞬間、台の中央に大きな影が落ちた。
「……暗いな」
思わず声が漏れる。
新吉が顔を上げた。
「先生、灯りを増やしましょうか」
「いや。まずは位置を変えてみよう」
新吉は灯明を一つ持ち、治療台の反対側へ移した。
青洲は再び手をかざした。
先ほどよりは明るい。
だが、炎が揺れるたび、影の形も変わってしまう。
「これでは、腹の奥まで見通すことは難しい……」
青洲は静かにつぶやいた。
新吉は治療台を見つめた。
「先生、この明かりだけで、腹の奥まで確かめられるのでしょうか」
青洲は揺れる灯明に目を向けた。
「難しいだろうな。腹を開けば、私の手も影を落とす。わずかな見誤りが命に関わる」
「……では、どうなさるのですか」
「まずは、できる限り明かりを整えよう」
新吉はうなずき、灯明の位置を確かめ直した。
*
青洲は治療台の横に立った。
前世、華岡蒼真として生きていた頃。
手術室には強力な照明があり、必要な器具は整えられ、患者の呼吸や脈を確かめるための機械が備えられていた。
必要ならば照明の角度を変え、深い部分まで光を届けることができた。
血管の走行も、組織の色の違いも、目で確かめながら処置を進められた。
だが、今は違う。
あるのは、灯明の光と、限られた器具だけだった。
(……これほど、光が足りないとは)
青洲は小さく息を吐いた。
前世では、当たり前だったもの。
それが、この時代には何一つ存在しない。
だが、嘆いている時間はなかった。
*
加恵が診療部屋へ入ってきた。
「あなた、清潔な布を追加で用意しました」
「ありがとう」
「小春ちゃんは、もう眠っています」
「そうか。今夜は起こさないようにしてやってくれ」
「はい」
加恵は治療台を見つめた。
「……お里さんを、こちらへ移すのですね」
「ああ。ただし、体を動かすだけでも強い痛みがある。慎重に行わなければならない」
加恵は静かにうなずいた。
「私もお手伝いします」
「頼む」
青洲は妻の顔を見た。
加恵は医術を専門に学んだわけではない。
それでも、これまで多くの患者を支え、体を拭き、食事を運び、苦しむ者のそばに寄り添ってきた。
今夜も、その存在は欠かせなかった。
*
お里は布団の中で浅い呼吸を繰り返していた。
庄助が枕元に座り、妻の額の汗を拭っている。
青洲が近づくと、庄助は顔を上げた。
「先生……」
「お里の様子はどうですか」
「さっきから、あまり声を出さんようになりました」
青洲はすぐに膝をついた。
「お里、聞こえるか」
「……はい……」
「痛みはどうだ」
「……ずっと……痛いです……」
青洲は脈を確かめた。
速い。
顔色も悪く、額には冷たい汗が浮かんでいる。
腹部にそっと触れると、お里の体が強張った。
青洲は意識を集中させた。
【医神の眼】
第三段階【臓器透視】。
視界が切り替わり、腹腔内の構造が鮮明に浮かび上がった。
右下腹部。
盲腸から伸びる虫垂は大きく腫れ上がり、内部には硬い塊が詰まっている。
周囲の組織にも炎症が広がっていた。
青洲は断面を切り替え、虫垂壁を確かめた。
(……まだ破れてはいない)
だが、壁の一部は極めて薄くなっていた。
【SYSTEM 】
【補足解析完了】
解析対象:お里
診断:急性虫垂炎
虫垂壁:局所的な菲薄化進行
周囲炎症:増悪
穿孔:認められず
【警告】
穿孔の危険性が極めて高い状態です。
早急な治療判断が必要です。
青洲は表示を消した。
(……もう、時間がない)
前世の知識が告げている。
虫垂が破れ、腹腔内に炎症が広がれば、今の医療環境で命を救うことはさらに難しくなる。
だが、腹を開くことにも大きな危険があった。
青洲はお里の手をそっと握った。
「お里。これから治療台へ移る準備をする」
「……はい……」
「体を動かすと痛むだろう。できるだけ負担をかけないようにする」
お里は弱々しくうなずいた。
*
青洲は新吉と加恵を呼んだ。
「新吉、お里の肩と背中を支えてくれ」
「はい」
「加恵は腰と足の方を頼む」
「分かりました、あなた」
庄助も立ち上がった。
「先生、おらにも何かできることは……」
「お里のそばで声をかけていてください。急に体を動かさないよう、安心させてあげてほしい」
「……はい」
青洲は布団の位置を確かめた。
「お里、今から少し体を動かすぞ」
「……はい……」
三人は声を合わせ、慎重にお里の体を持ち上げた。
「……ああっ!」
お里が苦痛に声を上げた。
「止めよう」
青洲の指示で、全員が動きを止める。
「お里、息はできるか」
「……はい……」
「少し休もう」
青洲は脈を確かめた。
呼吸が落ち着くのを待ち、再び慎重に体を動かす。
ようやく、お里を治療台へ移すことができた。
加恵が布を整え、体を冷やさないように覆う。
庄助は妻の手を握った。
「お里……おらがここにおるからな」
「……うん……」
青洲はその様子を見つめた。
今、目の前にいるのは、単なる病人ではない。
庄助とともに畑を耕し、日々の暮らしを重ねてきた一人の女性だった。
その命を、何としても守りたい。
*
青洲は治療台のそばに立った。
「新吉、器具の確認は終わっているな」
「はい。湯で煮たものは、清潔な布で覆ってあります」
「よし。必要なものだけを、すぐ手に取れる位置へ置いてくれ」
新吉は指示に従った。
青洲は小刀を手に取った。
刃先に灯明の光が映る。
しかし、その光は弱かった。
青洲が身を乗り出すと、自分の肩が患部に影を落とす。
(……やはり、視界が悪い)
前世では、明るい手術灯の下で、血管や組織の違いを確かめながら処置を進めていた。
だが、ここでは炎が揺れるたびに、見えるものが変わってしまう。
わずかな見誤りが、取り返しのつかない結果につながる。
青洲は小刀を置いた。
「新吉、灯りをもう少し右へ動かしてくれ」
「はい」
新吉が灯明を移した。
青洲は再び患部を見つめた。
先ほどよりは見やすい。
しかし、十分ではなかった。
(……この暗さの中で、腹の奥を確かめながら処置するのは危険だ)
そのとき、青洲はふと考えた。
(……待て)
【医神の眼】。
これまでは、病の位置や状態を確かめるために使ってきた。
だが、この能力は皮膚の向こうにある臓器を映し出す。
(もし、処置の最中にも使えるなら……)
青洲は静かに意識を集中させた。
【医神の眼】
第三段階【臓器透視】。
次の瞬間、視界が変わった。
薄暗い診療部屋の中で、お里の体内構造が鮮明に浮かび上がる。
皮膚。
筋肉。
腹膜。
その奥にある腸管。
そして、炎症を起こした虫垂。
青洲は息をのんだ。
(……見える)
灯明の光が届かない部分まで、はっきりと見えていた。
血管の位置。
臓器同士の重なり。
炎症によって変化した組織。
それらが立体的に映し出されている。
青洲は視点を変えた。
虫垂の根元。
周囲の血管。
腹の表面から病変までの距離。
すべてが、鮮明に把握できた。
(……これなら、暗さを補える)
しかし、青洲はすぐに小刀を握らなかった。
【医神の眼】が見せてくれるのは、あくまで体の内部構造だ。
出血を止めることも、痛みを取り除くこともできない。
実際に処置を行うのは、自分の手だった。
青洲は静かに息を吐いた。
(……それでも、大きな助けになる)
*
新吉は青洲の様子を見つめていた。
先ほどまで、明かりの位置を何度も確かめていた師が、突然動きを止めた。
そして、今はお里の腹部をじっと見つめている。
その目には、先ほどまでの迷いがなかった。
「先生……?」
青洲は視線を戻した。
「どうした」
「……何か、分かったのですか」
青洲は少し間を置いた。
「ああ。病んでいるところの位置を、もう一度確かめた」
「……そうですか」
新吉はうなずいた。
だが、心の中には疑問が残っていた。
自分には、薄暗い灯明の下で腹の奥を見通すことなどできない。
それなのに、先生はまるで何かを見ているかのようだった。
(……先生には、何が見えているのだろう)
新吉は思わず、青洲の目を見つめた。
その視線に気づいた青洲が声をかけた。
「新吉」
「はい!」
「今は、お里の命を守ることだけを考えよう」
「……はい、先生!」
新吉は深く頭を下げた。
*
青洲は再び治療台へ向き直った。
お里は浅い呼吸を続けている。
額には冷たい汗が浮かび、顔色も悪い。
青洲は脈を確かめた。
速い。
だが、まだ呼びかけには応じている。
「お里、聞こえるか」
「……はい……」
「これから腹の病んだところを取り除くための処置を始める」
お里は弱々しくうなずいた。
青洲は加恵を見た。
「加恵、お里の顔色と呼吸を見ていてくれ」
「はい、あなた」
「新吉は脈の変化を確かめながら、私の指示に従ってほしい」
「承知しました」
庄助は妻の手を握り締めた。
「お里……頑張るんじゃぞ」
「……うん……」
青洲は小刀を手に取った。
灯明の炎が揺れる。
診療部屋には、依然として深い影が落ちていた。
しかし、青洲の視界には、お里の体内構造が鮮明に映し出されている。
前世で積み重ねた外科医としての経験。
この時代で学び直してきた医術。
そして、神から与えられた【医神の眼】。
そのすべてが、今、一つにつながろうとしていた。
(……始めよう)
青洲は静かに息を整えた。
「新吉、始めるぞ」
「はい、先生!」
小刀の刃先が、お里の右下腹部へ近づいた。
蒼真にとって、これまでにない困難な外科の処置が、いよいよ始まろうとしていた。




