【第51話】医師としての覚悟
天明六年、冬。
午後の日差しが傾き始めた頃、華岡家の薬の調製部屋では、青洲が古い研究記録を開いていた。
机の上には、これまで試験を重ねてきた生薬の記録が並んでいる。
曼陀羅華。
草烏頭。
そのほかにも、痛みや意識に作用する薬草について、幾度となく調べてきた。
だが、記録のどこにも、今のお里に安心して使える麻酔法は記されていなかった。
「先生、こちらが以前の試験記録です」
新吉が帳面を差し出した。
「ありがとう」
青洲は受け取り、頁をめくった。
ある試験では、動物の動きが鈍くなった。
別の試験では、反応が弱まり、呼吸にも変化が現れた。
効き目が強くなるほど、危険も増している。
青洲は筆を取り、二つの記録を並べて比較した。
「新吉、この二つを見て、何が違うと思う」
新吉はしばらく考えた。
「こちらは動きが鈍くなっただけですが、もう一方は呼吸まで弱くなっています」
「そうだ。眠ったように見えても、安全とは限らない」
「では、お里さんには……」
「使わない。少なくとも、今の段階ではな」
新吉は黙ってうなずいた。
青洲は帳面を閉じた。
研究を急ぐことと、患者の命を危険にさらすことは違う。
その一線だけは、決して越えてはならなかった。
*
診療部屋へ戻ると、お里は布団の中で目を閉じていた。
庄助が枕元に座り、妻の手を握っている。
「先生……」
青洲の姿に気づいた庄助が立ち上がろうとした。
「そのままでいい」
青洲はお里のそばに膝をついた。
「お里、聞こえるか」
「……はい……」
「今、どこが一番痛む」
「……右の……下です……」
青洲は腹部に軽く触れた。
お里は眉を寄せ、息を止める。
腹の緊張は強いままだった。
青洲は意識を集中させた。
【医神の眼】
第三段階【臓器透視】。
視界が切り替わり、右下腹部の臓器が鮮明に浮かび上がった。
腫れ上がった虫垂。
内部を塞ぐ硬い塊。
周囲へ広がる炎症。
青洲は断面を切り替え、虫垂壁の薄くなった部分を確認した。
(まだ破れてはいない。だが、かなり危うい)
さらに周囲の腸管と血管の位置を確かめる。
腹膜には炎症の影響が及び始めていた。
そのとき、視界の端に淡い光が浮かんだ。
【SYSTEM 】
【補足解析完了】
解析対象:お里
診断:急性虫垂炎
虫垂壁:局所的な菲薄化が進行
周囲炎症:増悪
穿孔:認められず
腹膜刺激所見:持続
【警告】
前回解析時より病状が進行しています。
穿孔の危険性が高まっています。
青洲は表示を消した。
診断は変わらない。
しかし、残された時間は確実に減っていた。
「先生……」
庄助が不安そうに尋ねた。
「妻は、どうなのでしょうか」
青洲はお里の脈を確かめながら答えた。
「熱と腹の痛みが続いています。今のままでは危険です」
「……そうですか」
庄助は妻の手を握り直した。
*
青洲は新吉を呼び、診療部屋の隅で話した。
「新吉。腹を開く処置について、もう一度考えておきたい」
「はい」
「今ある器具だけでは、十分とは言えない。だが、それ以上に大きな問題がある」
「……痛みを抑える薬でしょうか」
「そうだ」
新吉は考え込んだ。
「以前、傷の手当てで酒を使ったことがあります。あれでは……」
「酒だけで腹を開くほどの痛みを抑えることはできない」
「……はい」
「無理に押さえつけて処置すれば、患者が動いて、かえって危険になる」
新吉は唇を結んだ。
青洲は続けた。
「それに、腹の中を扱う以上、出血や傷の悪化にも備えなければならない」
「先生は、どうなさるおつもりですか」
青洲はすぐには答えなかった。
前世では、手術を行う前に麻酔科医や看護師とともに準備を整えた。
患者の呼吸、脈、血圧。
それらを監視しながら、手術を進めることができた。
だが、ここにはその仕組みがない。
「まず、できる限り状態を保ちながら、手術の危険を減らす方法を探す」
「……間に合うでしょうか」
「分からない。だから、観察を続ける必要がある」
青洲は新吉の肩に手を置いた。
「お里の様子に変化があれば、すぐ知らせてくれ」
「はい!」
*
夕刻。
加恵が診療部屋へ入ってきた。
「あなた、小春ちゃんが、お里さんのことを気にしています」
「そうか」
「自分も病気で苦しかったから、心配なのでしょう」
青洲は小さくうなずいた。
「小春には、今は休むことが一番大切だと伝えてくれ」
「分かりました」
加恵はお里の様子を見た。
「……あなた、本当に大変な病なのですね」
「ああ」
「私にも何かできることはありませんか」
「お里の体を清潔に保ち、少しでも楽な姿勢で休めるよう手伝ってほしい」
「はい」
「それから、庄助さんにも食事を勧めてくれ。昨夜からほとんど休んでいない」
加恵は静かにうなずいた。
*
日が暮れる頃、庄助は加恵が運んできた粥を前にしていた。
しかし、箸を持ったまま、なかなか口をつけようとしない。
「庄助さん、少しでも召し上がってください」
「……ありがとうございます」
庄助はお里を見た。
「おらだけ食べるのが、申し訳なくて……」
お里がかすかに目を開いた。
「……庄助さん……食べて……」
「お里……」
「……畑のことも……あるんだから……」
庄助は首を横に振った。
「畑のことなんか、今はどうでもええ」
それでも、お里が心配そうに見つめているのを見て、ようやく粥を一口食べた。
青洲はその様子を静かに見守った。
病と闘っているのは、患者だけではない。
その命を案じる家族もまた、苦しんでいる。
*
夜。
お里の呼吸が、次第に浅くなってきた。
新吉が異変に気づき、青洲を呼んだ。
「先生、お里さんの息が、先ほどより速くなっています」
青洲はすぐに診察した。
脈は速く、額には冷たい汗が浮かんでいる。
腹の痛みも強い。
青洲は【医神の眼】を使った。
虫垂の壁はさらに薄くなっていた。
周囲の炎症も広がっている。
(……もう、長くは待てない)
視界の端に、システムメッセージが浮かんだ。
【SYSTEM 】
【補足解析完了】
虫垂壁:菲薄化進行
周囲炎症:増悪
穿孔:現時点では認められず
【警告】
病状の急速な進行を確認しました。
早急な治療判断が必要です。
青洲は表示を消した。
これ以上、ただ経過を見続けることはできない。
しかし、安全な麻酔が確立していないまま腹を開けば、手術中に命を失う危険がある。
青洲は静かに息を吐いた。
目の前にあるのは、二つの危険な道だった。
手術を行う危険。
手術を行わない危険。
そのどちらかを選ばなければならない。
*
青洲は庄助を呼んだ。
「庄助さん。大切な話があります」
庄助は青洲の前に座った。
「……はい」
「お里さんの病は、さらに悪くなっています。このままでは、命を救うことが難しくなる可能性が高い」
庄助の顔が青ざめた。
「……先生」
「私は、腹を開いて病の原因を取り除くことを考えています」
庄助は息をのんだ。
「……それで、お里は助かるんでしょうか」
「助かる可能性はあります。しかし、危険も大きい」
青洲は言葉を続けた。
「痛みを十分に抑える方法がありません。手術中の出血や、その後の傷の悪化にも備えなければならない」
庄助は拳を握り締めた。
「……おらには、何が正しいのか分かりません」
青洲は黙って聞いていた。
「でも、お里を失いたくないんです。どうか……助けてやってください」
そのとき、布団の中から声がした。
「……先生……」
青洲はお里のそばへ寄った。
「どうした」
「……わたし……生きたいです……」
お里の目には涙が浮かんでいた。
「……庄助さんと……また、畑に出たい……」
庄助が妻の手を握った。
「お里……」
青洲は二人を見つめた。
医師として、決断を迫られている。
だが、決断とは、ただ刃物を手に取ることではない。
患者の命を預かり、その結果を引き受ける覚悟だった。
「分かりました」
青洲は静かに答えた。
「できる限りの準備を整え、腹の処置を行う方向で進めます」
庄助は深く頭を下げた。
「ありがとうございます……先生……」
青洲は新吉を振り返った。
「新吉、器具と布の準備を確認してくれ」
「はい!」
「加恵にも声をかけてほしい。お里を治療台へ移す前に、必要なものを整える」
「承知しました!」
新吉は急いで部屋を出た。
青洲はお里のそばに膝をついた。
「お里、これから行うことは、決して楽なものではない。だが、私は最後まで手を尽くす」
お里は弱々しくうなずいた。
「……お願いします……」
青洲はその手をそっと握った。
医神の眼は、病の正体を正確に映し出している。
システムも、危険が迫っていることを告げている。
しかし、命を救う方法を決めるのは、青洲自身だった。
青洲は静かに立ち上がった。
華岡蒼真として積み重ねた外科医の経験。
そして、華岡青洲として、この時代に生きる覚悟。
そのすべてを懸けて、目の前の命と向き合う。
長い夜が、再び始まろうとしていた。




