【第50話】命を救うための決断
天明六年、冬。
夜半を過ぎても、華岡家の診療部屋には灯がともっていた。
畳に敷かれた布団の中で、お里が苦しそうに息をしている。
夫の庄助は枕元に座り、妻の額に浮かぶ汗を布で拭っていた。
「……庄助さん」
「どうした、お里。水が欲しいんか」
「……ごめんなさい。畑の仕事もあるのに……」
「そんなこと、気にせんでええ。畑は逃げたりせん」
庄助は妻の手を包み込んだ。
「おらは、お前が元気になってくれたら、それでええんじゃ」
お里はかすかに笑った。
しかし、次の瞬間、右の下腹に激しい痛みが走った。
「……うっ!」
「先生! お里が!」
庄助の声に、青洲がすぐに近づいた。
「お里、痛みが強くなったのか」
「……はい……右の下が……」
青洲は脈を取り、腹部を慎重に診察した。
熱は高く、脈も速い。
腹部の筋肉は、前回より強く緊張していた。
青洲は意識を集中させた。
【医神の眼】
第三段階【臓器透視】。
皮膚の向こうに、腹腔内の構造が鮮明に浮かび上がった。
青洲は視点を右下腹部へ移した。
盲腸から伸びる虫垂は、昨夜よりも大きく腫れていた。
壁は厚みを増し、周囲の組織にも炎症が広がっている。
断面を切り替え、虫垂の壁を確認する。
(まだ穿孔はしていない。だが、このままでは危険だ)
そのとき、視界の端に淡い光が現れた。
続いて、システムメッセージが表示された。
【SYSTEM 】
【補足解析完了】
解析対象:お里
診断:急性虫垂炎
虫垂壁:腫脹増悪
周囲組織:炎症範囲拡大
穿孔:認められず
膿瘍形成:なし
【警告】
前回の解析結果と比較し、病状の進行を確認しました。
青洲は表示を確認した。
(やはり、私の見立てと一致している)
病の正体も、進行の程度も分かっている。
問題は、どのように治療するかだった。
青洲は視界を戻した。
「新吉」
「はい」
「お里の脈と熱、それから痛みの変化を記録してくれ。小さな変化でも知らせてほしい」
「承知しました」
新吉は帳面を開いた。
*
青洲は庄助を診療部屋の一角へ招いた。
お里にも声が届く距離だった。
「庄助さん。お里さんの病は、昨夜より悪くなっています」
「……やっぱり、そうですか」
「腹の内側に強い炎症が起きていると考えています。このまま進めば、命に関わる危険があります」
庄助は膝の上で拳を握った。
「先生……薬では治せんのですか」
「今ある薬では、病の原因を取り除けない可能性が高い」
「……そんな」
青洲は言葉を選んだ。
「腹を開き、病んでいるところを確かめて処置する方法があります」
庄助は顔を上げた。
「腹を……切るんですか」
「ああ。ただし、極めて危険な方法です」
青洲は、出血や感染、激しい痛みなどの危険について説明した。
成功を保証できないことも隠さなかった。
「手術をしなくても危険があります。しかし、手術そのものにも命を失う恐れがある」
庄助は何も言えなかった。
畑を耕し、季節の移り変わりとともに暮らしてきた男にとって、腹を切って病を治すという話は、想像もできないことだった。
「……おらには、難しいことは分かりません」
庄助は震える声で続けた。
「けど、お里を失うのだけは嫌なんです」
そのとき、布団から声がした。
「……先生」
青洲が振り返る。
お里は苦しそうに息をしながら、こちらを見ていた。
「……わたしも……生きたいです」
庄助は妻のそばへ戻った。
「お里……」
「……まだ、一緒に……暮らしたい……」
庄助は妻の手を握り締めた。
青洲は二人の姿を見つめた。
「その願いに応えられるよう、私も手を尽くします。ただ、治療を進める前に、どうしても確かめなければならないことがあります」
「何でしょうか」
「痛みを抑え、安全に処置できるかどうかです」
*
青洲は新吉を伴い、薬の調製部屋へ向かった。
棚には、これまで研究を続けてきた生薬が並んでいる。
曼陀羅華。
草烏頭。
青洲はそれらの容器を見つめた。
いずれも強い作用を持つ。
適切に扱えば痛みを和らげる可能性がある一方、使い方を誤れば命を奪う。
青洲は研究記録を開いた。
これまでの試験結果が、細かな文字で記されている。
単独での作用。
配合による変化。
現れた異常。
まだ解明できていない危険。
記録を追う青洲の表情が険しくなった。
強い鎮静作用が得られたとしても、それが安全な麻酔を意味するわけではない。
呼吸が弱くなれば、命に関わる。
今の華岡家には、その危険に十分対処する設備がない。
「先生、こちらの薬を使うのでしょうか」
新吉が尋ねた。
「いや。まだ使えない」
「ですが、痛みを抑える作用があると……」
「作用があることと、安全に使えることは別だ」
青洲は記録を閉じた。
「効き目が強ければよいというものではない。患者の命を守れなければ、薬とは呼べない」
新吉は黙ってうなずいた。
「先生は、腹を開くことをお考えなのですね」
「必要になる可能性は高い。だが、今のままでは危険が大きすぎる」
青洲は棚に視線を戻した。
「だからこそ、使えるものと使えないものを、はっきり見極めなければならない」
*
明け方。
青洲は新吉とともに、診療部屋に備えられた治療台を確認していた。
小刀や鋏など、先日点検した器具はすでに選んである。
今回は、それらを実際の処置に使う場合の配置を考えていた。
「新吉、ここに灯りを置いてみてくれ」
「はい」
新吉が灯明を移す。
青洲は治療台に手をかざした。
自分の手が影を作り、台の中央が暗くなる。
「これでは見えにくいな。反対側にも灯りが必要だ」
「もう一つ用意します」
「ああ。それから、器具を置く場所も決めておこう」
新吉は小さな台を運んできた。
青洲は刃物と布を置く位置を確かめた。
「使うものを探している間に、患者の状態が変わることもある。必要なものは、すぐ手に取れるようにしておきたい」
「分かりました」
青洲はさらに、清潔な布と煮沸した器具の保管方法を確認した。
新吉は一つずつ指示に従った。
だが、やがて手を止めた。
「先生……」
「どうした」
「腹を開くほどの大きな処置を、私は見たことがありません」
青洲は新吉を見た。
「怖いか」
「……はい」
新吉は正直に答えた。
「自分が何か間違えて、お里さんを傷つけてしまうのではないかと……」
「その怖さは忘れない方がいい」
「え……?」
「命を扱う以上、慎重であるべきだ。ただし、怖さに負けて必要なことまでできなくなってはいけない」
青洲は器具を布で覆った。
「分からないことがあれば、必ず聞いてくれ。勝手に判断しなくていい」
「……はい!」
新吉は深く頭を下げた。
*
朝。
加恵が診療部屋へ入ってきた。
「あなた、お里さんの様子が少し変わりました」
青洲はすぐに立ち上がった。
「どう変わった」
「先ほどまで何度も痛がっていたのですが、急に静かになったんです」
青洲の表情が引き締まった。
痛みが軽くなる。
それ自体は悪いことではない。
しかし、病状によっては危険な変化を意味することもある。
青洲は急いで枕元へ向かった。
「お里、聞こえるか」
「……はい……」
「痛みはどうだ」
「……少し、楽に……」
庄助が顔を上げた。
「先生、よくなってきたんでしょうか」
青洲は脈を確かめた。
依然として速い。
腹部の緊張も残っている。
青洲は再び【医神の眼】を発動した。
右下腹部に視線を集中させる。
虫垂の壁はまだ保たれていた。
しかし、炎症は周囲へさらに広がり、腹膜にも刺激が及んでいる。
(痛みは軽くなっているが、病状は改善していない)
その直後、システムメッセージが表示された。
【SYSTEM 】
【補足解析完了】
虫垂壁:著明な腫脹
周囲炎症:進行
穿孔:認められず
腹膜刺激所見:増強
【警告】
自覚症状の軽減と病状の改善は一致していません。
青洲は表示を消した。
「庄助さん。痛みが少し軽くなったからといって、安心はできません」
「……そうですか」
「今も腹の内側では、病が進んでいる可能性があります」
庄助の表情が曇った。
*
昼前。
青洲は診療部屋を離れ、庭に面した縁側に腰を下ろした。
冷たい風が頬を撫でる。
目の前には、冬枯れの庭が広がっていた。
自分には病の正体が分かっている。
病変の位置も、広がりも、正確に把握できる。
しかし、治療を行うには、それだけでは足りない。
青洲は両手を見つめた。
この手には、前世で積み重ねた外科医としての技術がある。
だが、手術とは技術だけで成り立つものではない。
患者の状態。
使用する器具。
痛みへの対処。
出血や感染への備え。
そのすべてが関わっている。
今の自分にできることは何か。
青洲は静かに考え続けた。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「あなた」
加恵だった。
「少しはお休みになってください」
「ああ。心配をかけてすまない」
加恵は隣に腰を下ろした。
「お里さんのことを考えていらっしゃるのですね」
「そうだ」
「……助けられそうですか」
青洲はすぐには答えなかった。
「助けたい。だが、そのために何をするべきか、まだ決め切れていない」
加恵は静かにうなずいた。
「あなたがそれほど悩まれるのなら、簡単なことではないのでしょう」
「ああ」
「でも、お里さんも庄助さんも、あなたを頼りにしています」
青洲は妻を見た。
「分かっている」
加恵は立ち上がった。
「私は、できることをしておきますね」
「ありがとう」
*
その日の午後。
青洲が診療部屋へ戻ると、新吉が帳面を手に待っていた。
「先生、お里さんの脈が、また速くなっています」
青洲はすぐに診察した。
お里の顔色は悪く、呼吸も浅い。
腹部の緊張はさらに強くなっていた。
青洲は【医神の眼】を使った。
右下腹部の虫垂は、さらに腫れ上がっていた。
壁の一部は薄くなり、周囲の炎症も強まっている。
(……危険な状態だ。これ以上待つのは難しい)
そのとき、視界に新たな表示が現れた。
【SYSTEM 】
【補足解析完了】
虫垂壁:局所的な菲薄化を確認
周囲炎症:増悪
穿孔:現時点では認められず
【警告】
病状の進行を確認。
穿孔の危険性が上昇しています。
早急な治療判断が必要です。
青洲は静かに息を吐いた。
これ以上、ただ待ち続けるわけにはいかない。
だが、安全な麻酔がないまま腹を開く危険も、決して軽くはなかった。
青洲は新吉を振り返った。
「先ほど準備した器具は、そのままにしてあるか」
「はい。いつでも使えるようにしてあります」
「分かった」
青洲はお里の枕元に座った。
「お里。今から大切な話をする」
お里は弱々しく目を開いた。
庄助も身を寄せる。
「腹の病は、さらに進んでいる。これ以上悪くなれば、命を救うことが難しくなる」
庄助は息をのんだ。
「……先生」
「私は、腹を開いて病の原因を取り除くことを、真剣に考えています」
お里は青洲を見つめた。
「……それで、助かるのでしょうか」
「助かる可能性はあります。しかし、手術そのものにも大きな危険があります」
青洲は言葉を続けた。
「特に、痛みを十分に抑える方法がまだありません。そこを解決せずに進めば、命を危険にさらすことになります」
庄助が震える声で尋ねた。
「……先生、それでも方法を探してくださるんですか」
「ああ」
青洲は迷わず答えた。
「最後まで考えます」
お里の目から、一筋の涙がこぼれた。
「……お願いします……」
青洲は静かにうなずいた。
そして立ち上がった。
「新吉。研究記録を持ってきてくれ」
「はい!」
「それから、これまでの薬の試験結果を、もう一度整理したい」
新吉は急いで部屋を出た。
青洲は薬棚の方を見た。
まだ安全性を確かめられていない麻酔薬を、安易に患者へ使うことはできない。
だが、研究を重ねてきた記録の中に、今の判断に役立つものがあるかもしれない。
異世界の神から与えられたスキルが示す病状は、確実に悪化している。
残された時間は多くない。
青洲は再びお里に視線を向けた。
命を救うために必要なのは、勇気だけではない。
正しい知識と、慎重な判断。
そして、決断すべき時を見誤らないことだった。
青洲は静かに拳を握った。
その決断の時が、すぐそこまで迫っていた。




