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世界No.1の外科医、異世界転生!?  作者: 阿門 甲斐吽


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【第50話】命を救うための決断


天明(てんめい)六年(ろくねん)、冬(ふゆ)。


夜半(やはん)を過(す)ぎても、華岡家(はなおかけ)の診療部屋(しんりょうべや)には灯(ひ)がともっていた。


畳(たたみ)に敷(し)かれた布団(ふとん)の中(なか)で、お里(さと)が苦(くる)しそうに息(いき)をしている。


夫(おっと)の庄助(しょうすけ)は枕元(まくらもと)に座(すわ)り、妻(つま)の額(ひたい)に浮(う)かぶ汗(あせ)を布(ぬの)で拭(ぬぐ)っていた。


「……庄助(しょうすけ)さん」


「どうした、お里(さと)。水(みず)が欲(ほ)しいんか」


「……ごめんなさい。畑(はたけ)の仕事(しごと)もあるのに……」


「そんなこと、気(き)にせんでええ。畑(はたけ)は逃(に)げたりせん」


庄助(しょうすけ)は妻(つま)の手(て)を包(つつ)み込(こ)んだ。


「おらは、お前(まえ)が元気(げんき)になってくれたら、それでええんじゃ」


お里(さと)はかすかに笑(わら)った。


しかし、次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)、右(みぎ)の下腹(したはら)に激(はげ)しい痛(いた)みが走(はし)った。


「……うっ!」


「先生(せんせい)! お里(さと)が!」


庄助(しょうすけ)の声(こえ)に、青洲(せいしゅう)がすぐに近(ちか)づいた。


「お里(さと)、痛(いた)みが強(つよ)くなったのか」


「……はい……右(みぎ)の下(した)が……」


青洲(せいしゅう)は脈(みゃく)を取(と)り、腹部(ふくぶ)を慎重(しんちょう)に診察(しんさつ)した。


熱(ねつ)は高(たか)く、脈(みゃく)も速(はや)い。


腹部(ふくぶ)の筋肉(きんにく)は、前回(ぜんかい)より強(つよ)く緊張(きんちょう)していた。


青洲(せいしゅう)は意識(いしき)を集中(しゅうちゅう)させた。


【医神(いしん)の眼(め)】


第三段階(だいさんだんかい)【臓器透視(ぞうきとうし)】。


皮膚(ひふ)の向(む)こうに、腹腔内(ふくくうない)の構造(こうぞう)が鮮明(せんめい)に浮(う)かび上(あ)がった。


青洲(せいしゅう)は視点(してん)を右下腹部(みぎかふくぶ)へ移(うつ)した。


盲腸(もうちょう)から伸(の)びる虫垂(ちゅうすい)は、昨夜(さくや)よりも大(おお)きく腫(は)れていた。


壁(かべ)は厚(あつ)みを増(ま)し、周囲(しゅうい)の組織(そしき)にも炎症(えんしょう)が広(ひろ)がっている。


断面(だんめん)を切(き)り替(か)え、虫垂(ちゅうすい)の壁(かべ)を確認(かくにん)する。


(まだ穿孔(せんこう)はしていない。だが、このままでは危険(きけん)だ)


そのとき、視界(しかい)の端(はし)に淡(あわ)い光(ひかり)が現(あらわ)れた。


続(つづ)いて、システムメッセージが表示(ひょうじ)された。


【SYSTEM (システム)】


【補足解析完了《ほそくかいせきかんりょう》】


解析対象(かいせきたいしょう):お里(さと)


診断(しんだん):急性虫垂炎《きゅうせいちゅうすいえん》


虫垂壁(ちゅうすいへき):腫脹増悪(しゅちょうぞうあく)


周囲組織(しゅういそしき):炎症範囲拡大《えんしょうはんいかくだい》


穿孔(せんこう):認(みと)められず


膿瘍形成(のうようけいせい):なし


【警告(けいこく)】


前回(ぜんかい)の解析結果(かいせきけっか)と比較(ひかく)し、病状(びょうじょう)の進行(しんこう)を確認(かくにん)しました。


青洲(せいしゅう)は表示(ひょうじ)を確認(かくにん)した。


(やはり、私(わたし)の見立(みた)てと一致(いっち)している)


病(やまい)の正体(しょうたい)も、進行(しんこう)の程度(ていど)も分(わ)かっている。


問題(もんだい)は、どのように治療(ちりょう)するかだった。


青洲(せいしゅう)は視界(しかい)を戻(もど)した。


「新吉(しんきち)」


「はい」


「お里(さと)の脈(みゃく)と熱(ねつ)、それから痛(いた)みの変化(へんか)を記録(きろく)してくれ。小(ちい)さな変化(へんか)でも知(し)らせてほしい」


「承知(しょうち)しました」


新吉(しんきち)は帳面(ちょうめん)を開(ひら)いた。


*


青洲(せいしゅう)は庄助(しょうすけ)を診療部屋(しんりょうべや)の一角(いっかく)へ招(まね)いた。


お里(さと)にも声(こえ)が届(とど)く距離(きょり)だった。


「庄助(しょうすけ)さん。お里(さと)さんの病(やまい)は、昨夜(さくや)より悪(わる)くなっています」


「……やっぱり、そうですか」


「腹(はら)の内側(うちがわ)に強(つよ)い炎症(えんしょう)が起(お)きていると考(かんが)えています。このまま進(すす)めば、命(いのち)に関(かか)わる危険(きけん)があります」


庄助(しょうすけ)は膝(ひざ)の上(うえ)で拳(こぶし)を握(にぎ)った。


「先生(せんせい)……薬(くすり)では治(なお)せんのですか」


「今(いま)ある薬(くすり)では、病(やまい)の原因(げんいん)を取(と)り除(のぞ)けない可能性(かのうせい)が高(たか)い」


「……そんな」


青洲(せいしゅう)は言葉(ことば)を選(えら)んだ。


「腹(はら)を開(ひら)き、病(や)んでいるところを確(たし)かめて処置(しょち)する方法(ほうほう)があります」


庄助(しょうすけ)は顔(かお)を上(あ)げた。


「腹(はら)を……切(き)るんですか」


「ああ。ただし、極(きわ)めて危険(きけん)な方法(ほうほう)です」


青洲(せいしゅう)は、出血(しゅっけつ)や感染(かんせん)、激(はげ)しい痛(いた)みなどの危険(きけん)について説明(せつめい)した。


成功(せいこう)を保証(ほしょう)できないことも隠(かく)さなかった。


「手術(しゅじゅつ)をしなくても危険(きけん)があります。しかし、手術(しゅじゅつ)そのものにも命(いのち)を失(うしな)う恐(おそ)れがある」


庄助(しょうすけ)は何(なに)も言(い)えなかった。


畑(はたけ)を耕(たがや)し、季節(きせつ)の移(うつ)り変(か)わりとともに暮(く)らしてきた男(おとこ)にとって、腹(はら)を切(き)って病(やまい)を治(なお)すという話(はなし)は、想像(そうぞう)もできないことだった。


「……おらには、難(むずか)しいことは分(わ)かりません」


庄助(しょうすけ)は震(ふる)える声(こえ)で続(つづ)けた。


「けど、お里(さと)を失(うしな)うのだけは嫌(いや)なんです」


そのとき、布団(ふとん)から声(こえ)がした。


「……先生(せんせい)」


青洲(せいしゅう)が振(ふ)り返(かえ)る。


お里(さと)は苦(くる)しそうに息(いき)をしながら、こちらを見(み)ていた。


「……わたしも……生(い)きたいです」


庄助(しょうすけ)は妻(つま)のそばへ戻(もど)った。


「お里(さと)……」


「……まだ、一緒(いっしょ)に……暮(く)らしたい……」


庄助(しょうすけ)は妻(つま)の手(て)を握(にぎ)り締(し)めた。


青洲(せいしゅう)は二人(ふたり)の姿(すがた)を見(み)つめた。


「その願(ねが)いに応(こた)えられるよう、私(わたし)も手(て)を尽(つ)くします。ただ、治療(ちりょう)を進(すす)める前(まえ)に、どうしても確(たし)かめなければならないことがあります」


「何(なん)でしょうか」


「痛(いた)みを抑(おさ)え、安全(あんぜん)に処置(しょち)できるかどうかです」


*


青洲(せいしゅう)は新吉(しんきち)を伴(ともな)い、薬(くすり)の調製部屋(ちょうせいべや)へ向(む)かった。


棚(たな)には、これまで研究(けんきゅう)を続(つづ)けてきた生薬(しょうやく)が並(なら)んでいる。


曼陀羅華(まんだらげ)。


草烏頭(とりかぶと)。


青洲(せいしゅう)はそれらの容器(ようき)を見(み)つめた。


いずれも強(つよ)い作用(さよう)を持(も)つ。


適切(てきせつ)に扱(あつか)えば痛(いた)みを和(やわ)らげる可能性(かのうせい)がある一方(いっぽう)、使(つか)い方(かた)を誤(あやま)れば命(いのち)を奪(うば)う。


青洲(せいしゅう)は研究記録(けんきゅうきろく)を開(ひら)いた。


これまでの試験結果(しけんけっか)が、細(こま)かな文字(もじ)で記(しる)されている。


単独(たんどく)での作用(さよう)。


配合(はいごう)による変化(へんか)。


現(あらわ)れた異常(いじょう)。


まだ解明(かいめい)できていない危険(きけん)。


記録(きろく)を追(お)う青洲(せいしゅう)の表情(ひょうじょう)が険(けわ)しくなった。


強(つよ)い鎮静作用(ちんせいさよう)が得(え)られたとしても、それが安全(あんぜん)な麻酔(ますい)を意味(いみ)するわけではない。


呼吸(こきゅう)が弱(よわ)くなれば、命(いのち)に関(かか)わる。


今(いま)の華岡家(はなおかけ)には、その危険(きけん)に十分(じゅうぶん)対処(たいしょ)する設備(せつび)がない。


「先生(せんせい)、こちらの薬(くすり)を使(つか)うのでしょうか」


新吉(しんきち)が尋(たず)ねた。


「いや。まだ使(つか)えない」


「ですが、痛(いた)みを抑(おさ)える作用(さよう)があると……」


「作用(さよう)があることと、安全(あんぜん)に使(つか)えることは別(べつ)だ」


青洲(せいしゅう)は記録(きろく)を閉(と)じた。


「効(き)き目(め)が強(つよ)ければよいというものではない。患者(かんじゃ)の命(いのち)を守(まも)れなければ、薬(くすり)とは呼(よ)べない」


新吉(しんきち)は黙(だま)ってうなずいた。


「先生(せんせい)は、腹(はら)を開(ひら)くことをお考(かんが)えなのですね」


「必要(ひつよう)になる可能性(かのうせい)は高(たか)い。だが、今(いま)のままでは危険(きけん)が大(おお)きすぎる」


青洲(せいしゅう)は棚(たな)に視線(しせん)を戻(もど)した。


「だからこそ、使(つか)えるものと使(つか)えないものを、はっきり見極(みきわ)めなければならない」


*


明(あ)け方(がた)。


青洲(せいしゅう)は新吉(しんきち)とともに、診療部屋(しんりょうべや)に備(そな)えられた治療台(ちりょうだい)を確認(かくにん)していた。


小刀(こがたな)や鋏(はさみ)など、先日(せんじつ)点検(てんけん)した器具(きぐ)はすでに選(えら)んである。


今回(こんかい)は、それらを実際(じっさい)の処置(しょち)に使(つか)う場合(ばあい)の配置(はいち)を考(かんが)えていた。


「新吉(しんきち)、ここに灯(あか)りを置(お)いてみてくれ」


「はい」


新吉(しんきち)が灯明(とうみょう)を移(うつ)す。


青洲(せいしゅう)は治療台(ちりょうだい)に手(て)をかざした。


自分(じぶん)の手(て)が影(かげ)を作(つく)り、台(だい)の中央(ちゅうおう)が暗(くら)くなる。


「これでは見(み)えにくいな。反対側(はんたいがわ)にも灯(あか)りが必要(ひつよう)だ」


「もう一(ひと)つ用意(ようい)します」


「ああ。それから、器具(きぐ)を置(お)く場所(ばしょ)も決(き)めておこう」


新吉(しんきち)は小(ちい)さな台(だい)を運(はこ)んできた。


青洲(せいしゅう)は刃物(はもの)と布(ぬの)を置(お)く位置(いち)を確(たし)かめた。


「使(つか)うものを探(さが)している間(あいだ)に、患者(かんじゃ)の状態(じょうたい)が変(か)わることもある。必要(ひつよう)なものは、すぐ手(て)に取(と)れるようにしておきたい」


「分(わ)かりました」


青洲(せいしゅう)はさらに、清潔(せいけつ)な布(ぬの)と煮沸(しゃふつ)した器具(きぐ)の保管方法(ほかんほうほう)を確認(かくにん)した。


新吉(しんきち)は一(ひと)つずつ指示(しじ)に従(したが)った。


だが、やがて手(て)を止(と)めた。


「先生(せんせい)……」


「どうした」


「腹(はら)を開(ひら)くほどの大(おお)きな処置(しょち)を、私(わたし)は見(み)たことがありません」


青洲(せいしゅう)は新吉(しんきち)を見(み)た。


「怖(こわ)いか」


「……はい」


新吉(しんきち)は正直(しょうじき)に答(こた)えた。


「自分(じぶん)が何(なに)か間違(まちが)えて、お里(さと)さんを傷(きず)つけてしまうのではないかと……」


「その怖(こわ)さは忘(わす)れない方(ほう)がいい」


「え……?」


「命(いのち)を扱(あつか)う以上(いじょう)、慎重(しんちょう)であるべきだ。ただし、怖(こわ)さに負(ま)けて必要(ひつよう)なことまでできなくなってはいけない」


青洲(せいしゅう)は器具(きぐ)を布(ぬの)で覆(おお)った。


「分(わ)からないことがあれば、必(かなら)ず聞(き)いてくれ。勝手(かって)に判断(はんだん)しなくていい」


「……はい!」


新吉(しんきち)は深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げた。


*


朝(あさ)。


加恵(かえ)が診療部屋(しんりょうべや)へ入(はい)ってきた。


「あなた、お里(さと)さんの様子(ようす)が少(すこ)し変(か)わりました」


青洲(せいしゅう)はすぐに立(た)ち上(あ)がった。


「どう変(か)わった」


「先(さき)ほどまで何度(なんど)も痛(いた)がっていたのですが、急(きゅう)に静(しず)かになったんです」


青洲(せいしゅう)の表情(ひょうじょう)が引(ひ)き締(し)まった。


痛(いた)みが軽(かる)くなる。


それ自体(じたい)は悪(わる)いことではない。


しかし、病状(びょうじょう)によっては危険(きけん)な変化(へんか)を意味(いみ)することもある。


青洲(せいしゅう)は急(いそ)いで枕元(まくらもと)へ向(む)かった。


「お里(さと)、聞(き)こえるか」


「……はい……」


「痛(いた)みはどうだ」


「……少(すこ)し、楽(らく)に……」


庄助(しょうすけ)が顔(かお)を上(あ)げた。


「先生(せんせい)、よくなってきたんでしょうか」


青洲(せいしゅう)は脈(みゃく)を確(たし)かめた。


依然(いぜん)として速(はや)い。


腹部(ふくぶ)の緊張(きんちょう)も残(のこ)っている。


青洲(せいしゅう)は再(ふたた)び【医神(いしん)の眼(め)】を発動(はつどう)した。


右下腹部(みぎかふくぶ)に視線(しせん)を集中(しゅうちゅう)させる。


虫垂(ちゅうすい)の壁(かべ)はまだ保(たも)たれていた。


しかし、炎症(えんしょう)は周囲(しゅうい)へさらに広(ひろ)がり、腹膜(ふくまく)にも刺激(しげき)が及(およ)んでいる。


(痛(いた)みは軽(かる)くなっているが、病状(びょうじょう)は改善(かいぜん)していない)


その直後(ちょくご)、システムメッセージが表示(ひょうじ)された。


【SYSTEM (システム)】


【補足解析完了《ほそくかいせきかんりょう》】


虫垂壁(ちゅうすいへき):著明(ちょめい)な腫脹(しゅちょう)


周囲炎症(しゅういえんしょう):進行(しんこう)


穿孔(せんこう):認(みと)められず


腹膜刺激所見《ふくまくしげきしょけん》:増強(ぞうきょう)


【警告(けいこく)】


自覚症状(じかくしょうじょう)の軽減(けいげん)と病状(びょうじょう)の改善(かいぜん)は一致(いっち)していません。


青洲(せいしゅう)は表示(ひょうじ)を消(け)した。


「庄助(しょうすけ)さん。痛(いた)みが少(すこ)し軽(かる)くなったからといって、安心(あんしん)はできません」


「……そうですか」


「今(いま)も腹(はら)の内側(うちがわ)では、病(やまい)が進(すす)んでいる可能性(かのうせい)があります」


庄助(しょうすけ)の表情(ひょうじょう)が曇(くも)った。


*


昼前(ひるまえ)。


青洲(せいしゅう)は診療部屋(しんりょうべや)を離(はな)れ、庭(にわ)に面(めん)した縁側(えんがわ)に腰(こし)を下(お)ろした。


冷(つめ)たい風(かぜ)が頬(ほお)を撫(な)でる。


目(め)の前(まえ)には、冬枯(ふゆが)れの庭(にわ)が広(ひろ)がっていた。


自分(じぶん)には病(やまい)の正体(しょうたい)が分(わ)かっている。


病変(びょうへん)の位置(いち)も、広(ひろ)がりも、正確(せいかく)に把握(はあく)できる。


しかし、治療(ちりょう)を行(おこな)うには、それだけでは足(た)りない。


青洲(せいしゅう)は両手(りょうて)を見(み)つめた。


この手(て)には、前世(ぜんせ)で積(つ)み重(かさ)ねた外科医(げかい)としての技術(ぎじゅつ)がある。


だが、手術(しゅじゅつ)とは技術(ぎじゅつ)だけで成(な)り立(た)つものではない。


患者(かんじゃ)の状態(じょうたい)。


使用(しよう)する器具(きぐ)。


痛(いた)みへの対処(たいしょ)。


出血(しゅっけつ)や感染(かんせん)への備(そな)え。


そのすべてが関(かか)わっている。


今(いま)の自分(じぶん)にできることは何(なに)か。


青洲(せいしゅう)は静(しず)かに考(かんが)え続(つづ)けた。


そのとき、背後(はいご)から足音(あしおと)が聞(き)こえた。


「あなた」


加恵(かえ)だった。


「少(すこ)しはお休(やす)みになってください」


「ああ。心配(しんぱい)をかけてすまない」


加恵(かえ)は隣(となり)に腰(こし)を下(お)ろした。


「お里(さと)さんのことを考(かんが)えていらっしゃるのですね」


「そうだ」


「……助(たす)けられそうですか」


青洲(せいしゅう)はすぐには答(こた)えなかった。


「助(たす)けたい。だが、そのために何(なに)をするべきか、まだ決(き)め切(き)れていない」


加恵(かえ)は静(しず)かにうなずいた。


「あなたがそれほど悩(なや)まれるのなら、簡単(かんたん)なことではないのでしょう」


「ああ」


「でも、お里(さと)さんも庄助(しょうすけ)さんも、あなたを頼(たよ)りにしています」


青洲(せいしゅう)は妻(つま)を見(み)た。


「分(わ)かっている」


加恵(かえ)は立(た)ち上(あ)がった。


「私(わたし)は、できることをしておきますね」


「ありがとう」


*


その日(ひ)の午後(ごご)。


青洲(せいしゅう)が診療部屋(しんりょうべや)へ戻(もど)ると、新吉(しんきち)が帳面(ちょうめん)を手(て)に待(ま)っていた。


「先生(せんせい)、お里(さと)さんの脈(みゃく)が、また速(はや)くなっています」


青洲(せいしゅう)はすぐに診察(しんさつ)した。


お里(さと)の顔色(かおいろ)は悪(わる)く、呼吸(こきゅう)も浅(あさ)い。


腹部(ふくぶ)の緊張(きんちょう)はさらに強(つよ)くなっていた。


青洲(せいしゅう)は【医神(いしん)の眼(め)】を使(つか)った。


右下腹部(みぎかふくぶ)の虫垂(ちゅうすい)は、さらに腫(は)れ上(あ)がっていた。


壁(かべ)の一部(いちぶ)は薄(うす)くなり、周囲(しゅうい)の炎症(えんしょう)も強(つよ)まっている。


(……危険(きけん)な状態(じょうたい)だ。これ以上(いじょう)待(ま)つのは難(むずか)しい)


そのとき、視界(しかい)に新(あら)たな表示(ひょうじ)が現(あらわ)れた。


【SYSTEM (システム)】


【補足解析完了《ほそくかいせきかんりょう》】


虫垂壁(ちゅうすいへき):局所的(きょくしょてき)な菲薄化(ひはくか)を確認(かくにん)


周囲炎症(しゅういえんしょう):増悪(ぞうあく)


穿孔(せんこう):現時点(げんじてん)では認(みと)められず


【警告(けいこく)】


病状(びょうじょう)の進行(しんこう)を確認(かくにん)。


穿孔(せんこう)の危険性(きけんせい)が上昇(じょうしょう)しています。


早急(さっきゅう)な治療判断(ちりょうはんだん)が必要(ひつよう)です。


青洲(せいしゅう)は静(しず)かに息(いき)を吐(は)いた。


これ以上(いじょう)、ただ待(ま)ち続(つづ)けるわけにはいかない。


だが、安全(あんぜん)な麻酔(ますい)がないまま腹(はら)を開(ひら)く危険(きけん)も、決(けっ)して軽(かる)くはなかった。


青洲(せいしゅう)は新吉(しんきち)を振(ふ)り返(かえ)った。


「先(さき)ほど準備(じゅんび)した器具(きぐ)は、そのままにしてあるか」


「はい。いつでも使(つか)えるようにしてあります」


「分(わ)かった」


青洲(せいしゅう)はお里(さと)の枕元(まくらもと)に座(すわ)った。


「お里(さと)。今(いま)から大切(たいせつ)な話(はなし)をする」


お里(さと)は弱々(よわよわ)しく目(め)を開(ひら)いた。


庄助(しょうすけ)も身(み)を寄(よ)せる。


「腹(はら)の病(やまい)は、さらに進(すす)んでいる。これ以上(いじょう)悪(わる)くなれば、命(いのち)を救(すく)うことが難(むずか)しくなる」


庄助(しょうすけ)は息(いき)をのんだ。


「……先生(せんせい)」


「私(わたし)は、腹(はら)を開(ひら)いて病(やまい)の原因(げんいん)を取(と)り除(のぞ)くことを、真剣(しんけん)に考(かんが)えています」


お里(さと)は青洲(せいしゅう)を見(み)つめた。


「……それで、助(たす)かるのでしょうか」


「助(たす)かる可能性(かのうせい)はあります。しかし、手術(しゅじゅつ)そのものにも大(おお)きな危険(きけん)があります」


青洲(せいしゅう)は言葉(ことば)を続(つづ)けた。


「特(とく)に、痛(いた)みを十分(じゅうぶん)に抑(おさ)える方法(ほうほう)がまだありません。そこを解決(かいけつ)せずに進(すす)めば、命(いのち)を危険(きけん)にさらすことになります」


庄助(しょうすけ)が震(ふる)える声(こえ)で尋(たず)ねた。


「……先生(せんせい)、それでも方法(ほうほう)を探(さが)してくださるんですか」


「ああ」


青洲(せいしゅう)は迷(まよ)わず答(こた)えた。


「最後(さいご)まで考(かんが)えます」


お里(さと)の目(め)から、一筋(ひとすじ)の涙(なみだ)がこぼれた。


「……お願(ねが)いします……」


青洲(せいしゅう)は静(しず)かにうなずいた。


そして立(た)ち上(あ)がった。


「新吉(しんきち)。研究記録(けんきゅうきろく)を持(も)ってきてくれ」


「はい!」


「それから、これまでの薬(くすり)の試験結果(しけんけっか)を、もう一度(いちど)整理(せいり)したい」


新吉(しんきち)は急(いそ)いで部屋(へや)を出(で)た。


青洲(せいしゅう)は薬棚(くすりだな)の方(ほう)を見(み)た。


まだ安全性(あんぜんせい)を確(たし)かめられていない麻酔薬(ますいやく)を、安易(あんい)に患者(かんじゃ)へ使(つか)うことはできない。


だが、研究(けんきゅう)を重(かさ)ねてきた記録(きろく)の中(なか)に、今(いま)の判断(はんだん)に役立(やくだ)つものがあるかもしれない。


異世界(いせかい)の神(かみ)から与(あた)えられたスキルが示(しめ)す病状(びょうじょう)は、確実(かくじつ)に悪化(あっか)している。


残(のこ)された時間(じかん)は多(おお)くない。


青洲(せいしゅう)は再(ふたた)びお里(さと)に視線(しせん)を向(む)けた。


命(いのち)を救(すく)うために必要(ひつよう)なのは、勇気(ゆうき)だけではない。


正(ただ)しい知識(ちしき)と、慎重(しんちょう)な判断(はんだん)。


そして、決断(けつだん)すべき時(とき)を見誤(みあやま)らないことだった。


青洲(せいしゅう)は静(しず)かに拳(こぶし)を握(にぎ)った。


その決断(けつだん)の時(とき)が、すぐそこまで迫(せま)っていた。



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