【第49話】見えない痛み
天明六年、冬。
夜明けの光が、華岡家の庭に差し込んでいた。
療養部屋では、小春が布団の中で目を覚ましていた。
華岡家へ運ばれてから、八日目の朝だった。
昨日、新吉と加恵に支えられ、初めて自分の足で立つことができた。
ほんのわずかな時間だったが、畳を踏みしめた感触は、今も鮮明に残っている。
小春は掛け布団の下で膝を曲げた。
「……いたた」
太腿に鈍い痛みが走る。
それでも、口元には笑みが浮かんだ。
「小春ちゃん、おはよう」
障子が開き、加恵が朝餉を載せた膳を運んできた。
温かな粥と少量の汁物、それに白湯が添えられている。
「おはようございます、加恵さん」
「今朝は顔色がいいですね」
「はい。お腹もすいています」
加恵は小春の背中を支え、上体を起こした。
背後に重ねた布団を当て、姿勢が安定したところで膳を寄せる。
小春は小さな木匙を取り、粥を口へ運んだ。
「……おいしい」
以前は数口でも苦しかった食事が、今では楽しみになっていた。
途中で休みながら食べ終えると、小春は加恵に尋ねた。
「あの、新吉さんに文字を教えていただいてもいいですか」
「文字を?」
「はい。自分の名前を書けるようになりたいんです」
加恵は微笑んだ。
「それなら、先生にも相談してみましょう」
*
朝餉を終えた青洲が、新吉を伴って療養部屋を訪れた。
「小春、足の具合はどうだ」
「少し痛いです。でも、昨日より元気な気がします」
青洲は足を診察した。
腫れや熱はなく、脈も落ち着いている。
「今日は立つ練習を休もう」
「……そうですか」
残念そうな声に、新吉が笑った。
「その代わり、文字の練習をしましょうか」
小春の表情が一変した。
「本当ですか!」
「先生、よろしいでしょうか」
「ああ。疲れない程度にな」
「ありがとうございます!」
小春は布団の中から二人を見上げ、うれしそうに笑った。
*
昼前。
新吉は小さな板と紙、筆と墨を持ってきた。
加恵が小春の上体を支え、背中に布団を当てる。
新吉は少女の膝元に板を置いた。
「まずは名前から始めましょう」
紙に二つの文字を書く。
『小春』
「これが、小春さんのお名前です」
少女はじっと見つめた。
「……母が、教えてくれたことがあります」
「そうなんですか」
「春に生まれたから、小春って名前にしたんだって」
懐かしそうな声だった。
「いい名前ですね」
「……はい」
小春は筆を受け取った。
震える指先で最初の一画を書く。
線は曲がり、墨がにじんだ。
「難しいですね」
「最初は誰でもそうですよ」
新吉は隣に手本を書いた。
小春はそれを見ながら、もう一度筆を動かした。
今度は少しだけ形が整った。
「新吉さん」
「はい」
「わたしも、いつか帳面を書けますか」
「もちろんです」
「今日できたこととか、忘れたくないことを残したいんです」
新吉は少女の書いた文字を見た。
「では、今日の一枚目は大切に取っておきましょう」
小春は何度もうなずいた。
*
その頃、青洲は診療部屋で生薬を整理していた。
突然、表から男の叫び声が響いた。
「先生! 妻を診てください!」
戸を開けると、三十代ほどの男が女を支えていた。
女は腹を押さえ、立っているのもつらそうだった。
「中へ。すぐに横になってもらおう」
青洲は新吉を呼んだ。
新吉は診療部屋の畳に布団を敷き、庄助とともにお里をゆっくりと横たえた。
「名前は?」
「妻は、お里です。おらは庄助と申します」
青洲はお里のそばに膝をついた。
「いつから痛む」
「……朝方から……」
「最初から、そこが痛かったのか」
「初めは……おへそのあたりが……」
庄助が続けた。
「昼前から右の下腹を痛がるようになりまして。吐いたのも一度……」
青洲は額に触れ、脈を取った。
発熱があり、脈も速い。
「腹に触れるぞ」
右下腹を慎重に押すと、お里の体が強張った。
「……痛いっ!」
青洲は手を離した。
脳裏に、一つの病名が浮かぶ。
急性虫垂炎。
ただし、女性の下腹部痛には別の原因もある。
青洲は月経の時期や妊娠の可能性を尋ね、答えを確かめた。
新吉は診察の経過を帳面に記している。
青洲はお里の腹部に視線を戻した。
【医神の眼】
第三段階【臓器透視】。
意識を集中させると、視界が静かに切り替わった。
皮膚の向こうに臓器の輪郭が浮かぶ。
さらに意識を向けると、腹部が幾重もの断面となって映し出された。
2025年のCT画像を思わせる鮮明さだった。
腸管の位置、周囲の組織、血管の走行。
視点を変えれば、それらを立体的に確認することもできた。
そして、右下腹部。
盲腸から伸びる虫垂が腫れ上がっている。
壁は厚く、内部には硬い塊が詰まっていた。
周囲の組織にも炎症が及んでいる。
青洲はさらに詳しく調べた。
虫垂の壁に穿孔はない。
膿瘍も形成されていない。
骨盤内にも、今回の痛みを説明する別の異常は見当たらなかった。
急性虫垂炎。
診断は確定した。
青洲は視界を元に戻した。
頭痛も疲労もない。
【医神の眼】は、驚くほど正確に病変を映し出していた。
しかし、青洲の表情は険しかった。
*
「先生、お里さんは、初めにへその辺りが痛み、今は右の下腹をひどく痛がっています。熱もあり、脈も速いようですが……」
新吉は帳面から顔を上げた。
「腹の中で、何か悪いことが起きているのでしょうか」
青洲はすぐには答えなかった。
【医神の眼】によって、虫垂の腫れも、その内部に詰まった硬い塊も、すでに確認している。
だが、それを新吉に説明するわけにはいかなかった。
腹を開いてもいないのに、臓器の状態を詳しく知っているなど、この時代の医師には考えられないことだからだ。
「痛みの移り方と熱、それに腹を押したときの反応から考えると、腹の内側に強い炎症が起きている可能性がある」
「腹の内側に……」
「ああ。ただの腹下しや食あたりとは様子が違う。今は痛む場所だけでなく、熱や脈の変化にも注意しなければならない」
新吉は真剣な表情でうなずいた。
「では、腹の痛みが強くなったり、熱が上がったりすれば、病が進んでいるということでしょうか」
「その可能性はある。だが、痛みが急に軽くなったとしても、安心してはいけない場合がある」
「痛みが軽くなっても、ですか」
「そうだ。腹の病には、表に現れる痛みだけでは判断できないものがある」
新吉はその言葉を帳面に書き留めた。
青洲はお里へ視線を向けた。
自分には、病の正体がはっきりと見えている。
だが、弟子に伝えられるのは、診察によって推測できる範囲までだった。
「先生……妻は助かるのでしょうか」
庄助が震える声で尋ねた。
青洲はお里を見つめた。
「今はまだ、手を尽くせる。だが、病が進めば命に関わる」
「どうか、助けてください……」
庄助は妻の手を握り締めた。
「できる限りのことをする」
青洲はそう答えた。
その言葉の重さを、誰よりも自分が理解していた。
*
夕刻。
小春は布団に横になり、昼間に書いた紙を眺めていた。
少し形の崩れた文字が、いくつも並んでいる。
診療部屋から、女の苦しそうな声が聞こえた。
「……加恵さん、あの方は大丈夫でしょうか」
「先生が診ていらっしゃいますよ」
小春は紙をそっと脇に置いた。
「わたしも、ここに来たときは怖かったです」
加恵は少女の顔を見た。
「そうでしたね」
「……あの方も、早く元気になるといいですね」
加恵は静かにうなずいた。
*
夜。
診療部屋には灯がともっていた。
お里は畳に敷かれた布団の中で、痛む腹をかばうように体を丸めていた。額には汗がにじみ、浅く速い呼吸を繰り返している。
庄助は妻のそばを離れなかった。
青洲は薬棚の前で、静かに考え込んでいた。
華岡蒼真。
それが、2025年に命を落とすまでの自分の名だった。
1969年に生まれ、1994年に医学部を卒業。
研修医として病院に勤め、1996年に初めて自ら執刀した。
以来、約三十年。
主執刀した手術は八千件。
助手として参加した四千件を含めれば、経験した手術は一万二千件に及ぶ。
難しい手術も数え切れないほど経験した。
世界最高峰と評されるまでになっても、救えなかった命はあった。
その悔しさを忘れたことはない。
青洲は自分の手を見つめた。
知識は残っている。
技術も失っていない。
今は、体の内部を正確に見通す眼まである。
それなのに。
目の前の患者を救うための道具が足りない。
麻酔がない。
感染に対抗する薬もない。
自分が知る治療法を、そのまま行うことができない。
「先生」
新吉が近づいてきた。
「お里さんの熱が、先ほどより高くなっています」
青洲はすぐに患者のもとへ向かった。
脈を確かめ、再び【医神の眼】を使う。
虫垂の腫れは続き、周囲の炎症も昼間より広がっていた。
まだ穿孔していない。
だが、悪化は確実に進んでいる。
青洲は新吉を振り返った。
「先日、私たちで点検した医療器具を覚えているか」
「はい。京から持ち帰られた小刀や鋏、探り針などですね」
「あの中から、腹の手術に使えるものを選びたい」
新吉の目が見開かれた。
「腹を……切るのですか」
「まだ決めたわけではない。だが、もし腹を開かなければならない事態になったときに備えておきたい」
「……承知しました」
「それから、清潔な布と、十分に沸かした湯も用意してくれ」
新吉はうなずいた。
青洲は再びお里に目を向けた。
2025年の医療技術を知る自分が、1786年の患者に何をしてやれるのか。
その答えを見つけなければならない。
青洲はお里のそばに膝をつき、静かに声をかけた。
「お里、私の声が聞こえるか」
「……はい、先生……」
「今夜は私もここにいる。痛みが変わったら、すぐに教えてくれ」
お里はかすかにうなずいた。
青洲はその手を取り、脈を確かめ続けた。
病の正体は、すでに見えている。
だが、命を救うために必要なのは、見抜く力だけではなかった。
華岡蒼真として積み重ねて来た数十年の経験が、今、まったく異なる時代で試されようとしていた。




