【第48話】立ち上がる勇気
天明六年、冬。
前日の雨が嘘のように、朝の空は澄み渡っていた。
華岡家の庭には薄い霜が降り、軒先から差し込む朝日が、濡れた飛び石を淡く照らしている。
療養部屋では、小春が布団の中から庭を眺めていた。
華岡家へ運ばれてから、七日目の朝だった。
昨日は、新吉に支えてもらいながら、いつもより長く座っていられた。
そのことがうれしくて、眠る前にも何度か思い返していた。
小春は掛け布団の下で、そっと膝を曲げた。
足を伸ばし、もう一度曲げる。
以前よりも、少しだけ動かしやすい。
「……今日は、立てるかな」
小さくつぶやいたところで、障子の向こうから足音が聞こえた。
「小春ちゃん、おはよう」
加恵だった。
「おはようございます」
「今日はよいお天気ですよ」
「はい。お庭が明るいです」
加恵は枕元に湯を置き、小春の顔をのぞき込んだ。
「昨夜は眠れましたか」
「はい。でも、朝早くに目が覚めちゃいました」
「あら、どうして?」
「……今日は、立ってみたいなって」
加恵は小さく笑った。
「それなら、先生に相談してみましょうね」
「はい!」
小春はうれしそうにうなずいた。
*
朝餉の後、青洲が新吉を伴って療養部屋へやってきた。
「小春、具合はどうだ」
「昨日より、元気です」
「そうか。では、診てみよう」
青洲は小春の手首に指を当て、脈を確かめた。
呼吸は落ち着いている。
足の甲にも、気になるむくみは見られなかった。
「昨夜、胸が苦しくなったり、気分が悪くなったりはしなかったか」
「はい。大丈夫でした」
「食事は?」
「お粥を、全部食べられました」
加恵が補足した。
「決めていただいた分を、残さず食べました」
「そうか」
青洲は新吉に目を向けた。
「昨日の記録は」
「はい。食事の後も気分は悪くならず、尿も前の日より出ています」
「分かった」
青洲が帳面を閉じると、小春が遠慮がちに口を開いた。
「……先生」
「何だ」
「今日は、立ってみてもいいですか」
青洲は少女の顔を見た。
期待と不安が入り交じった瞳だった。
「まずは座ってみよう。具合がよければ、立つところまで試してみるか」
「……本当ですか!」
「ああ。ただし、無理はせんことだ」
「はい!」
小春の返事に、加恵と新吉は顔を見合わせて微笑んだ。
*
加恵が掛け布団を脇へ寄せた。
新吉は小春の背中に手を添え、ゆっくりと体を起こすのを手伝った。
小春は両手を敷布団につき、腰を起こした。
昨日よりも、体が動く。
それでも、座った姿勢を保つと、腹や背中に力が必要だった。
「どうだ」
青洲が尋ねた。
「……大丈夫です」
「目が回る感じは?」
「ありません」
「では、少し休んでから次を試そう」
小春は座ったまま、ゆっくり呼吸を整えた。
新吉が背中を支えている。
加恵は少女の肩からずり落ちた着物を直した。
しばらくして、青洲が声をかけた。
「小春、立つには足に力を入れねばならん。二人に支えてもらいながら、やってみよう」
「はい」
小春は敷布団の端へ少しずつ移動した。
そこから両足を引き寄せ、膝を曲げて畳に足の裏をつけた。
新吉が左側に回り、加恵が右側から体を支える。
「私たちにつかまってください」
新吉が腕を差し出した。
小春はその腕を握った。
反対側では、加恵が少女の背中と腕を支えていた。
「小春ちゃん、怖くない?」
「……少しだけ」
「大丈夫。しっかり支えていますからね」
小春はうなずいた。
青洲は正面にしゃがみ、少女の表情を確かめた。
「では、ゆっくり腰を上げてみなさい」
「……はい」
小春は両足に力を込めた。
だが、腰は思うように浮かなかった。
「……あれ?」
少女は困った顔をした。
もう一度、足に力を入れる。
膝が小さく震えた。
「……重い」
自分の体が、こんなにも重いとは思わなかった。
新吉が声をかけた。
「小春さん、私たちに体を預けてください」
「……はい」
小春は息を整えた。
そして、新吉の腕を握り直した。
「……もう一度」
青洲はうなずいた。
「よし。今度は二人にも手伝ってもらおう」
新吉と加恵が、少女の体を左右から支えた。
小春は両足の裏を畳に押しつけ、ゆっくりと腰を浮かせた。
膝が震える。
腕にも力が入る。
それでも、少しずつ体が持ち上がっていった。
そして。
「……あっ」
小春の視線が高くなった。
畳が、さっきより遠くに見える。
自分の足が、体を支えている。
「……立てた」
少女は信じられないようにつぶやいた。
新吉と加恵に大きく支えられながら、それでも小春は両足で畳を踏んでいた。
「先生……!」
小春が顔を上げた。
「わたし、立っています!」
青洲は微笑んだ。
「ああ。立てたな」
「……本当に?」
「本当だ」
小春は自分の足元を見た。
膝はまだ震えていた。
だが、確かに立っている。
「……加恵さん」
「はい」
「わたし……立てました」
加恵の目が潤んだ。
「ええ。よく頑張りましたね」
新吉も笑顔でうなずいた。
「小春さん、すごいですよ」
小春は笑おうとした。
だが、その瞬間、足の力が抜けかけた。
「……あっ」
「よし、ここまでだ」
青洲が声をかけた。
新吉と加恵はすぐに体を支え直し、小春をゆっくり畳に座らせた。
小春は息を弾ませながら、二人を見上げた。
「……もう、終わりですか」
「今日は十分だ」
青洲は手首に指を当て、脈を確かめた。
「初めて立ったのだ。今は休もう」
小春は少し名残惜しそうにしたが、やがてうなずいた。
「……はい」
加恵が敷布団を整え、新吉が少女を横たえた。
小春は天井を見つめながら、何度も小さく笑っていた。
「……立てたんだ」
その声を聞いて、青洲も静かに微笑んだ。
*
昼過ぎ。
新吉は診療部屋で、小春の様子を帳面に書き留めていた。
『本日、介助にて起立。両側より支えを受け、短く立つ。膝の震えあり。起立後、疲労を認める』
青洲がその記録をのぞき込んだ。
「よく書けている」
「ありがとうございます」
「立っていた間の様子はどうだった」
「顔色に大きな変化はありませんでした。座らせた後は息が少し速くなりましたが、休むと落ち着きました」
「それも記しておこう」
「はい」
新吉は筆を走らせた。
青洲は帳面を見ながら言った。
「今日は二人に支えられて立った。次は、どれほど自分の足に力を入れられるかを見ることになる」
「歩くのは、まだ先でしょうか」
「ああ。今の小春には、立つだけでも大仕事だ」
新吉はうなずいた。
「本人は、すぐにでも歩きたそうでした」
「そうだろうな」
青洲は小さく笑った。
「だが、あの子の足がしっかりするまでは、目を離せん」
「承知しました」
*
夕方。
青洲は弥助の家を訪ねていた。
右の股の骨を傷め、長く寝込んでいた老人である。
呼吸の具合が悪くなった夜から、幾日かが過ぎていた。
「弥助、具合はどうだ」
「先生のおかげで、息はずいぶん楽になりました」
弥助は布団の中から答えた。
そばにいた妻が頭を下げる。
「熱も前ほど出なくなりました。粥も少しずつ食べています」
「それはよかった」
青洲は呼吸の様子を確かめ、胸に耳を近づけた。
以前のような激しい息苦しさはない。
だが、体はまだ弱り、骨折した右脚を動かすと痛みが走った。
「先生……わしは、また歩けるようになるでしょうか」
弥助が尋ねた。
青洲はすぐには答えなかった。
「今は、まず体力を戻すことだ。骨の傷みも残っている。歩けるようになるかは、まだ分からん」
「……そうですか」
「だが、寝たままでいる間にも、できることはある」
青洲は息子に、体の向きを変える際の注意と、皮膚の赤みを確かめることを改めて伝えた。
骨折した脚を無理にひねらないこと。
長く同じ姿勢にしないこと。
食事と水分を、体の具合に合わせて取ること。
弥助は静かに聞いていた。
「先生、焦っても仕方がないということですな」
「そうだ。だが、諦める必要もない」
青洲は老人の手を取った。
「今日できることを、一つずつ続けよう」
弥助はゆっくりとうなずいた。
*
日が暮れる頃、青洲は華岡家へ戻った。
「あなた、お帰りなさい」
加恵が迎えた。
「小春はどうしている」
「今は眠っています。立ったことがうれしかったようで、何度も話していましたよ」
青洲は微笑んだ。
「そうか」
「でも、かなり疲れたようです。夕方は少し眠そうにしていました」
「今日はよく休ませよう」
加恵はうなずいた。
「あなた。あの子、本当にうれしそうでした」
「……ああ」
青洲は療養部屋の障子に目を向けた。
その向こうで、小春は静かに眠っている。
今日、少女はほんの短い間だけ立った。
誰かに支えられながら、震える足で。
それでも、その一瞬は確かなものだった。
*
夜。
小春は一度だけ目を覚ました。
足には重いだるさが残っていたが、痛みはなかった。
枕元には、加恵が縫ってくれた着物が置かれている。
小春はそっと手を伸ばし、その布に触れた。
「……立てたんだ」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
畳を踏んだ足の感触が、まだ残っている気がした。
明日も同じように立てるかどうかは分からない。
けれど、今夜はそれを心配するより、今日の出来事をもう一度思い出していたかった。
小春は静かに目を閉じた。
華岡家の庭には、冷たい月の光が差し込んでいた。
長い冬の夜は、穏やかに更けていった。




