【第54話】命をつなぐ縫合
天明六年、冬。
腫れ上がった虫垂を取り除いた青洲は、すぐに腹腔内を確かめた。
病変を切除しても、手術は終わりではない。
出血がないか。
周囲の腸管に傷がないか。
炎症による変化を見落としていないか。
【医神の眼】で内部を観察しながら、実際の傷の状態も慎重に確かめる。
(……大きな出血はない)
青洲はようやく小さく息を吐いた。
「新吉、針と糸を」
「はい!」
新吉は煮沸しておいた縫合針と糸を差し出した。
「これから腹を閉じる。お里の脈と呼吸を見続けてくれ」
「承知しました!」
青洲は針と糸を受け取り、傷の奥へ視線を戻した。
ここから先も、決して気を抜くことはできない。
腹の深い部分から、開いた組織を適切に縫い合わせなければならなかった。
青洲は【医神の眼】で内部構造を確かめながら、縫合を始めた。
針先が組織を通る。
左右の組織を正確に合わせ、必要以上の力をかけずに糸を結ぶ。
続いて、次の位置へ針を進める。
その動きは滑らかで、迷いがなかった。
新吉は思わず目を見開いた。
(……何だ、この縫い方は)
新吉も、これまで青洲のもとで傷の縫合を学んできた。
糸を通し、傷口を閉じる方法は知っている。
しかし、今、目の前で行われている縫合は、それまで見てきたものとは明らかに違っていた。
青洲は、ただ傷口を閉じているのではない。
深い部分から順に、離れてしまった組織を元の位置へ戻すように縫い合わせている。
針を入れる位置。
糸を通す深さ。
結ぶときの力加減。
そのすべてが驚くほど正確だった。
「……先生」
「どうした」
「その縫い方は……傷の奥から順番に縫い合わせているのですか」
「ああ」
青洲は手を止めずに答えた。
「深いところを開いたまま、表面だけ閉じるわけにはいかない」
新吉は傷の奥を見つめた。
「ですが……それほど細かく縫い分けることができるのですか」
「組織には、それぞれ役割がある。なるべく元の位置に戻すことが大切なんだ」
青洲は慎重に糸を結んだ。
「強く締めすぎれば、組織を傷める。緩すぎれば、傷が開く恐れがある」
新吉は息をのんだ。
青洲の指先は、まるで長年その動きを繰り返してきたかのように、正確に動いていた。
実際、青洲にとってはそうだった。
前世の華岡蒼真として、幾千もの手術を経験してきた。
細い血管を扱う縫合も、深い傷を閉じる処置も、数え切れないほど行っている。
2025年までに培われた外科技術。
その知識と経験が、今、青洲の手を動かしていた。
(……針も糸も、前世のものとは違う。だが、基本は変わらない)
現代の縫合器具も、均一に作られた縫合糸もない。
使えるのは、この時代に用意できる道具だけだった。
だからこそ、道具の違いを見極めながら、一針ずつ慎重に進める必要があった。
青洲は糸の張り具合を確かめた。
必要以上に締めつけず、組織が自然に合わさる位置で結ぶ。
その手つきに、無駄な動きはほとんどなかった。
新吉は師の手元から目を離せなかった。
(……速い)
しかし、単に速いのではない。
一針ごとに傷の両側が整い、開いていた部分が正確に合わさっていく。
針を動かす前には、すでに次の位置が決まっているようだった。
「先生……」
新吉の声が震えた。
「私は、これほど正確な縫い方を見たことがありません」
青洲は小さく答えた。
「傷を閉じることだけを考えてはいけない」
「……はい」
「その後、患者の体がどう治っていくかまで考えるんだ」
新吉はその言葉を胸に刻んだ。
青洲はさらに縫合を進めた。
深い部分を閉じ終えると、今度は皮膚へと移る。
傷の両端を丁寧に合わせ、間隔を確かめながら、一針ずつ縫い進めた。
灯明の炎が揺れる。
そのたびに手元へ影が落ちたが、青洲は針を動かす位置を慎重に確かめ、確実に処置を続けた。
新吉は、いつしか息をすることさえ忘れたように見入っていた。
(……こんな医術が、この世にあるのか)
自分がこれまで学んできた縫合とは、精密さがまるで違う。
しかも青洲は、腹の奥の構造を見通すかのように処置を進め、そのうえ見たこともない技術で傷を閉じている。
(先生は……いったい、どこでこれほどの医術を身につけられたのだろう)
新吉の胸に、新たな疑問が生まれていた。
*
やがて、最後の糸が結ばれた。
青洲は針を置き、傷口を確認した。
皮膚の縁は整っている。
目立った出血もない。
だが、どれほど丁寧に縫い合わせても、感染や傷が開く危険がなくなるわけではなかった。
まして、今の時代には抗生物質もない。
青洲は清潔な布で傷を覆い、ずれないように固定した。
「……終わった」
その言葉に、新吉はようやく大きく息を吐いた。
加恵も、お里の顔を見つめながら肩の力をわずかに抜いた。
しかし、青洲の表情は緩まなかった。
お里の呼吸は浅く、脈も弱い。
病んだ部分を取り除くことはできた。
だが、それが命を救えたことを意味するわけではない。
「新吉、脈はどうだ」
「まだ速く、弱いです」
「分かった」
青洲は自分でも脈を確かめた。
確かに、拍動は弱かった。
激しい痛みと手術による負担が、お里の体に重くのしかかっている。
「新吉、これからが大切だ」
「……はい」
「熱、脈、呼吸、傷の状態。小さな変化も見逃してはならん」
「承知しました」
加恵はお里の額に浮かぶ汗を静かに拭った。
お里は目を閉じたまま、弱々しく息をしている。
「あなた、庄助さんにも手術が終わったことをお伝えしなければ……」
「ああ。だが、その前にもう一度、容体を確かめよう」
青洲はお里の胸の動きと顔色を確認した。
脈は弱いものの、呼吸は続いている。
今すぐ体を動かすことは避けた方がよいと判断した。
「新吉、庄助さんを診療部屋へ案内してくれ。手術が終わったことを伝えよう」
「はい、先生」
新吉は立ち上がりかけた。
しかし、その足が止まった。
「……先生」
「何だ」
新吉は青洲を見つめた。
「私は今夜、信じられないものを見ました」
青洲は黙っていた。
「腹の奥など、あの灯りではほとんど見えませんでした。それなのに先生は、まるで中を見通しているかのように……」
新吉は一度、言葉を切った。
「それだけではありません。あの縫い方も……」
新吉の視線が、お里の腹部を覆う布へ向いた。
「私はこれまで、先生から多くのことを学んできました。ですが、今夜の縫合は……まるで別の世界の医術を見ているようでした」
青洲は静かに新吉を見つめた。
「……先生には、いったい何が見えているのですか。そして、あのような技術を、どこで……」
青洲はしばらく黙っていた。
前世の記憶。
2025年の医療技術。
そして【医神の眼】。
そのすべてを、新吉に説明することはできなかった。
青洲は静かに答えた。
「今は、お里の命を守ることだけを考えよう」
新吉は口を閉じた。
師の言葉に、それ以上尋ねることをためらった。
「……はい、先生」
新吉は深く頭を下げ、診療部屋を出ていった。
しかし、その胸には消えることのない疑問が残っていた。
青洲は再びお里の脈を取った。
かすかだが、確かに命の鼓動が伝わってくる。
(……どうか、持ちこたえてくれ)
手術は終わった。
だが、お里の命を守るための闘いは、まだ続いている。
長い夜は、まだ終わっていなかった。




