【第46話】命を支える手
天明六年、冬。
朝の冷たい空気が、華岡家の庭を包んでいた。
療養部屋では、小春が布団の上に身を起こし、加恵の縫ってくれた着物を見つめていた。
華岡家へ運ばれてから、五日目の朝だった。
まだ頬はこけ、手足にも十分な力は戻っていない。
それでも、昨日までとは違う明るさが、その瞳には宿っていた。
「小春ちゃん、おはよう」
加恵が湯を入れた器を持って入ってきた。
「……おはようございます」
「今日は顔色が少しいいですね」
「はい。昨日より、体が軽い気がします」
加恵は微笑んだ。
「それはよかった。でも、まだ無理をしてはいけませんよ」
小春はうなずいた。
そのとき、障子の向こうから青洲の声がした。
「小春、具合を診よう」
「はい、先生」
青洲は布団のそばに座り、手首に指を当てた。
脈は弱さを残しているものの、以前より確かになっていた。
青洲は呼吸を確かめ、足の甲を軽く押した。
「息苦しさはないか」
「ありません」
「胸がどきどきすることは?」
「……今は、ありません」
「そうか」
青洲は小春の顔を見た。
「昨日よりよくなっている。だが、まだ十分に食べられる体ではない。焦らず戻していこう」
「はい」
小春は少し考えてから尋ねた。
「先生……わたし、いつになったら歩けますか」
「今すぐとはいかんが、少しずつ体を動かすことはできる。今日は座っていられるか、様子を見よう」
小春はうなずいた。
*
朝餉の後、新吉が療養部屋へやってきた。
手には、小さな帳面を持っていた。
「小春さん、少しお話ししてもよろしいですか」
「はい」
新吉は布団のそばに座った。
「先生から、今日の具合を聞いてくるように言われました」
「……わたしの?」
「ええ。昨日より元気になったところや、まだつらいところを教えてください」
小春は少し考えた。
「……お腹が、すきます」
新吉は思わず微笑んだ。
「それは、よい変化ですね」
「でも……たくさん食べちゃ、いけないんですよね」
「はい。先生が体の様子を見ながら、少しずつ増やしてくださいます」
小春は残念そうにうなずいた。
「ほかには?」
「……立とうとすると、足がふらふらします」
「なるほど」
新吉は帳面に書き留めた。
小春はその手元をじっと見つめていた。
「……新吉さん」
「はい」
「何を書いているんですか」
「小春さんの体の様子ですよ」
「……そんなに、書くことがあるんですか」
「あります。昨日できなかったことが、今日はできるようになる。それも大切なことなんです」
小春は不思議そうに帳面を見た。
「……わたしにも、読めますか」
新吉は顔を上げた。
「字は読めますか」
「……少しだけ。自分の名前なら」
「そうですか」
新吉は帳面の余白に、ゆっくりと二文字を書いた。
『小春』
「これは、読めますね」
「はい。こはる」
少女は小さく笑った。
新吉も微笑んだ。
「元気になったら、ほかの字も覚えてみますか」
小春の目が輝いた。
「……いいんですか」
「もちろん。先生にも相談してみましょう」
小春は何度もうなずいた。
*
昼前。
青洲は診療部屋で、一人の農夫を診ていた。
男は畑仕事の途中、鎌で左手の指を切ったという。
傷は深くなかったが、泥が入り込んでいた。
「いつ切った」
「今朝です。血がなかなか止まらんもので」
青洲は傷を確かめた。
「指は動くか」
「はい。曲げると痛みますが」
「そうか」
青洲は新吉に湯冷ましを用意させ、傷に付いた汚れを丁寧に洗い流した。
出血が落ち着いたところで、清潔な布を当てる。
「しばらく、この手で土を触らぬように」
「ですが、畑が……」
「傷が悪くなれば、もっと長く働けなくなる」
農夫は困った顔をした。
「……分かりました」
青洲は新吉に声をかけた。
「傷を洗う前と後では、手や道具をきれいにすることが大切だ」
「はい」
「見た目には分からぬ汚れもある。傷へ持ち込まぬよう、できることを重ねるのだ」
新吉はうなずいた。
農夫が帰った後、青洲は使った道具を確かめ、手入れを始めた。
新吉がその様子を見つめている。
「先生、その小さな刃物は、京で学ばれた頃からお使いなのですか」
「ああ。京で手に入れたものだ」
青洲は刃を布の上に置いた。
「傷を開くときに用いる。ただし、どんな傷にも使うわけではない」
「こちらの先の細いものは?」
「傷の中を探るための道具だ。だが、むやみに差し込めば、かえって傷を深くする」
新吉は真剣な顔で聞いていた。
「道具があれば、治せるというものではないのですね」
「そうだ。まず、使わずに済むかを考える。使うなら、何のために使うのかを決める」
青洲は刃物をしまい、別の小さな鋏を手に取った。
「刃の傷みや錆にも気をつけねばならん。道具の不具合は、そのまま病人の苦しみになる」
「はい」
「お前も、手入れの仕方を覚えなさい」
「ぜひ、お願いいたします」
新吉は背筋を伸ばした。
青洲は道具を一つずつ布の上に並べ、その用途と扱い方を説明していった。
*
午後。
小春は加恵に支えられながら、布団の上でしばらく座っていた。
最初は背中を支えてもらわなければならなかったが、今は少しの間なら自分で姿勢を保てる。
「……加恵さん」
「なあに?」
「わたし、少しだけ歩いてみたいです」
加恵は首を振った。
「今日はまだ、座るところまでにしましょう」
「でも……」
「倒れてしまったら大変ですもの」
小春は残念そうにうつむいた。
そこへ青洲が入ってきた。
「どうした」
「小春ちゃんが、歩いてみたいそうです」
青洲は少女の顔を見た。
「早く元気になりたいか」
「……はい」
「ならば、急がないことだ」
小春は不思議そうに首をかしげた。
「急がないほうが、早く元気になれるんですか」
「無理をして倒れれば、また寝込むことになる。今日は昨日より長く座れた。それで十分だ」
小春は少し考え、やがてうなずいた。
「……分かりました」
青洲は微笑んだ。
「よし。では、疲れないうちに横になろう」
加恵が布団を整え、小春をゆっくり寝かせた。
*
夕暮れ。
診療部屋で帳面を整理していた新吉のもとへ、青洲がやってきた。
「新吉、今日の記録は済んだか」
「はい。小春の食事と脈の様子、それから昼の農夫の傷について記しました」
「見せてくれ」
青洲は帳面に目を通した。
「よく書けている。だが、農夫の傷については、指がどこまで動いたかも残しておくとよい」
「はい。次から気をつけます」
「傷の大きさだけでなく、手がどれほど使えるかも大切だからな」
新吉はうなずいた。
青洲は帳面を返した。
「それと、明日は小春の体を起こす時間を少し延ばしてみよう。ただし、顔色や息の様子を見ながらだ」
「承知しました」
新吉は筆を置き、少し迷ってから口を開いた。
「先生。小春は、字を覚えたいそうです」
「そうか」
「今日、自分の名前を読んでいました。ほかの字も覚えてみたいと」
青洲は穏やかに笑った。
「よいことだ。だが、今は長く座って学ぶのは難しい。体が戻ってから、少しずつ教えてやりなさい」
「はい」
「字を知れば、読めるものが増える。自分の考えを書き残すこともできる」
新吉はうなずいた。
「私も、先生の教えを書き留めるようになってから、前より多くのことに気づくようになりました」
「それなら、教える甲斐があるな」
青洲は笑った。
*
夜。
加恵が療養部屋へ入ると、小春は枕元の着物を見つめていた。
「まだ起きていたの?」
「……はい」
「眠れませんか」
「少しだけ……」
加恵は布団のそばに座った。
「何か心配なことがあるの?」
小春は首を振った。
「……違うんです」
「そう?」
「今日、初めて、自分でお粥を食べられました」
「ええ。上手にできましたね」
「それから、少しだけ長く座れました」
「そうね」
小春は小さく笑った。
「……明日は、もっと元気になれるかな」
加恵は少女の手を握った。
「きっと少しずつ、よくなっていきますよ」
小春はうなずいた。
「……加恵さん」
「なあに?」
「わたし、ここに来てよかったです」
加恵は一瞬、言葉を失った。
そして、少女の髪を優しくなでた。
「私も、小春ちゃんが来てくれてよかったと思っています」
小春は安心したように目を閉じた。
やがて、静かな寝息が聞こえ始めた。
加恵は灯りを落とし、そっと立ち上がった。
廊下へ出ると、診療部屋から青洲と新吉の話し声が聞こえていた。
明日の診察のこと。
薬の調合のこと。
そして、療養部屋で眠る少女のこと。
華岡家の夜は、いつものように静かに更けていった。




