【第45話】消えた村の灯り
天明六年、冬。
夜の冷気が、華岡家の庭を包んでいた。
診療部屋では、青洲が灯明の下で帳面を開いていた。
小春の脈や食事の量を確かめながら、新吉の帰りを待っていたのである。
昼過ぎに村へ向かった新吉は、まだ戻っていなかった。
青洲は障子の向こうに目を向けた。
「……思いのほか、遅いな」
そのとき、門の方から足音が聞こえた。
「先生、ただいま戻りました」
新吉だった。
青洲が立ち上がると、戸口に現れた新吉は深く頭を下げた。
草履には泥がこびりつき、着物の裾は濡れていた。
「ずいぶん遅かったな。何かあったのか」
「はい。村までの道が荒れておりまして。それに、名主を訪ねるのに時間がかかりました」
「そうか。まずは座りなさい」
新吉は畳に腰を下ろした。
青洲は湯を入れた茶碗を差し出した。
「冷えただろう」
「ありがとうございます」
新吉は両手で茶碗を包んだ。
だが、湯を口にしても、その表情は晴れなかった。
「先生……小春の家族について、分かったことがあります」
青洲は静かにうなずいた。
「聞かせてくれ」
*
「小春が話していた村は、確かにありました」
新吉は言葉を選びながら話し始めた。
「ですが、思っていた以上にひどい有様でした」
村へ入る道には、手入れのされていない畑が広がっていた。
冬枯れの草が風に揺れ、家々の戸は固く閉ざされていたという。
「人の住んでいない家が、いくつもありました」
「亡くなった者が多いのか」
「それもあります。ですが、食べ物を求めて村を離れた者も少なくないそうです」
新吉は茶碗を置いた。
「名主に小春の父親の名を伝えると、すぐに分かりました」
「家族のことは?」
「小春が話したとおりでした。弟と母親が相次いで亡くなり、父親もその後に亡くなったそうです」
青洲は目を伏せた。
「……そうか」
「近所の者が弔いを手伝ったそうですが、皆、自分たちが食べていくだけで精いっぱいだったと」
「無理もない」
新吉はうなずいた。
「小春は父親を亡くした後、しばらく村にいたそうです。けれど、身を寄せられる家がなかった」
「親類はいないのか」
「名主の話では、父方の親類は以前に村を離れ、行方が分からないそうです。母方についても、頼れる者は見つからなかったと」
青洲は腕を組んだ。
「それで、あの子は町へ出たのか」
「はい。食べ物を分けてもらえる場所を探していたようです」
新吉は拳を握った。
「先生。名主は、あの子を追い出したわけではないと言っていました」
「そうだろうな」
「ですが……」
新吉の声が低くなった。
「村に残っていても、食べさせてやれる者がいなかったそうです」
青洲は何も言わなかった。
誰か一人の悪意によって起きたことではない。
飢饉は、人々から食べ物だけでなく、他人を助ける余力までも奪っていた。
*
「それと、先生」
新吉は懐から折り畳んだ紙を取り出した。
「名主から預かってきたものがあります」
「何だ」
「小春の家について、分かることを書いてもらいました」
青洲は紙を受け取った。
そこには父親の名、家族の人数、亡くなった者について、名主が知る範囲のことが記されていた。
「小春が生きていると伝えたのか」
「はい。華岡家で療養していると話しました」
「名主は何と?」
「助けていただいてありがたい、と。ただ……」
「ただ?」
「村では、今すぐ小春を引き取れる家はないそうです」
青洲は紙を畳んだ。
「それは、名主一人の話か」
「ほかにも二軒ほど訪ねました。どちらも小春の家族を知っていましたが、食べ物に余裕はありませんでした」
「そうか」
新吉は青洲を見つめた。
「先生。小春は、これからどうなるのでしょうか」
青洲は答える前に、灯明の炎を見つめた。
十二歳の少女。
家族を失い、帰る家もない。
病が治ったからといって、外へ送り出せる状態ではなかった。
「加恵とも話そう」
「はい」
「その前に、新吉。よく調べてくれた」
新吉は頭を下げた。
「ですが、あの村の人たちに何もできなかったことが……」
「お前一人で、村中の人間を救うことはできん」
「……はい」
「それでも、お前が小春を見つけて連れてきたから、あの子は今、生きている」
新吉はしばらく黙っていた。
やがて、深くうなずいた。
*
翌朝。
青洲は加恵に、村で分かったことを伝えた。
加恵は最後まで黙って聞いていた。
「そうですか……」
小さく息を吐く。
「やはり、帰る家がないのですね」
「少なくとも、今すぐ戻れる家はない」
青洲は答えた。
「親類については、もう少し確かめる必要がある。だが、村の暮らしも厳しいらしい」
加恵は少し考えた後、青洲を見た。
「あなた」
「何だ」
「小春ちゃんを、しばらくここに置いてあげられませんか」
「療養の間は、そのつもりだ」
「そうではなくて……元気になってからも、です」
青洲は黙った。
加恵は続けた。
「もちろん、簡単なことではありません。食べるものも、着るものも必要です」
「ああ」
「でも、あの子を一人で町へ戻すことは、私にはできません」
青洲は窓の外に目を向けた。
冬の庭には、霜が残っていた。
2025年ならば、身寄りのない子供を保護するための仕組みがあった。
だが、この時代には、それを当たり前に頼れるわけではない。
村や親類、寺など、人のつながりの中で行き先を探すしかなかった。
そして今、小春にはそのつながりがほとんど残っていない。
「加恵」
「はい」
「小春が元気になるまで、まだ日がかかる。その間に、暮らしのことも考えよう」
加恵は青洲を見つめた。
「では……」
「すぐに出ていけなどとは言わん」
加恵の表情が和らいだ。
「ありがとうございます、あなた」
「ただし、あの子自身の気持ちも聞かねばならん」
「ええ。そうですね」
*
その日の昼。
小春は加恵に支えられながら、布団の上で体を起こしていた。
顔色は少しずつ戻ってきている。
青洲が診察すると、脈は昨日よりも確かだった。
息苦しさもなく、足のむくみも見られない。
「今日はどうだ」
「……少し、元気です」
「そうか」
「お粥も、食べられました」
「加恵から聞いたよ」
青洲は微笑んだ。
「だが、まだ無理はするな」
「はい」
小春は青洲の顔を見つめた。
そして、ためらいがちに口を開いた。
「……先生」
「何だ」
「新吉さん、昨日……わたしの村へ行ったんですか」
青洲は少し驚いた。
「誰から聞いた」
「朝、新吉さんが加恵さんと話しているのを、少しだけ……」
少女はうつむいた。
「……お父ちゃんたちのこと、分かりましたか」
青洲は静かにうなずいた。
「ああ。村の名主に会って、話を聞いてきた」
「……そうですか」
小春は布団を握りしめた。
「……わたし、帰らなきゃいけませんか」
「どうして、そう思う」
「だって……ここは、わたしの家じゃないから」
青洲は少女のそばに座った。
「小春。お前は、ここにいたいか」
少女は驚いたように顔を上げた。
「……いいんですか」
「まず、お前の気持ちを聞いている」
小春はしばらく黙っていた。
やがて、消え入りそうな声で答えた。
「……いたいです」
その目に涙が浮かんだ。
「でも……ご迷惑なら……」
「迷惑かどうかは、こちらが考えることだ」
青洲は穏やかに言った。
「お前は、どうしたいのかを話せばよい」
小春は唇を震わせた。
「……ここに、いたいです」
青洲はうなずいた。
「分かった。その気持ちは、きちんと受け取った」
小春は何度も頭を下げようとした。
青洲は慌てて止めた。
「頭を下げなくてよい。まだ体を休めなさい」
*
夕方。
新吉は診療部屋で、昨日の村の様子を帳面に書き留めていた。
そこへ青洲が入ってきた。
「新吉」
「はい、先生」
「小春のことだが、しばらく華岡家で預かることにしようと思う」
新吉は顔を上げた。
「本当ですか」
「ああ。親類のことは引き続き調べる。だが、あの子の体が戻るまでは、ここで世話をする」
「よかった……」
新吉は心から安堵したようだった。
青洲はその表情を見て、小さく笑った。
「お前も、ずいぶん心配していたのだな」
「はい。町で見つけたときの小春の姿が、どうしても忘れられなくて」
「そうか」
新吉は少し考えてから尋ねた。
「先生。小春が元気になったら、何か教えてあげられないでしょうか」
「何をだ」
「字を読むことや、帳面のつけ方などです」
青洲は新吉を見た。
「小春は字が読めるのか」
「まだ分かりません。ですが、本人が望むなら、少しずつ教えてみたいと思います」
青洲はうなずいた。
「よい考えだ。ただし、今は休養が先だ」
「はい」
「教えるとしても、あの子の体と気持ちを見ながらにしよう」
新吉は笑顔になった。
「承知しました」
*
夜。
小春は、加恵が縫い直してくれた着物を枕元に置いていた。
まだ袖を通す力は十分に戻っていない。
それでも、時折その布に触れると、不思議と胸が落ち着いた。
障子の向こうから、新吉の声が聞こえた。
「小春さん、起きていますか」
「……はい」
新吉が部屋へ入ってきた。
「具合はいかがですか」
「……大丈夫です」
「それはよかった」
新吉は枕元の着物に気づいた。
「加恵さんが縫ってくださったんですね」
「はい」
小春は少し笑った。
「……あったかいんです」
「そうですか」
新吉はうなずいた。
小春はしばらく黙っていたが、やがて尋ねた。
「……新吉さん」
「はい」
「わたし、ここにいても……いいんですよね」
「先生も加恵さんも、そうおっしゃっています」
小春は布を握りしめた。
「……よかった」
その声には、ようやく安堵の色があった。
新吉は少女が眠るまで、しばらくそばに座っていた。
やがて小春の呼吸が穏やかになると、静かに立ち上がった。
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返る。
小春は、縫い直された着物に片手を添えたまま眠っていた。
新吉は灯りを落とし、障子を静かに閉めた。




