【第44話】帰る場所のない少女
天明六年、冬。
華岡家の庭には、朝早くから冷たい風が吹き込んでいた。
療養部屋では、小春が布団の中から障子越しの明かりを見つめていた。
華岡家へ運ばれてから、三日目の朝だった。
昨日までほとんど動かなかった指先が、今は布団の縁をつまんでいる。
青洲は小春の手首に指を当てた。
「脈は少し強くなったな」
小春は青洲の顔を見上げた。
「……もう、起きてもいいですか」
「まだ歩くのは早い。起き上がるときも、誰かを呼びなさい」
「はい……」
青洲は瞼の裏や口の中を確かめ、足の甲を指で軽く押した。
むくみは目立たない。
だが、重い飢えから回復する途中には、思いがけない変化が起こることがある。
「息苦しさはないか」
「ありません」
「胸がどきどきすることは?」
小春は少し考えた。
「……よく、分かりません」
「そうか。苦しくなったら、すぐに知らせてくれ」
小春は小さくうなずいた。
青洲は布団を整えると、傍らの新吉に声をかけた。
「昨日の記録を見せてくれ」
「はい」
新吉は帳面を開いた。
「湯は何度かに分けて飲めました。粥の上澄みも少しずつ口にしています。厠の代わりに小桶を使い、尿も昨日よりは出ています」
「色はどうだ」
「加恵さんによると、昨日より幾分薄くなったそうです」
「よし。だが、食事はまだ急に増やすな」
「承知しました」
青洲は帳面に目を落とした。
昨日よりよくなった点がある一方、少女の頬はまだこけ、手足にはほとんど肉がついていない。
回復には長い時間が必要だった。
*
朝餉の後、加恵が粥を持ってきた。
前日よりわずかに米粒を含ませた、柔らかな粥だった。
「小春ちゃん、今日は少しだけ中身のあるお粥ですよ」
小春の目が明るくなった。
「……食べても、いいんですか」
「ええ」
加恵が青洲を見る。
青洲はうなずいた。
「少しずつだ。気分が悪くなったら、無理に食べなくてよい」
加恵は小さな木匙を手に取り、粥を冷ましてから小春の口へ運んだ。
小春はゆっくりとかみ、飲み込んだ。
「……おいしい」
「よかった」
数口食べたところで、小春は加恵の手を見つめた。
「……あの」
「なあに?」
「わたし、自分で食べられます」
加恵は青洲に目を向けた。
「疲れない程度なら、やってみよう」
小春は木匙を受け取った。
細い指が震え、匙の先が器の縁に当たった。
それでも少女は、ゆっくりと粥をすくった。
一口を口へ運ぶまでに、ずいぶん時間がかかった。
加恵は手を出さず、こぼれそうになった器だけをそっと支えた。
やがて小春は匙を置いた。
「……つかれた」
「よく頑張りましたね」
加恵は器を受け取った。
小春は少し恥ずかしそうに笑った。
その笑顔を見て、青洲は胸の内で安堵した。
食べる力だけではない。
自分で食べようとする気持ちも、戻り始めている。
*
昼前、新吉が診療部屋の掃除を終えて戻ると、小春は加恵に髪を梳いてもらっていた。
絡まった髪を少しずつほぐす加恵の手元を、小春は黙って見ていた。
「小春さん、具合はどうですか」
「……昨日より、いいです」
「それはよかった」
新吉が微笑むと、小春は少し迷ってから尋ねた。
「……新吉さん」
「はい」
「わたしを、町から運んでくれたんですよね」
「ええ」
「……重く、なかったですか」
新吉は一瞬、言葉に詰まった。
背負ったときの、あまりにも軽い体を思い出したからだ。
「大丈夫でしたよ」
小春はうつむいた。
「……ありがとうございます」
「礼なら、元気になってからで十分です」
加恵が髪を結び終えた。
「さあ、きれいになりましたよ」
小春は自分の髪に触れた。
「……お母ちゃんも、こうしてくれました」
加恵の手が止まった。
新吉も口を閉じた。
小春はしばらく髪をなでていたが、やがてぽつりと続けた。
「……もう、いないけど」
加恵は少女の肩に手を置いた。
「そうだったのね」
小春はうなずいた。
「お父ちゃんも……弟も」
その声は震えていた。
加恵は問いを重ねなかった。
ただ、少女の肩を静かにさすった。
*
午後になり、青洲が小春の様子を診に来た。
少女は先ほどより落ち着いていた。
「小春。少しだけ、家のことを聞いてもよいか」
小春は青洲を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「どこの村から来た」
少女は村の名を口にした。
華岡家から山道を越えた先にある、小さな集落だった。
青洲はその名を聞き覚えていた。
飢饉の影響が強く、田畑を手放した家もあると聞いた土地だった。
「父親の名は?」
小春が答えると、青洲は新吉に書き留めさせた。
「家族は、どうしたのだ」
小春は布団の上で両手を握りしめた。
「……弟が、最初に」
声が途切れた。
「食べるものが、なくて……ずっと、お腹をすかせてて」
加恵が小春のそばへ座った。
「ゆっくりでいいのよ」
「お母ちゃんが、お粥を作ってくれたけど……お米が、ほとんどなくて」
小春は唇をかんだ。
「弟が熱を出して……それから、お母ちゃんも」
青洲は黙って聞いていた。
「お父ちゃんは、山へ食べるものを探しに行って……帰ってきたときには、もう、歩けなくて」
小春の目から涙がこぼれた。
「みんな、いなくなっちゃった……」
加恵は少女の背中をそっと抱いた。
小春は声を殺して泣いた。
青洲はそれ以上、何も尋ねなかった。
飢えた人々の死を、2025年の知識でどれほど説明できたとしても、失われた家族は戻らない。
目の前にいる少女が、どれほどの恐怖と孤独を味わったのか。
それを知ることは、医術だけではできなかった。
*
しばらくして小春が眠ると、青洲は新吉を診療部屋へ呼んだ。
「今聞いた村を訪ねてほしい」
「小春の身の上を確かめるのですね」
「ああ。村の名主か、事情を知る者に会ってくれ。家族のことと、ほかに身寄りがないかを調べてほしい」
「承知しました」
「ただし、村の者を責めるような聞き方はするな」
新吉は顔を上げた。
「はい」
「飢えた者を助けられなかったからといって、その者たちに余裕があったとは限らん」
新吉は深くうなずいた。
「気をつけます」
「それと、道が悪ければ無理に帰ってこなくてよい。が、日が暮れる前に戻れるようにしなさい」
「はい、先生」
新吉が部屋を出ると、青洲は一人、帳面を開いた。
小春、十二歳。
家族を失い、長い間、十分な食事を取れずにいた。
ようやく命をつなぎ止めつつある。
だが、これから先、どこで暮らしていくのか。
その問題は、医者の診察だけでは解決できなかった。
*
夕方。
加恵は台所で、翌朝の粥に使う米を量っていた。
青洲が入ってくると、加恵は手を止めた。
「あなた、小春ちゃんのお話を聞きましたね」
「ああ」
「あの子、家族のことを話した後、何度も私に尋ねるのです」
「何と?」
「ここを出ていかなければいけないのか、と」
青洲は黙った。
「今は療養のために置いている。だが、いつまでも事情を確かめずにいるわけにもいかん」
「それは分かっています」
加恵は米を入れた升を置いた。
「でも、あの子はまだ十二歳です」
「……そうだな」
「もし、本当に帰る家がないのなら」
加恵は青洲を見つめた。
「私は、ここにいてもらいたいと思っています」
青洲はすぐには答えなかった。
華岡家には診療を受ける者が訪れ、薬の調合や往診もある。
新吉という住み込みの弟子もいる。
決して余裕のある暮らしではなかった。
まして小春は、まだ働ける体ではない。
それでも、加恵の言葉を軽く退けることはできなかった。
「まずは新吉が調べてくるのを待とう」
「はい」
「その上で、どうするか考えよう」
加恵は静かにうなずいた。
*
夜。
小春は布団の中で、昼間の話を思い出していた。
弟の顔。
母の声。
父の大きな手。
どれも、もう二度と戻らない。
涙がこぼれそうになったとき、障子の向こうから足音が聞こえた。
「小春ちゃん、起きていますか」
加恵だった。
「……はい」
加恵は小さな湯飲みを持って入ってきた。
「少し湯を飲みましょうか」
小春は体を起こしてもらい、ゆっくりと口をつけた。
飲み終えると、加恵の袖をそっとつかんだ。
「……あの」
「なあに?」
「わたし、元気になったら……何でもします」
加恵は小春の顔を見た。
「何でも?」
「お掃除も、お洗濯も……ご飯の支度も、覚えます」
少女の声が震えた。
「だから……追い出さないでください」
加恵は湯飲みを置いた。
そして、小春の両手を包んだ。
「小春ちゃん」
「……はい」
「今は、何もしなくていいのよ」
小春は驚いたように顔を上げた。
「でも……」
「まずは元気になること。それが今のあなたのお仕事です」
加恵は少女の手を温めながら続けた。
「ここにいるために、無理をして働く必要はありません」
小春の目から涙があふれた。
「……ほんとに?」
「ええ。安心して休みなさい」
小春は何度もうなずいた。
加恵が布団を掛け直すと、少女はその手をしばらく離さなかった。
やがて指の力が緩み、静かな寝息が聞こえ始めた。
加恵は灯りを少し落とし、眠る小春を見つめた。
その頬には、まだ涙の跡が残っていた。
加恵はそっと布団の端を整え、音を立てないように部屋を出た。




