タイトル未定2026/10/26 06:02
天明六年、冬。
華岡家の療養部屋には、夜通し灯りがともされていた。
布団の中で眠る小春の呼吸を、青洲は静かに見守っていた。
十二歳の少女。
飢えと寒さによって衰弱した体は、まだ危険な状態にあった。
青洲は小春の手首に指を当てた。
脈は弱い。
だが、町から運ばれてきたときより、わずかに力が戻っている。
「……少しは持ち直したか」
青洲は小さくつぶやいた。
傍らには、新吉が記した帳面が置かれていた。
飲ませた湯の量。
脈の様子。
手足の冷たさ。
呼吸の変化。
どれもわずかな違いだったが、今の小春にとっては大切な手掛かりだった。
青洲は帳面を閉じ、少女の顔を見つめた。
2025年の病院ならば、血液を調べ、体内の塩類や糖の状態を確かめることができた。
必要なら点滴で水分を補い、栄養を慎重に調整することもできた。
だが、ここには何もない。
あるのは湯と食べ物、薬草、そして人の手だけだった。
そのとき、小春の唇がわずかに動いた。
「……おかあ……」
青洲は顔を近づけた。
「小春、聞こえるか」
返事はなかった。
少女は苦しそうに眉を寄せ、再び静かになった。
青洲は布団を掛け直した。
家族については、まだ詳しく聞いていない。
聞くべきときは来るだろう。
だが、今は命をつなぐことが先だった。
*
夜が明ける頃、新吉が療養部屋へ入ってきた。
「先生、交代いたします」
「もう起きたのか」
「はい。少し休ませていただきました」
新吉は小春の顔をのぞき込んだ。
「具合はいかがでしょう」
「脈は昨日より少しよい。だが、まだ油断はできん」
「湯は飲めましたか」
「ああ。夜の間に少しずつ飲ませた。むせることはなかった」
青洲は帳面を開いた。
「今朝からは、薄い粥の上澄みを少量試してみようと思う」
「ようやく食べられるのですね」
「食べられるかどうか、確かめるのだ」
青洲の言葉に、新吉は背筋を伸ばした。
「長く飢えた者は、腹が減っていても、すぐに元の食事へ戻せるわけではない」
「昨日もおっしゃっていましたね」
「うむ。食べさせた後の様子が大切だ。息が苦しくならぬか、脈が乱れぬか、手足がむくまぬか。よく見ておかねばならん」
「粥を食べるだけでも、そのようなことが起こるのですか」
「ひどく衰弱した体では、起こり得る」
青洲は小春を見た。
「だから、腹いっぱい食べさせることだけが、親切とは限らん」
新吉は静かにうなずいた。
「分かりました。食べた量と、その後の様子も記します」
「頼む」
*
朝餉の支度を終えた加恵が、小さな器を持ってきた。
中には、米を多めの水で煮た粥の上澄みが入っていた。
「あなた、これでよろしいでしょうか」
「ああ。ありがとう」
加恵は小春のそばへ座った。
「小春ちゃん、起きられますか」
少女はゆっくりと目を開いた。
昨夜よりも、瞳にわずかな力があった。
「……ここ」
「華岡というお医者さまのお家ですよ」
加恵は穏やかに答えた。
「寒くありませんか」
小春は小さく首を振った。
その目が、加恵の持つ器へ向いた。
「……ごはん」
「ええ。少しだけ食べてみましょうね」
小春は身を起こそうとしたが、腕に力が入らなかった。
青洲が背中を支え、布団を丸めて寄りかからせた。
「無理に起きなくてよい」
加恵は小さな木匙を手に取り、粥の上澄みを少しだけすくった。
「熱くないですよ。ゆっくりね」
小春は口を開いた。
一口。
ゆっくりと飲み込む。
しばらく待って、もう一口。
少女の目に涙が浮かんだ。
「……おいしい」
加恵の表情が柔らかくなった。
「そう。よかった」
しかし、青洲は数口で器を下げさせた。
小春は驚いたように顔を上げた。
「……もっと」
その声には、初めてはっきりとした願いがあった。
青洲は少女の目を見た。
「食べたいだろう。だが、今はここまでだ」
「……どうして」
「お前の体は、長い間、食べ物が足りなかった。急にたくさん食べると、かえって具合を悪くすることがある」
小春は器を見つめた。
「……また、もらえる?」
「ああ。体の様子を見ながら、また食べよう」
「……ほんと?」
「本当だ」
小春はしばらく青洲を見つめ、それから小さくうなずいた。
加恵が器を片づけると、少女は布団に戻った。
その細い指は、まだ何かをつかもうとするように動いていた。
*
昼過ぎ。
小春は目を覚ますと、部屋の中を不安そうに見回した。
ちょうど帳面を整理していた新吉が気づいた。
「どうしました」
「……あの」
「はい」
「……厠へ、行きたいんです」
新吉はすぐに立ち上がった。
「加恵さんを呼んできます。少し待っていてください」
加恵が来ると、小春は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ」
加恵は小春の肩を支えた。
しかし、少女は布団から起き上がっただけで、ひどくふらついた。
「危ない!」
加恵が抱き留める。
物音を聞いた青洲が入ってきた。
「どうした」
「厠へ行こうとしたのですが、立てなくて」
青洲は小春の顔色を確かめた。
「まだ歩かせてはいかん。ここで用を足せるようにしよう」
加恵はうなずくと、用を足すための小桶を用意し、布団のそばに置いた。
青洲と新吉は部屋を出た。
しばらくして加恵に呼ばれ、青洲が戻る。
「尿は出たか」
「はい。でも、ほんの少しだけです」
「色はどうだった」
「濃い黄色をしていました」
青洲はうなずいた。
「まだ体の水が足りておらんのだろう」
口の乾きや脈の様子、尿の少なさも、それを裏づけていた。
ただし、一度に大量の水を飲ませるわけにはいかない。
呼吸や脈を確かめながら、少しずつ補う必要があった。
「加恵、飲ませた湯の量と、用を足した回数も覚えておいてくれ」
「分かりました」
青洲は新吉を呼んだ。
「帳面に加えておけ」
「はい」
新吉は筆を走らせた。
小春は二人の様子を不思議そうに見つめていた。
「……そんなことまで、書くの?」
新吉は顔を上げた。
「はい。先生は、病人の小さな変化を見逃さないようにと教えてくださるんです」
「……わたしのこと?」
「そうですよ」
小春はしばらく黙っていた。
やがて、かすれた声で尋ねた。
「……わたし、死ぬの?」
新吉の筆が止まった。
青洲は小春のそばに座った。
「今は、ひどく弱っている。だから、よく診ているんだ」
「……死なない?」
青洲は安易にうなずかなかった。
「必ず大丈夫だとは、まだ言えん。だが、助けるためにできることはする」
小春は青洲を見つめた。
「……ここに、いていい?」
「ああ。まずは体を治すことだけ考えなさい」
少女の目から、静かに涙がこぼれた。
*
夕方になっても、小春に大きな異変は起こらなかった。
少量の粥の上澄みを口にし、湯も飲めている。
ただし、衰弱は依然として強かった。
青洲は診療部屋で新吉の帳面を確かめていた。
「よく記してある」
「ありがとうございます」
「だが、一つ足りん」
「何でしょうか」
「顔つきだ」
新吉は首をかしげた。
「顔つき、ですか」
「そうだ。目に力があるか。呼びかけにすぐ答えるか。話す声は昨日より強いか。そういうことも大切な手掛かりになる」
「なるほど……」
「病は数字だけでは分からん。病人そのものを見ねばならんのだ」
新吉は新しい欄を作った。
顔色。
目の様子。
声の強さ。
呼びかけへの反応。
青洲はその文字を見て、静かにうなずいた。
「それから、小春の身の上についても、いずれ調べねばならん」
「はい。町では、あの子を知る者がいませんでした」
「近くの村から来たのかもしれん。だが、今すぐ問い詰めることはない」
「承知しました」
新吉は筆を置いた。
「先生」
「何だ」
「小春は、これからどうなるのでしょう」
青洲はしばらく考えた。
「まずは、命を取り留めることだ」
そして続けた。
「その先のことは、あの子が自分の言葉で話せるようになってから考えよう」
*
夜。
加恵は小春のそばで針仕事をしていた。
古い着物をほどき、少女に合うように縫い直している。
小春はその手元をじっと見ていた。
「……それ」
「あなたの着物よ。今着ているものだけでは、洗い替えがないでしょう」
「……わたしの?」
「ええ」
小春は何度もまばたきをした。
「……もらって、いいの?」
「もちろん」
加恵は微笑んだ。
「少し大きいかもしれないけれど、暖かくしていましょうね」
小春は布団の中から手を伸ばし、縫いかけの布にそっと触れた。
「……ありがとう」
その声は小さかったが、昼間よりもはっきりしていた。
加恵は針を止めた。
「どういたしまして」
やがて小春が眠ると、加恵はそっと布団を掛け直した。
部屋の外には青洲が立っていた。
「眠ったか」
「ええ。少し落ち着いたようです」
「まだ数日は気を抜けん」
「分かっています」
加恵は眠る少女を振り返った。
「あなた、あの子は何度も謝るのです。水を飲むときも、着物を借りるときも」
青洲は黙って聞いていた。
「誰かの世話になることが、そんなに怖かったのでしょうか」
「……分からん」
青洲は静かに答えた。
「だが、ここでは安心して休めるようにしてやりたい」
加恵はうなずいた。
その夜も、青洲と新吉は交代で小春の様子を確かめた。
華岡家の小さな療養部屋。
そこには、病を診る者と、暮らしを支える者がいた。
そして布団の中では、十二歳の少女が、少しずつ穏やかな寝息を取り戻し始めていた。




