【第42話】雪の中の小さな命
天明六年、冬。
紀州の山々には、数日前に降った雪がまだ白く残っていた。
華岡家の庭にも薄い霜が降り、朝の冷え込みは日に日に厳しくなっていた。
青洲は診療部屋で、前日に書き留めた弥助の容体を読み返していた。
熱は下がり、呼吸も落ち着きつつある。
しかし、折れた大腿骨が元どおりになるわけではない。寝たきりの生活が続けば、再び肺を患うことも、背や腰に傷を作ることもある。
青洲は筆を置いた。
「病が一つ治まっても、次の病を防がねばならんか」
独り言を漏らしたところへ、新吉が顔を出した。
「先生、お呼びでしょうか」
「ああ。薬種が少なくなってきた。町へ行って、手に入るものを見てきてくれ」
青洲は紙にいくつかの品を書きつけた。
「それと、晒し布も欲しい。できれば目の詰まったものを選んでくれ」
「承知しました」
「急がずともよい。道が凍っているかもしれん」
新吉は一礼し、薬を包むための風呂敷を手に取った。
台所では加恵が朝の片づけをしていた。
「新吉さん、お出かけですか」
「はい。先生のお使いで町まで」
「それなら、帰りに大根も見てきていただけますか。よいものがあれば一本だけ」
「分かりました」
加恵は小さな銭入れを渡した。
「寒いですから、気をつけて」
「ありがとうございます」
新吉は草履の緒を確かめ、白い息を吐きながら門を出た。
*
町の市には、寒さの中でも人が集まっていた。
干した魚、薪、藁細工、野菜。
店先に並ぶ品は決して豊かではない。
天明の飢饉が始まってから数年が過ぎても、暮らしの苦しさは消えていなかった。
新吉は薬種を扱う店を回り、頼まれたものを少しずつ買い集めた。
晒し布を選び終え、大根を風呂敷に包んだ頃には、昼が近づいていた。
帰ろうとしたときだった。
「おい、そこに寝ていられちゃ困る」
店先から男の声が聞こえた。
新吉が振り向くと、軒下に人だかりができていた。
その足元に、小さな子供が倒れている。
男は困った顔で言った。
「朝からそこに座っていたんだ。声をかけても返事がなくてな」
「病人か?」
「さあな。腹が減って動けんだけかもしれん」
周囲の人々は気の毒そうに見ていたが、誰も手を出そうとしなかった。
新吉は人垣を抜け、子供のそばに膝をついた。
女の子だった。
年の頃は十二ほどだろうか。
着物は擦り切れ、袖口からのぞく手首は驚くほど細い。
頬はこけ、唇は乾いていた。
「もし。聞こえますか」
返事はない。
新吉は顔を近づけた。
かすかに息をしている。
額に触れると、ひどく冷たかった。
「誰か、この子の身内を知りませんか」
人々は顔を見合わせた。
「見ない顔だな」
「隣村の者かもしれん」
「この頃は、食い物を求めて歩いてくる者も多いからな」
新吉は少女の肩を軽くたたいた。
「聞こえますか。目を開けられますか」
少女のまぶたが、わずかに動いた。
「……みず」
消え入りそうな声だった。
新吉は腰の竹筒を手に取ったが、すぐには口へ運ばなかった。
少女がきちんと飲み込める状態か、分からなかったからだ。
「少し待ってください。医者のところへ連れていきます」
少女の体を抱き起こすと、あまりの軽さに息をのんだ。
骨ばかりの肩。
冷えきった指。
その体は、年頃の子供とは思えないほど頼りなかった。
「先生なら、きっと診てくださる」
新吉は買い物の風呂敷を肩に掛け直し、少女を背負った。
*
「先生!」
華岡家の門をくぐるなり、新吉は声を上げた。
診療部屋から青洲が出てくる。
「どうした、新吉」
「町で倒れていた子供です。息はありますが、ほとんど返事ができません」
青洲の表情が変わった。
「すぐに中へ。奥の療養部屋を使おう」
華岡家には、診療部屋とは別に、病人を休ませるための小さな部屋があった。
青洲はそこへ布団を敷かせた。
「加恵、湯を用意してくれ。それから乾いた布を」
「はい」
新吉が少女を寝かせると、青洲は呼吸と脈を確かめた。
息は浅い。
脈は弱く、速かった。
頬に血の気がなく、目はくぼんでいる。
手足も冷たい。
「いつから倒れていた」
「店の者は、朝から軒下にいたと言っていました。何日も食べていないように見えます」
「そうか」
青洲は少女のまぶたをそっと開き、反応を見た。
次に腹部に触れる。
腹は痩せ細り、肋骨の形が浮いていた。
そのとき、視界の奥に淡い文字が現れた。
【生命解析】
【全身状態:衰弱】
【栄養状態:著しく不良】
【脱水の疑い】
【低体温の疑い】
【注意:急激な状態変化】
青洲は小さく息を吐いた。
表示は、目の前の少女が危険な状態にあることを裏づけていた。
だが、血液の中で何が起きているかまでは分からない。
青洲は2025年の病院で診た、重い栄養失調の患者を思い出していた。
長く飢えた体に急に大量の食事を与えると、かえって命を危険にさらすことがある。
体内の塩類の釣り合いが崩れ、心臓や呼吸に異常が起こることもある。
この時代には、その変化を調べる検査も、十分に補うための薬もない。
だからこそ、慎重に進める必要があった。
「新吉、まず濡れた着物を改めてくれ。加恵には乾いたものを用意してもらう」
「はい」
「身体が冷えてるからといって急に熱い湯へ入れてはいかん。少しずつ体を温める」
青洲は少女の胸の動きを見ながら続けた。
「それから、粥を山ほど食べさせるようなこともするな」
新吉は驚いた。
「食べていないのなら、たくさん食べさせた方がよいのでは?」
「そう思うだろう。だが、長く飢えた体は、急に食べ物を受けつけると具合を悪くすることがある」
「食べることで、ですか」
「ああ。弱った体には、食べ物も少しずつ慣らさねばならん」
新吉は少女を見つめた。
「では、どうすれば」
「まずは温めることだ。意識がはっきりし、むせずに飲み込めるようなら、ぬるい湯を少しずつ与える。食事はその後、様子を見ながら始める」
青洲は少女の手を布団の中へ戻した。
「この子は、腹が減っているだけではない。命そのものが弱っている」
*
加恵が乾いた着物を持ってきた。
「まあ……こんなに痩せて」
少女の姿を見て、思わず声を詰まらせる。
「加恵、体を拭いて着替えさせてやってくれ。ただし、疲れさせぬよう手早く頼む」
「分かりました」
青洲と新吉が部屋を出ると、加恵は戸を閉めた。
しばらくして、着替えを終えた少女が新しい布団に横たえられた。
青洲は再び脈を診た。
まだ弱いが、先ほどより指先に温かさが戻ってきている。
「……ここは」
少女の唇が動いた。
青洲は顔を近づけた。
「医者の家だ。お前は町で倒れていた。覚えているか」
少女はぼんやりと天井を見つめた。
「……いちば」
「そうだ。新吉が連れてきてくれた」
少女の目が新吉へ向いた。
新吉は安心させるように微笑んだ。
「もう寒いところにいなくて大丈夫ですよ」
少女の目尻から、涙が一筋流れた。
「……ごめんなさい」
青洲は首を横に振った。
「謝ることは何もない」
「……お金、ない」
「今はそんなことを考えなくてよい」
少女は何か言おうとしたが、声にならなかった。
青洲は水を含ませた布で唇を湿らせた。
「喉が渇いているな。少しずつ飲めるか試してみよう」
少女の上体をわずかに起こし、口元へ小さな器を運ぶ。
一口。
少女はゆっくりと飲み込んだ。
青洲はむせないことを確かめ、少し間を置いてからもう一口与えた。
「よし。今はこれくらいにしておこう」
少女は名残惜しそうに器を見つめたが、青洲は無理をさせなかった。
「また飲ませてやる。心配するな」
加恵が布団の端を整えた。
「少し休みましょうね」
少女は小さくうなずき、目を閉じた。
*
夕刻。
青洲は少女の様子を見ながら、新吉に尋ねた。
「町では、この子を知る者はいなかったのか」
「はい。誰も名前を知らないようでした」
「そうか」
「先生、この子は助かるでしょうか」
青洲はすぐには答えなかった。
少女の呼吸は、まだ弱い。
体がどこまで持ちこたえられるかは分からなかった。
「助けるために、できることをする」
青洲はそう答えた。
「今夜は脈と息、手足の冷たさを何度も確かめる。飲ませた湯の量も記しておけ」
「承知しました」
「それと、尿が出るかも見ておきたい。体の水がどれほど足りていないかを知る手掛かりになる」
新吉は帳面を開いた。
青洲はその様子を見てから、少女へ目を戻した。
「名前を聞いていなかったな」
少女は眠っているように見えた。
しかし、しばらくすると唇がわずかに動いた。
「……こはる」
青洲は身をかがめた。
「小春というのか」
少女は小さくうなずいた。
「年はいくつだ」
「……十二」
「家の者は?」
その問いに、小春の顔が強張った。
布団の上で、細い指がぎゅっと握られる。
「……いない」
加恵がそっと青洲を見た。
青洲はそれ以上尋ねなかった。
「分かった。今は休みなさい」
小春は目を閉じた。
しばらくして、かすかな寝息が聞こえ始めた。
加恵は布団のそばに座り、少女の冷えた手を包んでいた。
「あなた」
「どうした」
「この子、どれほど一人で歩いてきたのでしょうね」
青洲は答えられなかった。
ただ、細い手首に残る骨の形を見つめた。
外では、風が雨戸を鳴らしていた。
青洲は新吉に向き直った。
「今夜は私もここで診る。お前は少し休んでから、交代してくれ」
「はい、先生」
新吉は帳面に少女の名を書き込んだ。
小春。
十二歳。
著しい衰弱。
食事の量、不明。
水分の摂取、わずか。
新吉は筆を止め、布団の中の小さな姿を見た。
町の軒下で、あのまま通り過ぎていたら。
そう考えかけて、静かに帳面を閉じた。
青洲は少女の呼吸を確かめ、布団を整えた。
小春の胸は、弱々しくも規則正しく上下していた。
その一息一息を見守りながら、青洲は夜の長さを思った。
華岡家の療養部屋には、小さな灯りがともされていた。




