【第35話】見えてはならないもの
天明六年、冬。
源七が家族のもとへ帰った翌朝。
華岡家の診療部屋には、いつもと変わらぬ朝が訪れていた。
新吉が薬研で薬草を砕く音が響き、加恵は竈にかけた釜の湯加減を確かめている。
青洲は診療机に向かい、昨夜から何度も考えていた。
透視診断。
昨日、医神の眼が進化した際に現れた新しい能力だった。
【新機能解放:透視診断】
【観察対象:骨格・関節】
【解析範囲:限定】
あの表示に間違いはない。
だが、実際に何が見えるのかは分からなかった。
骨の形だけなのか。
折れた箇所まで判別できるのか。
そして、どのような条件で使えるのか。
確かめたいことは山ほどあった。
しかし、誰かを実験台にするわけにはいかない。
青洲は自分の左手を見つめた。
まずは自分で試す。
そう決めると、静かに意識を集中させた。
医神の眼。
心の中で、その名を呼ぶ。
すると、視界の端に淡い光が浮かび上がった。
【固有スキル:医神の眼】
【第二段階】
【透視診断:使用可能】
青洲は息を止めた。
左手に視線を集中させる。
【透視診断:起動】
次の瞬間。
自分の手が、奇妙な姿に変わった。
皮膚が消えたわけではない。
手の輪郭はそのまま残っている。
だが、その内側に白く浮かび上がるものがあった。
五本の指に連なる細い骨。
手のひらを形作る骨。
手首に集まる小さな骨の重なり。
まるで皮膚の向こう側だけを映し出したようだった。
青洲は思わず息を呑んだ。
見えている。
本当に、骨が見えている。
元の時代で見慣れたX線写真に似ていた。
だが、写真とは違う。
指を曲げると、骨の位置も変わる。
手首を回せば、関節の動きまで追いかけてくる。
青洲は何度も指を開閉した。
そのたびに骨格が滑らかに動く。
しかし、関節の軟らかな組織までは明瞭ではなかった。
血管も神経も見えない。
骨の内部も、細かなところはぼやけている。
万能ではない。
それでも、これは驚くべき能力だった。
「先生?」
突然、背後から声がした。
青洲は反射的に手を下ろした。
【透視診断:終了】
振り返ると、新吉が立っていた。
「先ほどから、ご自分の手をじっと見ておられましたが……」
「ああ、少し考え事をしていた」
「手を痛められたのですか?」
「いや、何ともない」
青洲は自然な仕草で手を握った。
「薬の支度は済んだか?」
「はい。あとは煎じるだけです」
「そうか。では頼む」
新吉は頷き、薬研のある場所へ戻っていった。
青洲は胸の内で息を吐いた。
危なかった。
昨日の失言に続き、また不審な行動を見せてしまった。
この力は、決して知られてはならない。
その時だった。
表の方から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「先生! 先生はいらっしゃいますか!」
男の切迫した声だった。
新吉が立ち上がり、戸口へ向かう。
そこには、十歳ほどの少年を背負った農夫がいた。
「息子が木から落ちまして!」
農夫は肩で息をしていた。
少年は顔をしかめ、左腕を胸に抱えている。
「こちらへ」
青洲はすぐに二人を診療部屋へ招き入れた。
少年を畳に敷いた布団へ横たえ、顔色と呼吸を確かめる。
「名前は?」
「太一と申します」
「太一。どこが痛い?」
「……腕」
少年は涙を浮かべながら答えた。
「左の腕が、すごく痛い……」
青洲は父親に尋ねた。
「どれほどの高さから落ちた?」
「庭の柿の木です。枝に登っていて、足を滑らせたようで……」
「頭は打ったか?」
「分かりません。落ちた時は見ておらず……」
青洲は太一に声をかけた。
「頭は痛くないか?」
「うん……腕だけ」
「気を失ったり、吐いたりは?」
父親が首を横に振った。
「泣きながら自分で起き上がりました。吐いてもおりません」
青洲は頭部や首、胸腹部にも異常がないか慎重に確かめた。
今のところ、意識ははっきりしている。
しかし、落下による怪我は腕だけとは限らない。
続いて左腕を診た。
前腕の中央付近が腫れ、わずかに形が変わっていた。
触れると太一が悲鳴を上げる。
「痛い!」
「すまない。もう無理には触らない」
青洲は手を止めた。
骨折の可能性が高い。
だが、どの骨が、どのように折れているのか。
外から触れただけでは判断しきれなかった。
その時、青洲の脳裏に新しい能力が浮かんだ。
透視診断。
まさか、こんなにも早く使う機会が訪れるとは。
青洲は太一の左腕を見つめた。
意識を集中させる。
【透視診断:起動】
視界がわずかに揺らいだ。
そして、少年の腕の内側に骨格が浮かび上がった。
橈骨。
尺骨。
二本の骨が並んでいる。
そのうち橈骨の途中に、不自然な曲がりがあった。
骨の片側には異常は認められなかったが。
反対側には、わずかな亀裂が見えた。
青洲の心臓が大きく脈打った。
小児に特徴的な、不完全骨折。
若い骨が折れ切らず、曲がっている。
現代なら、若木骨折と呼ばれる状態に近い。
だが、この時代には画像で確かめる手段がない。
青洲はさらに詳しく見ようとした。
その瞬間。
【解析範囲:限定】
【連続使用負荷:上昇】
視界の端が暗くなった。
こめかみに鈍い痛みが走る。
「……っ」
青洲は思わず目を閉じた。
【透視診断:終了】
「先生?」
新吉が心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
「ああ。少し目が疲れただけだ」
青洲は静かに呼吸を整えた。
なるほど。
長く使えば身体に負担がかかるらしい。
しかも、見えるのは骨格を中心とした限られた範囲だけ。
周囲の軟らかな組織の損傷までは十分に分からない。
それでも、骨の曲がりを確かめられたことは大きかった。
「新吉。太一の手先を見てくれ」
「はい」
「指は動かせるか。触れた感覚はあるか。左右の色も比べてみろ」
新吉は少年に優しく声をかけながら確かめた。
「指は動きます。触れた感覚もあります。色も大きく変わりません」
「よし」
青洲は頷いた。
骨の位置を無理に動かせば、かえって傷を深くする恐れがある。
今は腕を安定させることが先決だった。
「細い板と柔らかい布を用意してくれ」
「はい!」
新吉が必要なものを揃える。
青洲は太一の腕をできるだけ動かさず、布を当てた板で支えた。
締め付けすぎないよう注意し、固定した後にも指先の色と感覚を確かめる。
「太一。これで少し楽になるか?」
「……うん。さっきよりいい」
父親が深く頭を下げた。
「先生、骨は折れているのでしょうか?」
「その疑いが強い。腕の形と痛む場所から、骨が曲がるように傷ついていると考えられる」
新吉が青洲を見た。
「先生、骨が曲がるように、ですか?」
「ああ。子供の骨は大人の骨とは違う。折れ切らずに曲がった状態になることもある」
新吉は太一の腕を見つめた。
「なるほど……」
青洲は続けた。
「ただし、今は決めつけずに経過を見る。腫れが強くなったり、指先の色が悪くなったり、しびれが出たら、すぐに知らせてくれ」
父親は何度も頷いた。
「ありがとうございます!」
太一が帰った後、青洲は診療机に戻った。
新吉は先ほどの診察を思い返しているようだった。
「先生、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「骨の曲がり方まで、どうして分かったのですか?」
青洲の指が止まった。
新吉は真剣な表情だった。
「私には、腫れと腕の形が変わっていることしか分かりませんでした」
青洲は少し考えてから答えた。
「痛む場所、腕の形、落ちた時の様子。それらを合わせて考えたんだ」
「それだけで、そこまで……」
「いや、確かめられないことも多い。だから、あくまで疑いとして扱う」
新吉は静かに頷いた。
「分かりました。私も、もっとよく観察します」
青洲はその横顔を見つめた。
新吉は確かに成長している。
だからこそ、隠し事を続ける難しさも増していた。
夜。
診療が終わり、家の中が静まり返った頃。
青洲は一人、行灯の明かりの下で左手を見つめていた。
もう一度、透視診断を試す。
【透視診断:起動】
指の骨が淡く浮かび上がった。
青洲はすぐに能力を止めた。
短時間なら、先ほどのような頭痛は起こらない。
だが、無制限に使えるわけではないようだ。
そして何より、これは実際にX線を照射しているわけではない。
自分の視界だけに、骨格の情報が映し出されている。
未来の装置を使わず、身体の内側を観察できる。
その事実に、青洲は改めて身震いした。
もし骨折の位置を正確に知ることができれば。
もし関節の異常を早く見つけられれば。
救える命だけでなく、守れる手足も増えるかもしれない。
しかし、見えることと治せることは違う。
この時代には、未来の手術器具も、精密な固定具もない。
骨の状態が分かったとしても、治療できる範囲には限界がある。
青洲は行灯の火を見つめた。
力を得たからといって、医術そのものが進歩したわけではない。
新吉たちが学び、誰もが使える治療法へと結びつけてこそ、意味がある。
そのためには、この力で知ったことを、どうやってこの時代の医術に生かすか考えなければならなかった。
青洲は静かに目を閉じた。
その時、視界の奥に新たな文字が浮かび上がった。
【固有スキル:医神の眼】
【第二段階:透視診断】
【使用履歴:記録完了】
【次段階進化条件:未開示】
青洲は目を開いた。
まだ先があるのか。
だが、今はそのことを考える時ではない。
明日も患者が訪れる。
痛みに苦しむ者がいる。
助けを求める声がある。
青洲は行灯の火を静かに落とした。
闇に包まれた部屋の中で、彼は自分の左手を見つめた。
もう骨は見えない。
ただ、そこにあるはずの骨格の形だけが、鮮明に脳裏に残っていた。
見えてはならないものが、見えるようになった。
その力が、これからどれほどの命を救うのか。
そして、どれほど大きな秘密を背負うことになるのか。
青洲には、まだ分からなかった。




