【第34話】医神の眼、覚醒
天明六年、冬。
源七が初めて立ち上がった日から、七日が過ぎていた。
華岡家の診療部屋では、源七が木の腰掛けに座り、右脚を慎重に動かしていた。
「痛みはどうだ?」
青洲が尋ねる。
「動かすと少し突っ張りますが、前ほどじゃありません」
「足先は?」
「ちゃんと動きますぜ」
源七は得意そうに足の指を動かした。
傷の表面には新しい皮膚が伸び始め、深かった部分も内側から少しずつ埋まってきている。
まだ完全には塞がっていないが、回復は順調だった。
「先生、今日は歩く練習をしてもいいんですかい?」
「その前に、立った時の様子を確かめよう」
「へい!」
新吉が、以前から使っている木の棒を持ってきた。
源七はそれを握り、青洲と新吉に支えられながら立ち上がった。
左脚を中心に体重を支え、右足は軽く畳に触れている。
「右足を少しだけ前へ出してみろ」
源七は息を整え、木の棒を握り直した。
畳の上を滑るように、右足が前へ出た。
「……動いた!」
新吉が声を上げた。
「先生、おいら、足を出せましたぜ!」
「ああ。だが、まだ歩けたわけじゃない」
「分かってます。でも……嬉しいもんですな」
源七は照れくさそうに笑った。
その日は、それ以上進ませなかった。
翌日も、その翌日も、青洲は傷の様子を確かめながら、少しずつ練習を続けた。
立っていられる時間が延びた。
右足を前へ出せるようになった。
そして、左足も動かせるようになった。
初めて両足を交互に動かせた日、源七は声を上げて笑った。
「先生! おいら、歩いてますぜ!」
身体はまだ青洲と新吉に支えられていた。
それでも、確かに歩いていた。
「ああ。一歩ずつだ」
青洲も笑った。
しかし、回復は順調な日ばかりではなかった。
翌朝、源七は右脚の痛みを訴えた。
「昨日は歩けたのに、今日は脚が重くて……」
青洲が確かめると、傷の周囲にわずかな腫れがあった。
熱はない。
赤みも広がっていない。
だが、前日の練習が負担になった可能性はある。
「今日は歩く練習を休もう」
「えっ?」
「脚を休ませる日も必要だ」
「でも、せっかく歩けるようになったのに……」
「ここで無理をして傷が悪くなれば、もっと長く休むことになる」
源七は悔しそうに唇を噛んだ。
「……へい」
新吉は、源七が握っていた木の棒をそっと受け取った。
「源七さん。明日、また調子を見ましょう」
「そうだな……」
源七は天井を見上げた。
「おいら、早く帰りてえんだ」
青洲は、その言葉を黙って聞いていた。
家には妻と娘が待っている。
働き手が長く家を空ければ、暮らしも苦しくなる。
だが、山仕事に戻るにはまだ早すぎた。
「源七。家に帰ったら、まず何をするつもりだ?」
「そりゃ、山に入って薪を……」
「それは当分駄目だ」
「……やっぱりですかい」
「縄を綯ったり、道具を直したりする仕事もあるだろう」
「ありますが、それだけじゃ大した稼ぎには……」
「今できる仕事から始めるんだ。脚を悪くして、また寝込む方が困るだろう」
源七は黙り込んだ。
しばらくして、小さく頷いた。
「……そうですな」
さらに十日ほどが過ぎた。
傷の表面はほぼ塞がり、腫れも落ち着いてきた。
源七は木の棒を使いながら、短い距離なら自分の力で歩けるようになっていた。
右脚にはまだ硬さが残る。
長く歩けば疲れが出る。
それでも、初めて立ち上がった頃とは比べものにならなかった。
ある日、青洲は源七の妻を診療部屋へ呼んだ。
「今日は、奥さんにも歩くところを見てもらおう」
妻は驚いたように夫を見た。
「あなた、本当に歩けるの?」
「まあ、見てな」
源七は照れくさそうに笑った。
新吉が木の棒を渡し、青洲はすぐ支えられる位置についた。
源七は腰掛けから立ち上がった。
右足を前へ出す。
木の棒で身体を支えながら、左足を動かす。
一歩。
もう一歩。
ゆっくりではあるが、確かに前へ進んでいる。
「……あなた」
妻の目から涙がこぼれた。
「本当に、歩けるようになったのね……」
「まだ少しだけどな」
源七は笑った。
だが、その額には汗が浮かんでいた。
青洲はすぐに腰掛けへ戻した。
「まだ長くは歩けない。家でも無理はさせないでほしい」
「はい。必ず」
「あと数日で家へかえすが、山仕事は当分禁止だ。重い薪を担ぐことも、長い坂道を歩くことも避ける。傷が赤くなったり、熱が出たりしたら、すぐ知らせてくれ」
妻は何度も頷いた。
「分かりました」
源七は頭をかいた。
「先生、おいらの仕事がどんどん減っていきますな」
「元気になれば、また増やせる」
「そりゃそうだ」
源七が笑うと、妻も久しぶりに声を立てて笑った。
さらに数日が過ぎた。
青洲は源七の右脚を確かめた。
傷の表面は塞がり、新しい出血もない。
強い痛みはなく、短い距離なら木の棒を使って歩ける。
ただし、筋力はまだ十分ではなかった。
「源七」
「へい」
「そろそろ家に帰ってもいいだろう」
源七は一瞬、言葉を失った。
「……本当ですかい?」
「ああ。ただし、治療が終わったわけじゃない。家でも脚を休ませながら、少しずつ歩く練習を続けることだ」
「へい!」
「何日かしたら、また傷を診せに来い」
「もちろんです!」
その時、源七の妻が遠慮がちに口を開いた。
「先生、一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
妻は膝の上で両手を握り締めた。
「このたびの薬礼は、どれほどお納めすればよろしいのでしょうか」
源七も表情を曇らせた。
「先生……おいら、こんなに長く世話になっちまって……」
「家にある銭をかき集めても、十分にはございません。蓄えていた米も、残り少なくなっております」
青洲は二人の顔を見た。
傷を洗うために使った布や薬草、毎日の食事。
それらには費用がかかっている。
華岡家にも暮らしがあり、薬を買い足す銭が必要だった。
助けた命の数だけ、無償で治療を続けられるわけではない。
「新吉、帳面を持ってきてくれ」
「はい」
新吉が、診療の記録とは別に付けていた帳面を差し出した。
青洲は、源七の治療に使った薬や品々を確かめた。
「これだけ長く治療を受ければ、薬礼も少なくはない。だが、今すぐ全部納める必要はない」
妻が顔を上げた。
「それでは……」
「まずは家に帰って、暮らしを立て直すことだ。支払いはその後でいい」
「先生、そんな……」
「銭でなくとも構わない。米でも、家で作った縄でもいい。納められる時に、少しずつ持ってきてくれ」
源七は目を見開いた。
「本当に、それでいいんですかい?」
「ああ。ただし、約束が一つある」
「何でしょう?」
「薬礼を納めるために、無理をして山へ入らないことだ」
源七は一瞬、言葉に詰まった。
「せっかく治った脚を悪くしては、元も子もない」
「……へい」
源七は深く頭を下げた。
「おいら、必ず働けるようになって、お返しします」
「まずは娘さんとの約束を果たせ。家に帰って、一緒に縄を綯うんだろう?」
源七は顔を上げた。
その目に涙が浮かんでいた。
「……へい!」
妻も深く頭を下げた。
「このご恩は、決して忘れません」
帰る日。
華岡家の門前には、源七の妻と娘が待っていた。
「お父っつぁん!」
娘は父親の姿を見つけると、嬉しそうに駆け寄った。
「おう、迎えに来てくれたか」
「歩けるの?」
「見てな」
源七は木の棒を握り、ゆっくり一歩を踏み出した。
右脚をかばいながらも、自分の足で前へ進む。
娘は目を輝かせた。
「すごい! お父っつぁん、歩いてる!」
源七は笑った。
「まだ山には行けねえけどな。家で縄を綯うくらいならできるぜ」
「じゃあ、一緒にできるね!」
「ああ。今度はもっと長い縄を作ろうな」
妻がそっと夫の腕を支えた。
「無理しないでね」
「分かってるよ」
源七は振り返り、青洲と新吉を見た。
「先生、新吉さん。本当に世話になりました」
新吉は深く頭を下げた。
「元気になってよかったです」
青洲も頷いた。
「気をつけて帰れ」
「へい!」
源七は妻と娘に支えられながら、ゆっくり歩き始めた。
青洲は、その背中を見送っていた。
助かった命が、再び家族の暮らしへ戻っていく。
それは傷が塞がることとも、熱が下がることとも違う喜びだった。
その瞬間。
青洲の視界が、淡い光に包まれた。
【固有スキル:医神の眼】
【進化条件達成】
【生命救済:確認】
【身体機能回復:確認】
【社会復帰:確認】
【第二段階へ進化】
青洲は思わず目を見開いた。
さらに、新たな文字が浮かび上がる。
【新機能解放:透視診断】
【観察対象:骨格・関節】
【解析範囲:限定】
透視診断。
その言葉を見た瞬間、青洲の胸が高鳴った。
「まさか……レントゲン?」
思わず、その言葉が口から漏れた。
「先生?」
隣にいた新吉が、不思議そうに顔を向けた。
「今、何とおっしゃいました?」
青洲は、はっとした。
「……何がだ?」
「れんとげん、と聞こえましたが……。何のことでしょう?」
しまった。
青洲は内心で舌打ちした。
レントゲン。
十九世紀末に発見されるX線を利用した画像診断。
もちろん、この時代には存在しない。
「いや、何でもない。少し考え事をしていただけだ」
「ですが、れんとげんとは……」
「昔、京で聞いた言葉をふと思い出したんだ。医術とは関係ない」
「そうでしたか」
新吉は納得したように頷いたが、まだ少し不思議そうな顔をしていた。
青洲は門の方へ視線を戻した。
危なかった。
新吉は以前よりも観察力が鋭くなっている。
頭に浮かんだ言葉を不用意に口に出すわけにはいかない。
それにしても、透視診断とは……。
もし本当に骨や関節を見通せるのなら、この時代の診察は大きく変わる。
だが、今はまだ使い方すら分からない。
青洲は胸の高鳴りを抑え、何事もなかったように新吉へ声をかけた。
「さて、次の患者を診ようか」
「はい、先生!」
新吉は診療部屋へ戻っていった。
青洲はその背中を見送りながら、静かに拳を握った。
誰にも知られてはならない力。
その新たな可能性が、今、目覚めようとしていた。




