【第33話】再び立つ日
天明六年、冬。
華岡家の庭には薄く霜が降り、障子越しに淡い朝日が差し込んでいた。
源七が右脚に深い傷を負ってから、二週間ほどが過ぎていた。
高熱に苦しんだ日々は遠ざかり、今では食事も取れるようになった。傷の腫れは少しずつ引き、濁った液がにじむこともほとんどなくなっている。
だが、傷の奥はまだ完全には塞がっていない。
青洲は源七の右脚を確かめた。
「足首を動かしてみろ」
「へい」
源七はゆっくりと足首を動かした。
途中で眉を寄せたものの、以前より動きは滑らかだった。
「痛むか?」
「少し突っ張ります。でも、前ほどじゃありません」
「足の指は?」
「こっちは大丈夫です」
青洲は足先に触れ、感覚が残っていることを確かめた。
色も悪くない。
しかし、長く寝ていた右脚は以前より細くなっていた。
筋肉の衰えは明らかだった。
「先生」
源七が待ちきれない様子で尋ねた。
「おいら、そろそろ立ってみてもいいんじゃねえですかい?」
青洲は顔を上げた。
「昨日も同じことを言っていたな」
「昨日より今日の方が元気ですから」
隣にいた新吉が笑った。
「源七さん、それを毎日言ってますよ」
「毎日元気になってるんだから、間違っちゃいねえだろ?」
源七は得意そうに胸を張った。
青洲も小さく笑った。
だが、判断は慎重だった。
寝たまま足を動かせることと、体重を支えられることは違う。
無理をすれば、ようやく落ち着いてきた傷を再び悪くする恐れがある。
「今日は、身体の具合がよければ立つ練習を始めよう」
「本当ですかい!」
「ただし、俺の言う通りにすること。それが条件だ」
「へい!」
青洲は新吉に声をかけた。
「用意を頼んでいた腰掛けは?」
「こちらにあります」
新吉が運んできたのは、脚の短い丈夫な木の腰掛けだった。
青洲はそれを畳の上に置き、ぐらつかないことを確かめた。
源七が不思議そうに眺める。
「先生、こいつに座るんですかい?」
「ああ。布団から直接立つのは、今のお前には難しい。まずは腰掛けに座り、そこから立つ」
源七は納得したように頷いた。
「なるほど。おいらの脚じゃ、畳から起き上がるのもひと苦労ですからね」
「その通りだ」
青洲は新吉に目を向けた。
「それと、あの棒も持ってきてくれ」
「はい」
新吉は部屋の隅に立てかけてあった木の棒を取った。
数日前、青洲が立つ練習のために用意させたものだった。
源七は嬉しそうに笑った。
「先生、いよいよこいつの出番ですな」
「ああ。ただし、棒だけに頼るな。俺たちが両側から支える」
「へい」
青洲と新吉は、源七の身体を左右から支えた。
右脚を無理に曲げないよう注意しながら、布団の上で上半身を起こす。
それから、腰を少しずつ移動させ、低い腰掛けへ座らせた。
「どうだ?」
「……大丈夫です」
「目は回らないか?」
「少しだけ」
青洲はすぐに動きを止めた。
源七の顔色を確かめ、脈を取る。
「落ち着くまで待とう」
しばらくすると、源七が顔を上げた。
「もう大丈夫ですぜ」
「焦るな。立つのは、それからだ」
源七は苦笑した。
「先生にはかなわねえなあ」
青洲は腰掛けの位置を確かめた。
源七の左足は畳にしっかりついている。
右足は無理のない位置に置き、強く踏ん張らせないようにした。
「新吉、お前は左側だ。俺は右側を支える」
「分かりました」
青洲は源七の顔を見た。
「痛みが強くなったら、すぐにやめるぞ」
「へい」
「よし。ゆっくり腰を浮かせてみろ」
源七は木の棒を握った。
左脚に力を込める。
青洲と新吉が身体を支えた。
腰が、わずかに浮いた。
「ぐっ……!」
次の瞬間、源七の顔がゆがんだ。
右脚に痛みが走ったのだ。
身体が傾く。
「止まれ!」
二人はすぐに源七を腰掛けへ戻した。
源七は荒い息を吐いた。
「……駄目だ」
俯いたまま、呟く。
「おいら、立てねえ……」
青洲は右脚を確かめた。
新しい出血はない。
腫れが急に強くなった様子もなかった。
「どこが痛んだ?」
「傷の奥です。身体を持ち上げた途端に……」
「分かった」
青洲は源七の肩に手を置いた。
「今日は腰が浮いた。それだけでも、昨日までとは違う」
「でも、立てなかったじゃねえですか」
「右脚にどれほど負担がかかるかも分かった。次に生かせる」
源七は黙って木の棒を見つめた。
「……もう一度、やっちゃ駄目ですかい?」
「今日はここまでだ」
「先生……」
「明日も立ちたいなら、今日は休め」
源七はしばらく唇を結んでいたが、やがて頷いた。
「……へい」
午後になると、源七の妻と娘が訪ねてきた。
「お父っつぁん!」
娘は父親のもとへ駆け寄った。
「おう、来たか」
源七は笑顔で迎えた。
娘の手には、源七が寝床で綯った短い縄が握られていた。
「これ、おっ母さんがくれたの」
「そうか。大事にしてくれてるんだな」
「うん!」
娘は縄を胸に抱いた。
そして父親の右脚を見た。
「お父っつぁん、もう歩ける?」
源七の笑顔が曇った。
「……まだだ」
「いつ歩けるの?」
源七は答えられなかった。
青洲は娘のそばに腰を下ろした。
「お父さんは今日、立つ練習を始めたんだ」
「立てた?」
「まだ立てなかった。でも、少しだけ身体を持ち上げられたよ」
娘は源七の手を握った。
「じゃあ、明日は立てる?」
青洲は穏やかに答えた。
「明日どうなるかは分からない。でも、少しずつ良くなっている」
娘は父親を見つめた。
「お父っつぁん、待ってるからね」
源七は唇を噛んだ。
「……ああ」
娘の頭を撫でながら、静かに続けた。
「お父っつぁん、ちゃんと帰るからな」
妻は何も言わず、そっと目元を拭った。
翌朝。
青洲が源七のもとへ向かうと、新吉が先に様子を確かめていた。
「先生、おはようございます」
「どうだ?」
「熱はありません。昨日のあとも、傷から新しい血は出ていません」
「痛みは?」
「昨日より少し楽だそうです」
青洲は自分でも傷を診た。
赤みは広がっていない。
腫れにも急な変化はなかった。
「源七。今日はどうしたい?」
源七は、部屋の隅に置かれた腰掛けを見た。
「……もう一度、立ってみてえです」
「昨日の痛みは覚えているな」
「へい」
「無理はしない。それが約束だ」
「分かってます」
青洲は頷いた。
「なら、一度だけ試そう」
昨日と同じように、青洲と新吉が左右から支え、源七を腰掛けへ座らせた。
今日は目まいもない。
源七は木の棒を握り、左足を畳にしっかりつけた。
「息を止めるな」
「へい」
「急がず、左脚を使って身体を持ち上げろ。俺たちも支える」
源七はゆっくり息を吐いた。
左脚に力が入る。
両腕が震える。
腰が浮いた。
昨日より高く。
青洲と新吉が身体を支えた。
源七の背筋が、少しずつ伸びていく。
「……あっ」
新吉が声を漏らした。
源七は、立っていた。
右脚にはほとんど体重をかけていない。
二人の支えがなければ、姿勢を保つことも難しい。
それでも。
源七は確かに、自分の脚で立ち上がっていた。
「先生……」
源七の声が震えた。
「おいら、立ってますかい?」
「ああ」
青洲は答えた。
「立っているぞ」
源七は目を見開いた。
畳を見つめる。
自分の脚を見る。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「……本当に、立てた」
その目から涙がこぼれた。
青洲は身体を支えたまま言った。
「よし。今日はここまでだ」
「もう少し……」
「明日も立ちたいなら、今日はここで終わりだ」
源七は涙を拭いながら頷いた。
「……へい」
二人は慎重に源七を腰掛けへ戻し、それから布団へ横たえた。
源七はしばらく天井を見つめていた。
やがて、小さく笑った。
「おいら、まだ立てるんだなあ……」
新吉も笑っていた。
青洲は右脚をもう一度確かめた。
新たな出血はない。
痛みも、休むうちに落ち着いてきた。
今日できたことが、明日もできるとは限らない。
だが、回復への道筋が一つ見えた。
「源七」
「へい」
「次は、立っていられる時間を少しずつ延ばそう。その先で、歩く練習だ」
源七は大きく頷いた。
「へい! おいら、頑張ります!」
青洲は微笑んだ。
命の危険を乗り越えた男が、今、自分の足で立ち上がった。
だが、治療はまだ終わっていない。
家族のもとへ帰り、再び暮らしを営めるようになるまで、見守る必要がある。
その時、青洲の視界の端に淡い光が揺らめいた。
【医神の眼】
【経過観察中】
表示は一瞬で消えた。
青洲はわずかに眉を寄せたが、何も言わなかった。
今は、目の前の患者が立てたことの方が大切だった。
「先生」
源七が声をかけた。
「何だ?」
「次は、おいらの足で一歩、踏み出してみせますぜ」
青洲は頷いた。
「ああ。その日を待っている」
冬の陽射しが障子を透かし、部屋を明るく照らしていた。
源七の長い回復の道のりは、ようやく次の段階へ進み始めていた。




