【第32話】立ち上がるための勇気
天明六年、冬。
源七が初めて寝床から身体を起こしたのは、傷を負ってから十日ほどが過ぎた朝だった。
「……おいら、本当に起きていいんですかい?」
源七は布団の上で、青洲を見上げた。
「起きるだけだ。まだ立たないぞ」
「へい。分かってます」
そう答えながらも、源七の顔には期待が浮かんでいた。
この数日、熱は落ち着き、食事も取れるようになっていた。傷の赤みは引き始め、濁った液も減っている。
だが、右脚の傷はまだ深く、完全には塞がっていない。
青洲は新吉に声をかけた。
「背中を支えてくれ。俺は脚を見る」
「はい」
新吉が源七の肩を支える。
青洲は右脚に余計な力がかからないよう注意しながら、ゆっくり身体を起こした。
「どうだ?」
「……天井が、少し揺れてます」
「目が回るか?」
「ちょいとだけ」
青洲はすぐに動きを止めた。
長く寝ていた身体は、急に起こすと血の巡りが追いつかないことがある。
源七の顔色を見ながら、少し待つ。
「まだふらつくか?」
「……いえ。落ち着きました」
青洲は脈を確かめた。
速くなってはいるが、先ほどより落ち着いている。
「今日は、ここまででいい」
「ええっ?」
源七が情けない声を出した。
「せっかく起きたのに?」
「焦るな。明日も起きられる身体を作るんだ」
源七は不満そうに唇を尖らせた。
「先生は、なかなか厳しいお人だ」
新吉が笑いをこらえる。
青洲も少し笑った。
だが、心の中では別のことを考えていた。
十日間。
源七は命の危険を乗り越えた。
しかし、その間に脚の筋肉は弱り、体力も落ちている。
傷が治るだけでは、山仕事には戻れない。
蒼真だった青洲は2025年の病院を思い出した。
手術後の患者が、初めてベッドの端に腰掛ける瞬間。
歩くことへの恐怖。
転倒への不安。
そして、もう一度自分の足で立てた時の表情。
時代が変わっても、人間の身体と心は同じだった。
翌日。
源七は自分から声をかけてきた。
「先生、今日はもう少し起きていてもいいですかい?」
青洲は傷を確かめた。
熱はない。
腫れも昨日より少し引いている。
傷からの液も増えていない。
「よし。ただし、具合が悪くなったらすぐ言え」
「へい!」
新吉が背中を支え、源七はゆっくり上半身を起こした。
昨日より、動きが滑らかだった。
「どうだ?」
「今日は天井が揺れません」
「それはよかった」
源七は満足そうに笑った。
青洲は寝床の脇に置いた低い台を示した。
「少しだけ、手を使ってみるか」
「手?」
「奥方が持ってきたものだ」
台の上には、細く裂いた藁が置かれていた。
源七の目が丸くなる。
「……縄じゃねえですか」
「そうだ。まだ長くはやらせられないがな」
源七は藁を手に取った。
節くれ立った指が、慣れた動きで藁をより合わせていく。
最初はぎこちなかった。
だが、すぐに手が仕事を思い出した。
「先生。おいら、これならできますぜ」
「分かっている。だから持ってきてもらった」
源七は黙って縄を綯い続けた。
やがて、ぽつりと言った。
「……役に立てるんですね」
青洲はその言葉に胸を突かれた。
源七は、歩けないことだけを恐れていたのではない。
家族の役に立てなくなることを、何より恐れていたのだ。
「源七」
「へい」
「仕事は山に入ることだけじゃない。今できることを探せばいい」
源七は目を伏せた。
「……ありがてえです」
その日、源七は短い縄を一本だけ仕上げた。
長さはわずかだったが、妻に見せると、まるで大仕事を終えたように胸を張った。
「見てくれ。おいら、まだ腕は鈍っちゃいねえ」
妻は笑いながら目元を拭った。
「ええ。よくできていますよ」
その姿を、新吉は黙って見ていた。
夕方。
青洲が傷の状態を確かめていると、新吉が声をかけた。
「先生、ひとつ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「源七さんは、いつ立てるようになるんでしょうか」
青洲は少し考えた。
「傷がさらに落ち着き、身体を起こしてもふらつかず、脚に負担をかけても悪くならないと判断できた時だ」
「でも、それがいつかは……」
「分からない」
新吉は頷いた。
以前なら、その答えに戸惑っていただろう。
今は違う。
「だったら、明日も確かめます」
青洲は微笑んだ。
「そうだ」
その夜。
源七の妻が青洲を訪ねてきた。
「先生、主人のことで……」
「何かあったか?」
妻は少しためらった。
「今日、縄を綯えたのがよほど嬉しかったようで。家へ帰ったら、すぐ山へ出ると言い出しまして」
青洲は苦笑した。
「まだ早いな」
「ええ。でも、あの人は言い出すと聞かなくて……」
妻は不安そうに続けた。
「また無理をして、傷が悪くなったらと思うと……」
青洲は頷いた。
「明日、俺から話そう」
翌朝。
青洲は源七の寝床に座った。
「源七。山へ戻りたいそうだな」
源七はぎくりとした。
「……女房が言いましたかい」
「ああ」
「いや、その……おいら、もう元気ですから」
青洲は傷を見せた。
「ここを見ろ。まだ完全には塞がっていない」
「へい……」
「山へ入れば、長い時間歩く。重い薪を背負う。足元の悪い場所もある」
源七は黙っていた。
「今それをすれば、傷がまた開くかもしれない」
「……分かってます」
「本当に分かっているなら、もう少し待て」
源七は拳を握った。
「でも先生。おいらが働かなきゃ、家族が困るんです」
青洲はその目を見た。
「だからこそ、今は治すんだ」
源七の表情が揺れた。
「一日早く山へ戻って、また何十日も寝込むのと、少し待って長く働けるようになるのと、どちらがいい?」
源七は俯いた。
「……そりゃ、後の方です」
「なら、今やるべきことは分かるな」
「へい」
青洲は頷いた。
その時、新吉が部屋へ入ってきた。
「先生、準備ができました」
新吉の手には、丈夫な木の棒があった。
源七が目を丸くする。
「何ですかい、それは」
「立つ時に身体を支えるためのものだ」
青洲が答えた。
「ただし、今日は使わない」
「ええっ!」
源七の声が響く。
新吉が思わず笑った。
「先生、見せるだけなんですか?」
「まずは身体を起こす練習を続ける。棒は、必要になった時に使う」
源七は木の棒を見つめた。
その目に、昨日までとは違う光が宿っていた。
立つ。
歩く。
山へ戻る。
まだ遠い道のりだった。
だが、その道は少しずつ形を持ち始めている。
青洲は木の棒を壁に立てかけた。
「源七。焦らず、一歩ずつだ」
源七は深く頷いた。
「へい。おいら、ちゃんと治します」
青洲は笑った。
命を救うこと。
身体を治すこと。
そして、暮らしを取り戻すこと。
そのすべてが医術なのだと、青洲は改めて感じていた。
冬の陽射しが、障子越しに部屋を照らしていた。
壁に立てかけられた一本の木の棒。
それは、源七が再び自分の足で歩くための、小さな約束のように見えた。




