【第31話】帰るための一歩
天明六年、冬。
源七が自分の力で粥を食べきったのは、あの長い夜から三日後のことだった。
「もう一杯、もらえますか」
加恵は驚いた顔をしたあと、静かに笑った。
「急に欲張ってはいけませんよ。少し休んでからにしましょう」
隣にいた新吉も笑った。だが、青洲だけは源七の右脚を見ていた。
熱は下がり始めた。脈も落ち着き、食欲が戻っている。命を脅かした状態からは、少しずつ遠ざかっていた。
それでも傷は深い。
腫れは残り、膝から下を動かすたびに源七は顔をしかめた。
「先生」
源七が箸を置いた。
「おいらは、いつ山へ戻れますか」
部屋の空気が変わった。
「まだ早い」
「それは分かってます。でも、あと何日です?」
青洲は答えなかった。
源七は視線を落とす。
「家には女房と娘がいるんです。薪を売らなきゃ、米も買えねえ」
命を救っただけでは、患者の暮らしは戻らない。
蒼真は、そのことも知っていた。
手術が成功しても、歩けなくなれば仕事を失う人がいる。傷が塞がっても、痛みが残れば元の生活には戻れない。
2025年なら、理学療法士と相談し、筋力や関節の動きを確かめながら回復を助ける。
だが、ここには専門の療法士も、決まった訓練の道具もない。
「源七。脚を動かせるか、確かめさせてくれ」
「歩くんですか?」
「まだ立たせない。まず寝たままだ」
青洲は傷に負担がかからないよう注意しながら、足首と足の指を動かしてもらった。
指は動く。
足首も、少しだけ。
しかし、右足を持ち上げようとすると、源七は歯を食いしばった。
「……痛え」
「どこが痛む?」
「傷のところと、その奥です」
青洲はすぐにやめさせた。
動かないのか。
痛くて動かせないのか。
その違いは大きい。
「新吉。今のをどう見た?」
「指は動きます。でも、脚を上げると痛がります」
「それで?」
「……足が動かなくなったわけじゃない、と思います」
「そうだ。ただし、奥の傷み具合までは分からない」
青洲は源七に向き直った。
「山へ戻れる日を、今は約束できない。だが、戻るために何を確かめるべきかは考えられる」
「……何を?」
「傷が悪くならないこと。脚に力が戻ること。そして、立っても倒れないことだ」
源七は黙って聞いていた。
「焦って傷を開けば、また最初からだ」
その言葉に、源七の顔が曇った。
青洲は声を和らげた。
「帰るのを諦めろと言っているんじゃない。帰るために、今は待ってくれ」
源七は長く息を吐いた。
「……分かりました」
その日の午後、源七の妻が一人で訪ねてきた。
手には小さな包みがある。
「畑で採れたものです。少しですが……」
「気を遣わなくていい」
青洲が言うと、妻は首を振った。
「主人が帰ってこないと、うちは困ります。でも、先生に無理を言って、脚を悪くしても困るんです」
妻は包みを膝に置いた。
「だから、お願いがあります」
「何だろう」
「主人に、今できる仕事はないでしょうか。寝たままでも、手だけなら動きます」
青洲は少し驚いた。
妻は続けた。
「薪を束ねる縄なら、座って綯えます。道具の手入れもできます。あの人、何もせず寝ているのが一番つらいんです」
青洲は源七の顔を思い浮かべた。
山へ戻ることばかり考えていた男。
だが、仕事は山へ入ることだけではない。
「脚に負担をかけず、疲れたらすぐ休めるなら、できることはあるかもしれない」
妻の顔が明るくなった。
「本当ですか」
「ただし、今すぐではない。まず座っていられるかを確かめてからだ」
「はい」
夕方、青洲は源七に妻の話を伝えた。
「縄を綯う?」
「そうだ。お前の手は元気だろう」
源七は自分の両手を見た。
節くれ立ち、傷だらけの手。
「……そういや、こいつらは無事でした」
初めて、源七が声を出して笑った。
その笑いを聞いて、加恵が障子の向こうで足を止めた。
翌朝。
新吉は源七の寝床に一枚の板を持ってきた。
「先生に頼まれて、作りました」
板には、足を置く場所が分かるよう薄く線が引かれていた。
「何だ、こりゃ」
「昨日と今日で、どれだけ動かせるか比べるんです」
青洲は隣で見守った。
源七は寝たまま、板の上で足先をゆっくり動かす。
無理をしない範囲で。
痛みが強くなれば止める。
動きは小さい。
それでも、昨日より足首がわずかに動いた。
「先生、見ましたか」
新吉が声を弾ませる。
「見た。だが、喜ぶ前に源七に聞け」
「え?」
「痛みはどうだ?」
新吉は慌てて尋ねた。
「源七さん、痛みは?」
「昨日より、少し楽だ」
「なら……」
「今日はそこまでだ」
青洲が言う。
源七は不満そうにした。
「まだ動かせますぜ」
「できることを全部やる日じゃない。明日もできるように残しておく日だ」
源七は口を尖らせたが、やがて頷いた。
新吉は板を片づけながら、小さく呟いた。
「先生、こういう治し方もあるんですね」
「傷が塞がるのを待つだけが治療じゃない」
青洲は答えた。
「だが、動かせば何でも良くなるわけでもない。傷の状態に合わせなければならない」
新吉は頷いた。
その時、源七が声をかけた。
「先生」
「どうした」
「山へ戻るのは、まだ先なんでしょう」
「ああ」
「なら、縄を持ってきてもらってもいいですか」
青洲は笑った。
「まず、座っていられるようになってからだ」
「ちぇっ。先生は手厳しい」
部屋に笑いが広がった。
その日の昼過ぎ、源七の熱は再び少し上がった。
新吉の表情が変わる。
「先生……」
青洲は傷を確かめた。
赤みは広がっていない。
膿も増えていないように見える。
だが、深い傷の感染が完全に収まったとは言えない。
「今日は休ませよう。熱と脈の変化を追う」
新吉が頷いた。
「昨日、少し動いたからでしょうか」
「それは分からない。決めつけるな」
青洲は源七を見た。
回復は、真っすぐな道ではない。
良くなったように見えても、また熱が出ることがある。
それでも、昨日までの源七とは違う。
食べる。
話す。
笑う。
そして、帰ったあとの暮らしを考え始めている。
青洲は寝床のそばに腰を下ろした。
「源七。熱が落ち着くまで、今日は何もしなくていい」
「……縄も?」
「縄もだ」
「厳しいなあ」
「帰るためだ」
源七は目を閉じ、少し笑った。
障子の外では、冬の風が庭木を揺らしていた。
青洲はその音を聞きながら、思った。
救うべきものは、命だけではない。
この男が山へ戻り、家族と食卓を囲み、娘の成長を見届ける日々。
そこまで見据えて、初めて治療は次の段階へ進む。
青洲は新吉を呼んだ。
「明日、熱が落ち着いていたら、源七がどれだけ長く身体を起こせるか確かめよう」
「はい」
「ただし、顔色と脈が変わったらすぐ寝かせる」
「分かりました」
源七が薄く目を開けた。
「先生」
「何だ」
「おいら、また山へ行けますかね」
青洲は、今度も安易に約束しなかった。
「まだ分からない」
源七は小さく頷いた。
「でもな」
青洲は続けた。
「帰るための一歩は、もう始まっている」
源七は、布団の上で両手を握った。
その手には、まだ力があった。




