【第30話】夜を越える脈
天明六年、冬。
華岡家の奥座敷に、源七の歯が鳴る音が響いていた。
「先生、また寒いと……!」
新吉に呼ばれた青洲は、すぐ寝床へ膝をついた。
源七は布団を握り締め、肩を震わせている。額は熱いのに、指先は冷たかった。
「源七、俺が分かるか」
「……せん、せい」
返事は遅い。
青洲は脈を取った。速く、細い。息もせわしない。
傷の膿を出したのは昨日のことだ。張り裂けるような痛みは軽くなったが、身体の具合はむしろ悪くなっている。
青洲の胸を、嫌な予感が横切った。
敗血症。
2025年の病院なら、採血をして、血圧を測り、必要なら抗菌薬と点滴を急ぐ。だが、そのどれもが今は手の届かないところにある。
「新吉。足の傷だけを見るな。今、何が一番危ないと思う?」
新吉は源七の顔を見た。
「……血の巡りが弱っていることです」
「そうだ。ほかには?」
「息が速い。それに、呼びかけても返事が遅いです」
「よし。変化があったらすぐ言え」
青洲は傷の布を外した。赤みは昨夜と大きく変わらない。膿の出口は保たれているが、腫れはまだ強い。
傷だけ見れば、処置の効果が出ているようにも見える。
だが、源七の命を脅かしているものは、傷の表面だけでは測れなかった。
「源七、喉は渇くか」
「……からから、です」
「吐き気は?」
「ない……」
青洲は飲み込む力を確かめ、加恵に冷ました湯を頼んだ。
「少しずつだ。むせたらやめる」
源七は二口飲んだところで顔を背けた。
「もう……いらねえ」
「分かった。無理に飲まなくていい」
青洲は身体を楽な姿勢に戻した。
口から入る水だけでは、失われた血液や弱った血の巡りを十分に補えないことがある。まして意識が鈍れば、飲ませること自体が危険になる。
知っているからこそ、焦りが募った。
「先生、もっと飲ませた方が……」
「今はやめる。飲めることと、飲ませてよいことは別だ」
新吉は口を結んだ。
青洲は足先の色を見て、触れた感覚を尋ねた。昨日までと大きくは変わらない。傷の周囲に新たな黒ずみも見えない。
もう一度切り開くべきか。
しかし、新しい膿のたまりを示す確かな手掛かりはない。弱った身体に無用な傷を増やせば、かえって命を縮める。
青洲は刃物に手を伸ばさなかった。
夜が更けた。
源七はうとうとしては、寒さに震えた。加恵は濡れた布を替え、寝具を整える。新吉は手首に指を当てたまま、何度も青洲を見た。
「先生……脈が、また弱い気がします」
青洲が確かめる。
確かに、頼りない。
「源七。目を開けてくれ」
返事がない。
青洲は胸が冷たくなるのを感じた。
「源七!」
「……へい」
ようやく、まぶたが動いた。
生きている。
だが、いつまで持ちこたえられるか分からない。
青洲は、自分の手を見た。
何千もの手術を経験した手。
その記憶は、今も確かにある。
それでも、ここでは一本の管を血管へ入れることさえできない。清潔な器具も、補液も、患者を支える設備も揃っていない。
技術があっても、時代が許さない。
その事実が、ひどく重かった。
「あなた」
加恵が小さく呼んだ。
「少し、お座りになっては」
「大丈夫だ」
「昨夜から何も口にしていません」
青洲は首を振りかけたが、加恵の表情を見て思い直した。
「……水をくれ」
加恵が頷く。
新吉はそのやり取りを見て、源七の手を握り直した。
「先生。俺が見ています。少しだけ休んでください」
青洲は新吉を見た。
以前なら、目を離すことなど考えられなかった。
だが今の新吉は、何を見るべきかを知っている。
「息が変わったら?」
「すぐ呼びます」
「返事が鈍くなったら?」
「それも。手足の冷えと、脈の強さも見ます」
「頼んだ」
青洲は部屋の隅で水を飲んだ。ほんのわずかな間、背を壁に預ける。
夜明け前。
「先生」
新吉の声に、青洲はすぐ顔を上げた。
「何があった」
「手が……少し温かいんです」
青洲が触れる。
確かに、先ほどより冷たさが和らいでいた。
「脈は?」
「まだ速いです。でも、さっきよりはっきり触れます」
青洲も確かめた。
わずかだが、力が戻っている。
「源七、聞こえるか」
「……聞こえます」
今度は、呼びかけてすぐ返事があった。
新吉の顔が明るくなる。
「先生、助かったんでしょうか」
青洲は首を振った。
「持ち直した兆しだ。だが、熱は残っている」
源七の額は、まだ熱い。
良い変化が三つ重なっても、危険が消えたわけではない。
それでも、青洲は久しぶりに小さく息を吐けた。
朝日が障子を薄く染める頃、加恵が声をかけた。
「源七さん、少しお粥を召し上がれそうですか」
源七は目を開いた。
「……ひと口なら」
青洲は飲み込みを確かめながら、少量だけ口にしてもらった。
源七は二口ほど食べ、疲れたように横になった。
食べられた。
それも一つの変化だった。
昼前、源七の妻と娘が訪れた。
「主人は……」
「昨夜はかなり危険でした。今朝は少し持ち直しています」
妻は胸に手を当てた。
「ありがとうございます……」
「まだ安心はできません。今日は一緒に、様子を見ていてください」
妻は頷き、源七の枕元に座った。
「お前さん……」
「……心配、かけたな」
その短い返事に、妻の目から涙が落ちた。
青洲は静かに席を外した。
夕刻。
源七の部屋へ戻ると、新吉が自分から報告してきた。
「先生、昼に小便が出ました」
青洲は足を止めた。
「いつだ?」
「少し前です。加恵さんにも確かめてもらいました」
「量は?」
「多くはありません。でも、昨夜は出ていなかったそうです」
青洲は頷いた。
尿が出たことは、身体の巡りが持ち直している可能性を示す。ただ、それだけで十分とは言えない。
「ほかに気づいたことは?」
「手足の冷たさが朝より減っています。呼ぶとすぐ答えます。脈も少し触れやすいです」
「傷は?」
「赤いところは、朝の印より広がっていません。ただ、腫れと熱は残っています」
青洲は新吉を見た。
「今の源七を、どう考える?」
新吉は少し考えてから答えた。
「朝よりは良いと思います。でも、傷の悪いものが消えたとは言えません。今夜また寒気が出るかもしれません」
「そうだ」
新吉は、ほっとしたように肩を下ろした。
青洲は気づいていた。
新吉はもう、言われたことだけを繰り返す弟子ではない。
昨日と今日を比べ、自分で危険を考え、必要なことを伝えられるようになっていた。
その成長は、どんな不思議な力の表示より確かだった。
「新吉」
「はい」
「今夜も頼むぞ」
「はい。先生が来る前に、俺が変化を見つけます」
青洲は微笑んだ。
源七の寝床では、妻がそっと布団を掛け直していた。
まだ熱はある。
傷も塞がっていない。
命の危険が完全に去ったわけではない。
だが、長い夜の向こうに、小さな変化が見え始めていた。
青洲は源七の手首に触れた。
脈が打つ。
一度。
また一度。
その確かな感触を、新吉も隣で見守っていた。




