↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界No.1の外科医、異世界転生!?  作者: 阿門 甲斐吽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/32

【第29話】開かなければならない傷


天明(てんめい)六年(ろくねん)、冬(ふゆ)。


夜明(よあ)けの華岡家(はなおかけ)に、新吉(しんきち)の足音(あしおと)が響(ひび)いた。


「先生(せんせい)! 源七(げんしち)さんの脚(あし)が!」


「分(わ)かっている。湯(ゆ)を沸(わ)かしてくれ。それと、洗(あら)った布(ぬの)を用意(ようい)しろ」


青洲(せいしゅう)は寝床(ねどこ)の脇(わき)に座(すわ)り、源七(げんしち)の手首(てくび)に指(ゆび)を当(あ)てた。


脈(みゃく)が速(はや)い。


昨日(きのう)より弱(よわ)い。


額(ひたい)は熱(あつ)く、唇(くちびる)は乾(かわ)いている。


「源七(げんしち)、俺(おれ)の声(こえ)が分(わ)かるか」


「……へい」


「いつから寒気(さむけ)がした?」


「夜中(よなか)……歯(は)が鳴(な)るほど……」


右脚(みぎあし)を覆(おお)う布(ぬの)を外(はず)す。


赤(あか)みは、昨夜(ゆうべ)新吉(しんきち)が描(えが)いた線(せん)を越(こ)えていた。


傷(きず)の縁(ふち)は腫(は)れ、奥(おく)から濁(にご)った液(えき)がにじんでいる。


青洲(せいしゅう)は足先(あしさき)の色(いろ)と温(あたた)かさを確(たし)かめた。


「指(ゆび)を動(うご)かしてみろ」


源七(げんしち)は顔(かお)をゆがめながら、わずかに動(うご)かした。


「触(さわ)っているのは分(わ)かるか」


「……分(わ)かります」


感覚(かんかく)は残(のこ)っている。


だが、それだけで安心(あんしん)はできない。


傷(きず)の周囲(しゅうい)をそっと触(ふ)れる。


ある一点(いってん)で、源七(げんしち)が大(おお)きく身(み)をよじった。


「そこが一番(いちばん)痛(いた)むか」


「はい……奥(おく)が、張(は)り裂(さ)けそうで……」


青洲(せいしゅう)の表情(ひょうじょう)が引(ひ)き締(し)まった。


創部感染(そうぶかんせん)。


膿瘍(のうよう)。


深部組織(しんぶそしき)の壊死(えし)。


そして、敗血症(はいけつしょう)。


2025年(ねん)の蒼真(そうま)なら、すぐに血液検査(けつえきけんさ)を行(おこな)い、必要(ひつよう)に応(おう)じて画像検査(がぞうけんさ)で傷(きず)の奥(おく)を調(しら)べる。


抗菌薬(こうきんやく)を投与(とうよ)し、感染(かんせん)の原因(げんいん)を取(と)り除(のぞ)くための処置(しょち)を急(いそ)ぐ。


だが。


ここには。


血液検査(けつえきけんさ)も、画像診断装置(がぞうしんだんそうち)もない。


そして何(なに)より。


ペニシリンもない。


「……抗生物質(こうせいぶっしつ)さえあれば」


思(おも)わず漏(も)れた言葉(ことば)に、青洲(せいしゅう)は口(くち)を閉(と)じた。


知(し)っている。


ペニシリンが何(なん)なのか。


どういう病(やまい)に使(つか)うのか。


それが多(おお)くの命(いのち)を救(すく)ったことも。


だが、知識(ちしき)だけでは薬(くすり)は生(う)まれない。


カビから薬効(やっこう)のある物質(ぶっしつ)を取(と)り出(だ)し、不純物(ふじゅんぶつ)を除(のぞ)き、安全(あんぜん)に使(つか)える形(かたち)へ整(ととの)える。


そのための設備(せつび)も技術(ぎじゅつ)も、今(いま)はない。


青洲(せいしゅう)は目(め)の前(まえ)の源七(げんしち)を見(み)た。


存在(そんざい)しない薬(くすり)を求(もと)めている時間(じかん)はない。


「先生(せんせい)!」


新吉(しんきち)が戻(もど)ってきた。


「湯(ゆ)を沸(わ)かしています。布(ぬの)も用意(ようい)しています」


「よし。まず脈(みゃく)を診(み)ろ」


新吉(しんきち)が源七(げんしち)の手(て)を取(と)る。


「速(はや)いです。それに、昨日(きのう)より弱(よわ)い」


「顔色(かおいろ)は?」


「悪(わる)いです。目(め)も、ぼんやりしています」


「傷(きず)はどう見(み)える?」


「赤(あか)いところが広(ひろ)がっています。昨日(きのう)より腫(は)れも強(つよ)いです」


青洲(せいしゅう)は頷(うなず)いた。


「傷(きず)の中(なか)に膿(うみ)がたまっているかもしれない」


「膿(うみ)……」


「それだけじゃない。身体全体(からだぜんたい)にも悪(わる)い影響(えいきょう)が出始(ではじ)めている恐(おそ)れがある」


新吉(しんきち)の顔(かお)が強張(こわば)る。


「どうするんですか?」


「傷(きず)の奥(おく)を確(たし)かめる。膿(うみ)がたまっているなら、外(そと)へ出(だ)す」


「また切(き)るんですか?」


「必要(ひつよう)なところだけだ」


青洲(せいしゅう)は源七(げんしち)に向(む)き直(なお)った。


「源七(げんしち)。傷(きず)の中(なか)で悪(わる)いものがたまり、熱(ねつ)が出(で)ている疑(うたが)いがある。このままでは命(いのち)が危(あぶ)ない。傷(きず)を開(ひら)いて確(たし)かめたい」


「……脚(あし)は、残(のこ)りますか」


「残(のこ)すために、今(いま)できることをする」


源七(げんしち)は長(なが)く息(いき)を吐(は)いた。


「お願(ねが)いします……」


やがて、加恵(かえ)が湯(ゆ)を運(はこ)んできた。


「あなた、こちらでいいですか?」


「ああ。少(すこ)し冷(さ)まして、傷(きず)を洗(あら)うのに使(つか)う」


青洲(せいしゅう)は続(つづ)けた。


「それから、別(べつ)の湯(ゆ)で道具(どうぐ)を煮(に)てくれ」


「道具(どうぐ)を?」


「ああ。刃物(はもの)も、傷(きず)に触(ふ)れるものもだ」


加恵(かえ)が不思議(ふしぎ)そうに尋(たず)ねる。


「昨日(きのう)も、きれいに拭(ふ)いていましたけれど……」


「拭(ふ)いただけでは、落(お)ちないものがある」


青洲(せいしゅう)は器具(きぐ)の入(はい)った木箱(きばこ)を見(み)る。


その中(なか)には、傷(きず)を切(き)り開(ひら)くための刃物(はもの)や、縫(ぬ)い合(あ)わせるための針(はり)もあった。


しかし。


道具(どうぐ)があることと、安全(あんぜん)に使(つか)えることは違(ちが)う。


「加恵(かえ)。これからは、傷(きず)に使(つか)う道具(どうぐ)を、できるだけ清潔(せいけつ)に保(たも)ちたい」


「分(わ)かりました」


加恵(かえ)は、それ以上(いじょう)尋(たず)ねずに動(うご)いた。


新吉(しんきち)が青洲(せいしゅう)を見(み)る。


「先生(せんせい)、湯(ゆ)で煮(に)ると何(なに)が違(ちが)うんですか?」


「熱(ねつ)で、傷(きず)を悪(わる)くする原因(げんいん)の一部(いちぶ)を減(へ)らせる」


「汚(よご)れを落(お)とすためですか?」


「目(め)に見(み)える汚(よご)れだけじゃない」


新吉(しんきち)が首(くび)を傾(かし)げた。


「見(み)えない汚(よご)れもあるんですか?」


「ああ」


青洲(せいしゅう)は答(こた)えた。


「今(いま)はそう考(かんが)えておけ。目(め)に見(み)えなくても、傷(きず)を悪(わる)くするものがある」


新吉(しんきち)は納得(なっとく)しきれない様子(ようす)だった。


無理(むり)もない。


細菌(さいきん)の存在(そんざい)を説明(せつめい)するには、この時代(じだい)には証拠(しょうこ)が足(た)りない。


だが。


今(いま)すべてを理解(りかい)させる必要(ひつよう)はない。


まずは、誰(だれ)でも実行(じっこう)できる方法(ほうほう)に変(か)えることだ。


準備(じゅんび)が整(ととの)った。


青洲(せいしゅう)は手(て)を洗(あら)い、処置(しょち)に使(つか)う器具(きぐ)を確(たし)かめた。


「新吉(しんきち)。源七(げんしち)の顔(かお)を見(み)ていろ。息(いき)と脈(みゃく)もだ」


「はい」


「何(なに)か変(か)わったら、すぐに知(し)らせろ」


青洲(せいしゅう)は傷(きず)の処置(しょち)を始(はじ)めた。


すでに開(ひら)いている傷(きず)の一部(いちぶ)から、慎重(しんちょう)に内部(ないぶ)を確(たし)かめる。


腫(は)れた組織(そしき)の奥(おく)に、濁(にご)った液(えき)があった。


「……やはり」


「先生(せんせい)?」


「膿(うみ)がたまっている」


新吉(しんきち)の顔(かお)が強張(こわば)った。


青洲(せいしゅう)は必要(ひつよう)な範囲(はんい)だけ出口(でぐち)を確保(かくほ)し、たまっていた膿(うみ)を外(そと)へ逃(に)がした。


「ぐっ……ああっ!」


源七(げんしち)が叫(さけ)ぶ。


「すまない。もう少(すこ)しだ」


青洲(せいしゅう)は手(て)を急(いそ)がせなかった。


安全(あんぜん)な麻酔薬(ますいやく)があれば。


そう思(おも)わずにはいられない。


しかし、研究中(けんきゅうちゅう)の薬(くすり)を今(いま)ここで使(つか)うわけにはいかない。


呼吸(こきゅう)を弱(よわ)める危険(きけん)がある薬(くすり)を、状態(じょうたい)の悪(わる)い患者(かんじゃ)に試(ため)すことなどできなかった。


青洲(せいしゅう)は見(み)える範囲(はんい)を慎重(しんちょう)に確(たし)かめ、残(のこ)っていた汚(よご)れを取(と)り除(のぞ)いた。


そして、そこで止(と)めた。


「先生(せんせい)、もっと奥(おく)まで調(しら)べなくていいんですか?」


「必要(ひつよう)なら調(しら)べる。だが、見(み)えないところをむやみに切(き)れば、かえって傷(きず)を増(ふ)やす」


新吉(しんきち)は黙(だま)って頷(うなず)いた。


青洲(せいしゅう)は冷(さ)ました湯(ゆ)で傷(きず)を洗(あら)い、膿(うみ)が再(ふたた)び閉(と)じ込(こ)められないようにして布(ぬの)で保護(ほご)した。


出血(しゅっけつ)は多(おお)くない。


だが、源七(げんしち)の呼吸(こきゅう)は荒(あら)い。


「新吉(しんきち)。脈(みゃく)は?」


「速(はや)いままです」


「呼(よ)びかけには?」


「答(こた)えます。でも、疲(つか)れ切(き)っています」


青洲(せいしゅう)は源七(げんしち)の顔(かお)を見(み)た。


「源七(げんしち)。処置(しょち)は終(お)わった。よく耐(た)えた」


源七(げんしち)はかすかに頷(うなず)いた。


張(は)り裂(さ)けるような痛(いた)みは、少(すこ)し和(やわ)らいだらしい。


新吉(しんきち)が息(いき)を吐(は)く。


「先生(せんせい)。膿(うみ)が出(で)たなら、もう大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」


「まだだ」


青洲(せいしゅう)は即座(そくざ)に答(こた)えた。


「傷(きず)の中(なか)にたまったものは出(だ)せた。だが、身体(からだ)の中(なか)で起(お)きていることが、すぐに収(おさ)まるとは限(かぎ)らない」


そこで初(はじ)めて、意識(いしき)を集中(しゅうちゅう)した。


【生命解析(せいめいかいせき)】


【局所貯留物《きょくしょちょりゅうぶつ》:減少(げんしょう)】


【炎症反応(えんしょうはんのう):継続(けいぞく)】


【全身状態(ぜんしんじょうたい):不安定(ふあんてい)】


【感染拡大(かんせんかくだい):否定不可(ひていふか)】


【予後判定(よごはんてい):情報不足(じょうほうぶそく)】


表示(ひょうじ)を消(け)す。


何(なに)も保証(ほしょう)されていない。


昼(ひる)を過(す)ぎても、源七(げんしち)の熱(ねつ)は下(さ)がらなかった。


加恵(かえ)が水(みず)を運(はこ)ぶ。


「少(すこ)しずつなら飲(の)めるようです」


「むせないか、吐(は)かないかも見(み)てくれ」


「はい」


青洲(せいしゅう)は新吉(しんきち)を呼(よ)んだ。


「今日(きょう)の処置(しょち)を帳面(ちょうめん)に残(のこ)せ」


新吉(しんきち)が筆(ふで)を取(と)る。


朝(あさ)、傷(きず)の赤(あか)いところが昨夜(ゆうべ)より広(ひろ)がっていた。


源七(げんしち)は強(つよ)い寒気(さむけ)を訴(うった)え、脈(みゃく)が速(はや)く、返事(へんじ)も弱(よわ)かった。


先生(せんせい)が傷(きず)を確(たし)かめると、奥(おく)に膿(うみ)がたまっていた。


膿(うみ)を出(だ)したあと、張(は)るような痛(いた)みは少(すこ)し軽(かる)くなった。


しかし、熱(ねつ)はまだ強(つよ)く、脈(みゃく)も速(はや)い。


新吉(しんきち)は筆(ふで)を止(と)めた。


「先生(せんせい)。これでいいですか?」


「ああ」


青洲(せいしゅう)は帳面(ちょうめん)を見(み)た。


「もう一(ひと)つ書(か)いてくれ」


「何(なん)ですか?」


「今日(きょう)、道具(どうぐ)を湯(ゆ)で煮(に)たことだ」


「それもですか?」


「ああ。今後(こんご)も同(おな)じようにする」


新吉(しんきち)は首(くび)を傾(かし)げた。


「先生(せんせい)、傷(きず)を洗(あら)うだけじゃ足(た)りないんですか?」


「足(た)りない」


青洲(せいしゅう)は静(しず)かに答(こた)えた。


「傷(きず)を洗(あら)っても、汚(よご)れた道具(どうぐ)を使(つか)えば、また傷(きず)を悪(わる)くするかもしれない」


「……なるほど」


「布(ぬの)も同(おな)じだ。傷(きず)に触(ふ)れるものは、できるだけ清潔(せいけつ)にしておく」


新吉(しんきち)は筆(ふで)を走(はし)らせた。


傷(きず)を洗(あら)う湯(ゆ)は、一度(いちど)沸(わ)かしてから冷(さ)ましたものを使(つか)う。


傷(きず)に使(つか)う道具(どうぐ)は、全(すべ)て湯(ゆ)で煮(に)る。


傷(きず)に当(あ)てる布(ぬの)も、洗(あら)ったものを使(つか)い、汚(よご)れたら取(と)り替(か)える。


青洲(せいしゅう)は、その文字(もじ)を読(よ)んだ。


2025年(ねん)なら、当然(とうぜん)のように行(おこな)われていた感染予防(かんせんよぼう)。


だが。


1786年(ねん)では、まず習慣(しゅうかん)から変(か)えなければならない。


夕刻(ゆうこく)。


源七(げんしち)の妻(つま)が訪(おとず)れた。


「主人(しゅじん)は……助(たす)かるんでしょうか」


青洲(せいしゅう)は席(せき)を勧(すす)めた。


「傷(きず)の奥(おく)に膿(うみ)がたまっていたので、外(そと)へ出(だ)しました。ただ、熱(ねつ)は続(つづ)いています」


「……そうですか」


「今夜(こんや)も、ここで様子(ようす)を見(み)ます」


妻(つま)は深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げた。


青洲(せいしゅう)は、その背中(せなか)を見送(みおく)った。


医師(いし)の言葉一(ことばひと)つで、家族(かぞく)は希望(きぼう)も絶望(ぜつぼう)も抱(いだ)く。


だからこそ、根拠(こんきょ)のない安心(あんしん)は与(あた)えられない。


夜(よる)。


青洲(せいしゅう)は研究室(けんきゅうしつ)へ戻(もど)った。


机(つくえ)には、百三十一回目《ひゃくさんじゅういっかいめ》までの麻酔研究(ますいけんきゅう)の帳面(ちょうめん)がある。


その隣(となり)に、源七(げんしち)の記録(きろく)を置(お)いた。


麻酔(ますい)。


感染(かんせん)。


出血(しゅっけつ)。


どれも、外科医(げかい)が避(さ)けて通(とお)れない問題(もんだい)だった。


蒼真(そうま)は知(し)っている。


後(のち)の時代(じだい)、人類(じんるい)は抗菌薬(こうきんやく)を手(て)に入(い)れる。


ペニシリン。


その名前(なまえ)を思(おも)い浮(う)かべるだけで、どれほど多(おお)くの患者(かんじゃ)を救(すく)えたかが分(わ)かる。


だが。


今(いま)、この時代(じだい)に、その薬(くすり)を作(つく)ることはできない。


ならば。


できることから始(はじ)めるしかない。


傷(きず)を洗(あら)う。


道具(どうぐ)を清潔(せいけつ)にする。


布(ぬの)を清潔(せいけつ)に保(たも)つ。


汚(よご)れた傷(きず)を、むやみに縫(ぬ)い閉(と)じない。


処置後(しょちご)の変化(へんか)を記録(きろく)する。


そして。


何(なに)が患者(かんじゃ)の命(いのち)を守(まも)り、何(なに)が危険(きけん)を増(ふ)やすのか。


一(ひと)つずつ確(たし)かめる。


「……麻酔(ますい)だけじゃないな」


青洲(せいしゅう)は呟(つぶや)いた。


眠(ねむ)らせる技術(ぎじゅつ)だけでは、手術(しゅじゅつ)は完成(かんせい)しない。


手術中(しゅじゅつちゅう)に命(いのち)を守(まも)ること。


手術後(しゅじゅつご)も命(いのち)を守(まも)ること。


その両方(りょうほう)が必要(ひつよう)だった。


青洲(せいしゅう)は新(あたら)しい帳面(ちょうめん)を取(と)り出(だ)した。


表紙(ひょうし)には、ただ一言(ひとこと)。


傷(きず)の手当(てあ)てについて。


そう書(か)いた。


最初(さいしょ)の頁(ページ)には、今日(きょう)の経験(けいけん)を記(しる)す。


傷(きず)を悪(わる)くしないためには、傷(きず)そのものだけでなく、手(て)や道具(どうぐ)、布(ぬの)の清潔(せいけつ)さにも気(き)を配(くば)る必要(ひつよう)がある。


ただし、それで傷(きず)の腐(くさ)りを完全(かんぜん)に防(ふせ)げるわけではない。


これから、処置(しょち)の前後(ぜんご)をよく比(くら)べていく。


筆(ふで)を置(お)いた時(とき)。


隣室(りんしつ)から新吉(しんきち)の声(こえ)がした。


「先生(せんせい)!」


青洲(せいしゅう)は立(た)ち上(あ)がった。


「どうした!」


「源七(げんしち)さんが、また寒(さむ)いと……!」


青洲(せいしゅう)は研究室(けんきゅうしつ)を飛(と)び出(だ)した。


傷(きず)の中(なか)の膿(うみ)を出(だ)した。


だが。


身体(からだ)の中(なか)で進(すす)んでいる異変(いへん)は、まだ止(と)まっていないのかもしれない。


青洲(せいしゅう)は源七(げんしち)の寝床(ねどこ)へ急(いそ)いだ。


未来(みらい)の薬(くすり)はない。


未来(みらい)の道具(どうぐ)もない。


それでも。


目(め)の前(まえ)の命(いのち)を諦(あきら)める理由(りゆう)にはならない。


青洲(せいしゅう)は源七(げんしち)の手首(てくび)に指(ゆび)を当(あ)てた。


脈(みゃく)は、まだ速(はや)かった。


長(なが)い夜(よる)が。


再(ふたた)び始(はじ)まろうとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。