【第29話】開かなければならない傷
天明六年、冬。
夜明けの華岡家に、新吉の足音が響いた。
「先生! 源七さんの脚が!」
「分かっている。湯を沸かしてくれ。それと、洗った布を用意しろ」
青洲は寝床の脇に座り、源七の手首に指を当てた。
脈が速い。
昨日より弱い。
額は熱く、唇は乾いている。
「源七、俺の声が分かるか」
「……へい」
「いつから寒気がした?」
「夜中……歯が鳴るほど……」
右脚を覆う布を外す。
赤みは、昨夜新吉が描いた線を越えていた。
傷の縁は腫れ、奥から濁った液がにじんでいる。
青洲は足先の色と温かさを確かめた。
「指を動かしてみろ」
源七は顔をゆがめながら、わずかに動かした。
「触っているのは分かるか」
「……分かります」
感覚は残っている。
だが、それだけで安心はできない。
傷の周囲をそっと触れる。
ある一点で、源七が大きく身をよじった。
「そこが一番痛むか」
「はい……奥が、張り裂けそうで……」
青洲の表情が引き締まった。
創部感染。
膿瘍。
深部組織の壊死。
そして、敗血症。
2025年の蒼真なら、すぐに血液検査を行い、必要に応じて画像検査で傷の奥を調べる。
抗菌薬を投与し、感染の原因を取り除くための処置を急ぐ。
だが。
ここには。
血液検査も、画像診断装置もない。
そして何より。
ペニシリンもない。
「……抗生物質さえあれば」
思わず漏れた言葉に、青洲は口を閉じた。
知っている。
ペニシリンが何なのか。
どういう病に使うのか。
それが多くの命を救ったことも。
だが、知識だけでは薬は生まれない。
カビから薬効のある物質を取り出し、不純物を除き、安全に使える形へ整える。
そのための設備も技術も、今はない。
青洲は目の前の源七を見た。
存在しない薬を求めている時間はない。
「先生!」
新吉が戻ってきた。
「湯を沸かしています。布も用意しています」
「よし。まず脈を診ろ」
新吉が源七の手を取る。
「速いです。それに、昨日より弱い」
「顔色は?」
「悪いです。目も、ぼんやりしています」
「傷はどう見える?」
「赤いところが広がっています。昨日より腫れも強いです」
青洲は頷いた。
「傷の中に膿がたまっているかもしれない」
「膿……」
「それだけじゃない。身体全体にも悪い影響が出始めている恐れがある」
新吉の顔が強張る。
「どうするんですか?」
「傷の奥を確かめる。膿がたまっているなら、外へ出す」
「また切るんですか?」
「必要なところだけだ」
青洲は源七に向き直った。
「源七。傷の中で悪いものがたまり、熱が出ている疑いがある。このままでは命が危ない。傷を開いて確かめたい」
「……脚は、残りますか」
「残すために、今できることをする」
源七は長く息を吐いた。
「お願いします……」
やがて、加恵が湯を運んできた。
「あなた、こちらでいいですか?」
「ああ。少し冷まして、傷を洗うのに使う」
青洲は続けた。
「それから、別の湯で道具を煮てくれ」
「道具を?」
「ああ。刃物も、傷に触れるものもだ」
加恵が不思議そうに尋ねる。
「昨日も、きれいに拭いていましたけれど……」
「拭いただけでは、落ちないものがある」
青洲は器具の入った木箱を見る。
その中には、傷を切り開くための刃物や、縫い合わせるための針もあった。
しかし。
道具があることと、安全に使えることは違う。
「加恵。これからは、傷に使う道具を、できるだけ清潔に保ちたい」
「分かりました」
加恵は、それ以上尋ねずに動いた。
新吉が青洲を見る。
「先生、湯で煮ると何が違うんですか?」
「熱で、傷を悪くする原因の一部を減らせる」
「汚れを落とすためですか?」
「目に見える汚れだけじゃない」
新吉が首を傾げた。
「見えない汚れもあるんですか?」
「ああ」
青洲は答えた。
「今はそう考えておけ。目に見えなくても、傷を悪くするものがある」
新吉は納得しきれない様子だった。
無理もない。
細菌の存在を説明するには、この時代には証拠が足りない。
だが。
今すべてを理解させる必要はない。
まずは、誰でも実行できる方法に変えることだ。
準備が整った。
青洲は手を洗い、処置に使う器具を確かめた。
「新吉。源七の顔を見ていろ。息と脈もだ」
「はい」
「何か変わったら、すぐに知らせろ」
青洲は傷の処置を始めた。
すでに開いている傷の一部から、慎重に内部を確かめる。
腫れた組織の奥に、濁った液があった。
「……やはり」
「先生?」
「膿がたまっている」
新吉の顔が強張った。
青洲は必要な範囲だけ出口を確保し、たまっていた膿を外へ逃がした。
「ぐっ……ああっ!」
源七が叫ぶ。
「すまない。もう少しだ」
青洲は手を急がせなかった。
安全な麻酔薬があれば。
そう思わずにはいられない。
しかし、研究中の薬を今ここで使うわけにはいかない。
呼吸を弱める危険がある薬を、状態の悪い患者に試すことなどできなかった。
青洲は見える範囲を慎重に確かめ、残っていた汚れを取り除いた。
そして、そこで止めた。
「先生、もっと奥まで調べなくていいんですか?」
「必要なら調べる。だが、見えないところをむやみに切れば、かえって傷を増やす」
新吉は黙って頷いた。
青洲は冷ました湯で傷を洗い、膿が再び閉じ込められないようにして布で保護した。
出血は多くない。
だが、源七の呼吸は荒い。
「新吉。脈は?」
「速いままです」
「呼びかけには?」
「答えます。でも、疲れ切っています」
青洲は源七の顔を見た。
「源七。処置は終わった。よく耐えた」
源七はかすかに頷いた。
張り裂けるような痛みは、少し和らいだらしい。
新吉が息を吐く。
「先生。膿が出たなら、もう大丈夫ですか?」
「まだだ」
青洲は即座に答えた。
「傷の中にたまったものは出せた。だが、身体の中で起きていることが、すぐに収まるとは限らない」
そこで初めて、意識を集中した。
【生命解析】
【局所貯留物:減少】
【炎症反応:継続】
【全身状態:不安定】
【感染拡大:否定不可】
【予後判定:情報不足】
表示を消す。
何も保証されていない。
昼を過ぎても、源七の熱は下がらなかった。
加恵が水を運ぶ。
「少しずつなら飲めるようです」
「むせないか、吐かないかも見てくれ」
「はい」
青洲は新吉を呼んだ。
「今日の処置を帳面に残せ」
新吉が筆を取る。
朝、傷の赤いところが昨夜より広がっていた。
源七は強い寒気を訴え、脈が速く、返事も弱かった。
先生が傷を確かめると、奥に膿がたまっていた。
膿を出したあと、張るような痛みは少し軽くなった。
しかし、熱はまだ強く、脈も速い。
新吉は筆を止めた。
「先生。これでいいですか?」
「ああ」
青洲は帳面を見た。
「もう一つ書いてくれ」
「何ですか?」
「今日、道具を湯で煮たことだ」
「それもですか?」
「ああ。今後も同じようにする」
新吉は首を傾げた。
「先生、傷を洗うだけじゃ足りないんですか?」
「足りない」
青洲は静かに答えた。
「傷を洗っても、汚れた道具を使えば、また傷を悪くするかもしれない」
「……なるほど」
「布も同じだ。傷に触れるものは、できるだけ清潔にしておく」
新吉は筆を走らせた。
傷を洗う湯は、一度沸かしてから冷ましたものを使う。
傷に使う道具は、全て湯で煮る。
傷に当てる布も、洗ったものを使い、汚れたら取り替える。
青洲は、その文字を読んだ。
2025年なら、当然のように行われていた感染予防。
だが。
1786年では、まず習慣から変えなければならない。
夕刻。
源七の妻が訪れた。
「主人は……助かるんでしょうか」
青洲は席を勧めた。
「傷の奥に膿がたまっていたので、外へ出しました。ただ、熱は続いています」
「……そうですか」
「今夜も、ここで様子を見ます」
妻は深く頭を下げた。
青洲は、その背中を見送った。
医師の言葉一つで、家族は希望も絶望も抱く。
だからこそ、根拠のない安心は与えられない。
夜。
青洲は研究室へ戻った。
机には、百三十一回目までの麻酔研究の帳面がある。
その隣に、源七の記録を置いた。
麻酔。
感染。
出血。
どれも、外科医が避けて通れない問題だった。
蒼真は知っている。
後の時代、人類は抗菌薬を手に入れる。
ペニシリン。
その名前を思い浮かべるだけで、どれほど多くの患者を救えたかが分かる。
だが。
今、この時代に、その薬を作ることはできない。
ならば。
できることから始めるしかない。
傷を洗う。
道具を清潔にする。
布を清潔に保つ。
汚れた傷を、むやみに縫い閉じない。
処置後の変化を記録する。
そして。
何が患者の命を守り、何が危険を増やすのか。
一つずつ確かめる。
「……麻酔だけじゃないな」
青洲は呟いた。
眠らせる技術だけでは、手術は完成しない。
手術中に命を守ること。
手術後も命を守ること。
その両方が必要だった。
青洲は新しい帳面を取り出した。
表紙には、ただ一言。
傷の手当てについて。
そう書いた。
最初の頁には、今日の経験を記す。
傷を悪くしないためには、傷そのものだけでなく、手や道具、布の清潔さにも気を配る必要がある。
ただし、それで傷の腐りを完全に防げるわけではない。
これから、処置の前後をよく比べていく。
筆を置いた時。
隣室から新吉の声がした。
「先生!」
青洲は立ち上がった。
「どうした!」
「源七さんが、また寒いと……!」
青洲は研究室を飛び出した。
傷の中の膿を出した。
だが。
身体の中で進んでいる異変は、まだ止まっていないのかもしれない。
青洲は源七の寝床へ急いだ。
未来の薬はない。
未来の道具もない。
それでも。
目の前の命を諦める理由にはならない。
青洲は源七の手首に指を当てた。
脈は、まだ速かった。
長い夜が。
再び始まろうとしていた。




