【第28話】傷が熱を持つとき
天明六年、冬。
夜明け前。
青洲は、源七が休んでいる部屋の戸を静かに開けた。
雨はやんでいた。
だが、障子の向こうはまだ暗い。
「……先生」
寝床から、かすれた声がした。
「起こしたか」
「いえ。脚が、ずきずきして……」
青洲は枕元に膝をついた。
源七の額に触れる。
熱は、昨夜より少し高いように感じた。
「寒気は?」
「夜中に少し。今は暑くて」
「水は飲めたか?」
「加恵さんが持ってきてくれました。少しだけ」
青洲は脈を診た。
速い。
だが、昨日運び込まれた時の、頼りない脈とは違う。
足先の色を見て、指を動かしてもらう。
「ここは分かるか?」
「はい」
「こっちは?」
「……そこも」
感覚は残っている。
それでも、傷の周囲は腫れ始めていた。
青洲は布を外す前に、染み出したものの色と量を見た。
新しい血は多くない。
代わりに、薄く濁った液が付いている。
「新吉を呼んでくれ」
加恵に頼むと、青洲は源七へ向き直った。
「傷を確かめる。痛むが、少し我慢してくれ」
布を慎重に外す。
斧が裂いた傷。
昨日取り除いた木くずは見えない。
しかし、縁の一部が赤く、熱を持っていた。
青洲は眉を寄せる。
怪我の翌日なら、傷の周囲に炎症が起きること自体は珍しくない。
だが、汚れた深い傷だ。
感染が始まっている可能性を、見逃すわけにはいかない。
「先生!」
新吉が入ってきた。
「源七さん、具合が悪いんですか?」
「まず診ろ」
新吉は寝床に近づき、脈を取った。
「昨日より、しっかりしています。でも、少し速いです」
「傷は?」
「赤くなっています。昨日は、こんなに腫れていませんでした」
「触ってみろ。そっとだ」
新吉が傷の周囲に指を近づける。
「熱い……」
「どこまで熱い?」
新吉は周囲の皮膚と比べた。
「傷のすぐ近くです。脚全体ではありません」
「源七、痛みは昨日より強いか?」
「夜から強くなりました。じっとしていても痛みます」
青洲は頷いた。
「感染の兆候が……」
「かんせん?」
新吉が首を傾げる。
青洲は口を閉じた。
まただ。
診察に集中すると、蒼真の言葉が先に出る。
「……傷に入り込んだ汚れから、悪いものが増えているかもしれない、ということだ」
「悪いもの?」
「目には見えないほど小さいものもある。傷を悪くする原因になる」
新吉は傷口を見た。
「でも、昨日、洗いましたよね」
「洗っても、すべて取り除けたとは限らない」
青洲は、源七にも聞こえるように続けた。
「それに、赤くなること全部が、傷の腐り始めとは限らない。だから変わり方を見る」
新吉が小さく頷く。
青洲は、ここで初めて意識を集中した。
【生命解析】
【右下肢:創傷】
【局所炎症:上昇】
【感染可能性:あり】
【全身状態:経過観察】
【原因確定:不可】
やはり断定はできない。
表示を消し、もう一度傷を見る。
「新吉。昨日、なぜ全部縫わなかった?」
「泥や木くずが残っていたら、中で傷が悪くなるからです」
「そうだ」
青洲は、開けておいた部分を確かめた。
昨日より腫れている。
だが、今のところ大量の膿がたまっている様子はない。
傷を広く切り直す理由も、まだ見つからない。
「先生、また切るんですか?」
新吉が尋ねる。
「今は切らない」
「どうして?」
「赤いからといって、すぐ切ればいいわけじゃない。昨日も言っただろう。生きている肉まで傷つけてはいけない」
青洲は、汚れが新たに付かないよう気を配りながら、傷を確かめ直した。
必要なところを洗い、布を替える。
源七は歯を食いしばった。
「すまない。もう少しだ」
処置を終えると、青洲は足先をもう一度確認した。
色。
温かさ。
指の動き。
触れた感覚。
昨夜と大きな違いはない。
「今は傷を守って、変化を見よう」
「……治るんでしょうか」
源七が尋ねた。
青洲は即答しなかった。
「治るように手を尽くす。だが、熱が強くなったり、腫れが広がったりすれば、別の処置が必要になる」
源七は唇を噛んだ。
「山へ戻れますか」
「その話は、まず命と脚を守ってからだ」
源七は目を閉じた。
青洲には、その沈黙の意味が分かった。
働けなければ、家族が困る。
この時代の怪我は、身体だけの問題ではない。
昼前。
新吉が帳面を持って戻ってきた。
「先生、朝のことを書きました」
青洲は受け取り、丁寧に開いた。
源七は夜中から脚が強く痛むと言う。
朝は少し熱があり、傷の周りが赤く腫れていた。
昨日ほど血は出ていないが、布に濁った汁が付いていた。
足の指は動き、触れたことも分かる。
傷を洗い、布を替えた。
これから赤みが広がらないか確かめる。
「よく書けている」
「でも、先生」
「何だ?」
「少し熱がある、って書き方じゃ、前と同じですよね」
青洲は顔を上げた。
「どういうことだ?」
「昨日より熱いと思っても、明日になったら、今日がどれくらいだったか分からなくなります」
青洲は新吉を見た。
その通りだった。
体温計はない。
だが、比較の方法までないわけではない。
「なら、同じ場所を、同じ手で確かめろ。傷の近くと、離れたところを比べる」
「毎回、同じように?」
「ああ。それと赤いところの広がりを、絵に残そう」
「絵ですか?」
「上手でなくていい。どこが赤く、どこが腫れていたか分かればいい」
新吉は紙を広げ、脚の形を描き始めた。
線は少し曲がっている。
青洲は直さなかった。
絵の上手さではない。
昨日と今日の違いが伝わるかどうかだ。
夕方。
源七の妻が、幼い娘を連れて訪ねてきた。
「亭主は……」
「出血は落ち着いています。ただ、傷に熱と腫れが出ています」
妻の顔が曇った。
「脚を切らなければなりませんか」
「今、そう決める理由はありません」
青洲は落ち着いて答えた。
「けれど、油断はできません。今夜もここで休んでもらいます」
娘が、寝床の父親を見つめていた。
「父ちゃん、帰らないの?」
源七は笑おうとした。
だが、痛みで顔が引きつる。
青洲は、その姿を見て思った。
2025年なら、傷の奥を調べる手段がある。
細菌を調べることも、抗菌薬を使うこともできる。
血液検査で全身の変化を追うこともできる。
ここには、そのどれもない。
あるのは。
傷の色。
熱。
痛み。
腫れ。
脈。
患者の声。
そして、昨日からの違い。
夜。
新吉が源七の傷を確かめた。
青洲は少し離れて見守る。
「赤いところは……朝とほとんど同じです」
「腫れは?」
「少し強いようにも見えます」
「痛みは?」
新吉が源七に尋ねる。
「朝よりは、少しましだ」
新吉は帳面に書こうとして、手を止めた。
「先生」
「何だ?」
「赤いところが広がっていなくても、腫れが強くなるなら、よくなったとは言えませんよね」
「ああ」
「でも痛みは少し減っている」
「そうだ」
「……どれを信じればいいんですか?」
青洲は答えた。
「一つだけを信じるな」
新吉が顔を上げる。
「全部見ろ。良くなったところも、悪くなったところもだ」
その時。
青洲の視界に、淡い青色の文字が浮かんだ。
【完全記録】
【同一症例:経過比較】
【出血:減少】
【局所腫脹:増加傾向】
【疼痛:軽減傾向】
【感染危険度:継続】
【総合判定:経過観察】
青洲は表示を消した。
新吉が見たものと、大きく違わない。
それでいい。
翌朝。
青洲が源七の部屋へ入ると、加恵が水を替えていた。
「あなた」
声が少し硬い。
「源七さんが、昨夜から何度も寒いと……」
青洲は寝床へ近づいた。
源七の額に触れる。
熱い。
昨日より、明らかに。
「源七、聞こえるか?」
「……先生」
声に力がない。
脈を取る。
速い。
傷の周りを見る。
赤みが、昨夜描いた線より外へ広がっていた。
青洲の表情が引き締まる。
「新吉を呼んでくれ」
加恵が立ち上がる。
青洲は傷を見つめた。
昨日、すべて縫わなかった判断は間違っていない。
だが。
縫わなければ安全というわけでもない。
傷の中で、何かが進んでいる。
青洲は静かに息を吐いた。
「……ここからが本当の勝負だ」
源七の命を守るために。
次の判断を下す時が、来ていた。




