【第27話】縫える傷、縫えない傷
天明六年、冬。
紀伊国、華岡家。
朝から冷たい雨が降っていた。
青洲は診察室で、前日に書いた帳面を読み返していた。
百三十一回目の実験。
薬を与える前から呼吸が浅かった小動物は、投与後、さらに呼吸が弱くなった。
しかし。
それだけで危険を予測できるわけではない。
一つの結果では足りない。
その結論を確かめるため、青洲は次の実験条件を考えていた。
「先生!」
突然、表から新吉の声がした。
「怪我人です! 血が止まらないそうです!」
青洲は帳面を閉じた。
「どこを怪我した?」
「脚です! 山で木を切っていて!」
その時。
戸が開き、二人の男が一人の男を抱えて入ってきた。
患者は三十代ほど。
顔色が悪い。
右脚には布が巻かれているが、赤黒い血が染み出していた。
「ここへ寝かせろ」
青洲が指示する。
男たちは患者を横たえた。
「名前は?」
「……源七」
「源七。俺の声が聞こえるか?」
「へ、へい……」
「何があった?」
「斧が……滑って……」
言葉にならず付き添いの男が説明した。
「薪を割っていたんです。濡れた木に足を取られて、斧が脚へ……」
青洲は傷口を見る。
布を外す前に、出血の様子を確認した。
「新吉。脈を診ろ」
「はい!」
新吉が手首に触れる。
「速いです。それに、弱い……」
「顔色は?」
「青白いです」
「息は?」
「少し速いです」
青洲は頷いた。
血を失っている。
かなりの量だ。
「出血性ショックの可能性が……」
「先生?」
新吉が顔を上げた。
「しょっく?」
付き添いの男たちも、不安そうに顔を見合わせる。
青洲は一瞬、言葉を止めた。
しまった。
2025年の言葉が出た。
「……血を多く失って、身体の中を巡る血が足りなくなっているということだ」
「血が足りない……」
「ああ。このままでは命に関わる」
青洲は源七を見る。
「源七。少し痛むぞ」
「……お願いします」
布を慎重に外す。
右脚の外側。
膝より下に、深い傷が走っていた。
泥。
木くず。
衣服の切れ端。
傷の中に異物が入り込んでいる。
そして。
布を外した途端、血が再び流れ出した。
「新吉。清潔な布を!」
「はい!」
青洲は傷を圧迫した。
出血を抑えながら、血の出方を確かめる。
勢いよく噴き出す出血ではない。
だが、傷は深い。
血管を傷つけている可能性がある。
「脚の先は動くか?」
「……う、動きます」
「足の指を動かしてみろ」
源七が、ゆっくりと指を動かした。
青洲は足先に触れる。
冷たさ。
色。
触れられた感覚。
左右の違い。
確かめられるものを、一つずつ確認する。
「ここは分かるか?」
「……へい」
「こっちは?」
「分かります」
少なくとも、今のところ反応はある。
青洲は視界の端へ意識を向けた。
【医神の眼】
【右下肢:深部損傷】
【軟部組織損傷:確認】
【血管損傷:疑い】
【異物混入:確認】
【解析精度:制限あり】
表示を消す。
血管がどこまで傷ついているのか。
完全には分からない。
それでも。
やるべきことは決まっていた。
「新吉。湯を沸かせ。清潔な布も用意しろ」
「はい!」
「加恵には、傷を扱う道具を持ってくるよう伝えてくれ」
新吉が走る。
青洲は圧迫を続けた。
源七の呼吸が荒い。
「先生……脚は……」
「まだ分からない。だが、助けるためにできることはする」
「切り落とすんですか……?」
「今、そんなことを決める段階じゃない」
青洲は、はっきり答えた。
「まず血を止める」
しばらくして。
新吉が戻ってきた。
加恵も道具を運んでくる。
木箱の中には、京都で学んだ外科の道具が収められていた。
刃物。
鉗子に似た金属器具。
縫い針。
糸。
青洲は、それらを見た。
2025年なら。
滅菌された手術器具。
吸収糸。
縫合針。
輸血。
抗菌薬。
必要なら血管を修復する道具もある。
だが。
ここにはない。
目の前にあるのは、父から受け継いだものと、京都で手に入れた外科道具だけだった。
「先生、縫うんですか?」
新吉が尋ねる。
「まだだ」
「え?」
「このまま閉じたら危ない」
青洲は傷口を示した。
「泥や木くずが入っている」
「でも、縫えば血が止まるんじゃ……」
「傷を閉じることと、血を止めることは違う」
新吉が黙る。
青洲は続けた。
「汚れを中へ閉じ込めれば、あとで傷が腐ることがある」
「腐る……」
「ああ」
青洲は、つい口にした。
「まずデブリードマンを……」
「先生?」
「……いや」
新吉が困った顔をする。
「また、知らない言葉です」
青洲は苦笑しかけたが、すぐに表情を戻した。
「傷の中の汚れや、ひどく傷んだ肉を見極めて取り除くということだ」
「なるほど……」
「ただし、何でも切り取ればいいわけじゃない。生きている肉まで傷つけたら、治るものも治らなくなる」
青洲は傷を見た。
出血は、圧迫によって少し落ち着いている。
それでも。
源七の顔色は悪い。
青洲は新吉に尋ねた。
「脈は?」
「まだ速いです。でも、さっきより少し力があります」
「よし。見続けろ」
青洲は傷の処置を進めた。
十分に冷ました湯を使い、見える汚れを慎重に洗い流す。
木くずを取り除く。
傷の深さを確かめる。
血が出ている場所を見極める。
源七が歯を食いしばった。
「ぐっ……!」
「すまない。もう少しだ」
青洲は手を止めず、しかし急ぎすぎもしなかった。
傷の奥に。
まだ汚れが残っている。
ここで無理に縫い合わせれば、傷の中で悪くなる危険がある。
「先生」
新吉が小声で言う。
「縫わないんですか?」
「全部は閉じない」
「全部は?」
「ああ」
青洲は説明した。
「必要なところは処置する。だが、汚れが残る恐れのある傷を、無理に塞がない」
新吉は傷口を見つめた。
「縫えるのに、縫わない……」
「そうだ」
青洲は答えた。
「縫えることと、縫っていいことは違う」
その言葉に。
新吉は、はっとした。
数日前。
麻酔薬の研究で聞いた言葉。
危ないと分かっているなら、無理に薬を使わない。
あの時と同じだった。
青洲は、出血している箇所への処置を優先した。
深い傷の一部には、血を止めるための処置が必要だった。
だが、汚れの入り込んだ部分は、慎重に扱う。
すべてを一度に縫い閉じることはしなかった。
やがて。
出血が落ち着いた。
青洲は新しい布で傷を保護した。
「源七」
「……へい」
「血はひとまず落ち着いた。だが、これで治ったわけじゃない」
「……脚は?」
「今は動いている。だが、腫れや熱が出ないか、傷が悪くならないか、これから見なければならない」
源七が、かすかに頷いた。
青洲は新吉を見る。
「脈は?」
「さっきより落ち着いています」
「息は?」
「少しゆっくりになりました」
「顔色は?」
「まだ白いです」
「そうだ。だから安心はできない」
青洲は、源七のそばに座った。
今すぐ立たせるわけにはいかない。
血を失った身体は、見た目以上に弱っている。
新吉が帳面を開く。
「先生、何を書けばいいですか?」
「見たことを書け」
新吉は筆を取った。
山仕事の途中、斧で右脚を深く切った男。
運ばれてきた時は顔が白く、脈が速くて弱かった。
傷には泥と木くずが入り、血が多く出ていた。
先生が傷を押さえると、血の出方が少し弱まった。
湯で汚れを洗い、木くずを取り除いた。
傷はすべて縫い閉じず、布で覆った。
処置のあと、脈は少し落ち着いたが、顔色はまだ悪い。
新吉は筆を止めた。
「これでいいですか?」
「ああ」
「でも先生」
「何だ?」
「傷を縫わなかったことも、書いておいた方がいいですか?」
青洲は頷いた。
「理由もな」
新吉は、もう一度筆を取った。
傷の中に汚れが残る恐れがあるため、すべては縫わなかった。
あとで傷が悪くならないか、よく見ること。
「……できました」
「よし」
青洲は、その文字を読んだ。
新吉は、少しずつ変わっている。
言われたことだけを書くのではない。
なぜそうしたのか。
何を確かめるべきなのか。
考えて残そうとしている。
夕方。
雨はまだ降っていた。
源七は、華岡家で様子を見ることになった。
青洲は再び脈を診る。
先ほどよりは落ち着いている。
だが。
出血の影響は残っている。
傷が化膿する可能性もある。
今夜。
明日。
そして数日後。
注意しなければならないことは多い。
青洲は、源七の足元に目を向けた。
視界に淡い文字が浮かぶ。
【生命解析】
【出血:減少】
【循環状態:改善傾向】
【全身状態:低下】
【感染危険度:高】
【継続観察を推奨】
青洲は表示を消した。
分かっている。
傷を閉じれば終わりではない。
手術が終われば、治療が終わるわけでもない。
2025年の蒼真なら。
この患者に使いたいものが、いくつもある。
だが。
この時代にはない。
だからこそ。
今ある道具と知識で。
できることを積み重ねる。
「先生」
新吉が近づいてきた。
「今日の傷、京都で習ったんですか?」
青洲の手が止まった。
「……何がだ?」
「傷を診る速さです。それに、どこを触って、どこを残すか、迷いがなかったから」
青洲は、新吉を見た。
その目には。
純粋な疑問が浮かんでいる。
「京都でも外科は学んだ」
「でも……」
新吉が言いかける。
「先生は、何度も同じような傷を治したことがあるみたいでした」
青洲は答えなかった。
脳裏に。
2025年の手術室が浮かぶ。
白い照明。
手術台。
無数の器具。
何千回と繰り返した手術。
その記憶が。
今の自分の手を動かしている。
「……長く学んできたからな」
青洲は、それだけ答えた。
新吉は不思議そうにしていたが、それ以上は聞かなかった。
夜。
源七の傷を確かめた青洲は、研究室へ戻った。
机には。
百三十一回目までの麻酔研究の帳面がある。
そして。
今日の外傷の記録。
青洲は二つを並べた。
薬を使うか。
使わないか。
傷を縫うか。
縫わないか。
どちらも。
できることを増やすだけでは足りない。
いつ行うべきか。
いつ行わないべきか。
その判断が必要だった。
「……同じだな」
青洲は呟く。
医術とは。
技を持つことではない。
命を守るために。
その技を使うかどうかを決めることだ。
その夜。
青洲は、源七の記録の最後へ一文を書いた。
傷は処置した。しかし、治ったかどうかは、これから決まる。
筆を置く。
隣の部屋では。
源七が静かに眠っていた。
青洲は灯火を見つめる。
明日の朝。
傷がどうなっているか。
それを確かめるまでは。
今日の治療の結果など。
誰にも分からなかった。




