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世界No.1の外科医、異世界転生!?  作者: 阿門 甲斐吽


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18/22

【第18話】安全という名の境界線


 天明(てんめい)六年(ろくねん)、晩秋(ばんしゅう)。


 夜明(よあ)け前(まえ)。


 華岡家(はなおかけ)の研究室(けんきゅうしつ)には、すでに灯(あか)りがともっていた。


 机(つくえ)の上(うえ)には。


 薬草(やくそう)。


 秤(はかり)。


 すり鉢(ばち)。


 そして。


 何冊(なんさつ)もの実験帳(じっけんちょう)。


 青洲(せいしゅう)は、そのうちの一冊(いっさつ)を開(ひら)いていた。


 そこに記(しる)されているのは。


 この一年(いちねん)。


 積(つ)み重(かさ)ねてきた麻酔薬(ますいやく)の研究記録(けんきゅうきろく)だった。


 曼陀羅華(まんだらげ)。


 草烏頭(とりかぶと)。


 白芷(びゃくし)。


 当帰(とうき)。


 川芎(せんきゅう)。


 そして、組(く)み合(あ)わせを試(ため)しているもう一(ひと)つの薬草(やくそう)。


 薬草(やくそう)の配合(はいごう)。


 量(りょう)。


 採取(さいしゅ)した時期(じき)。


 産地(さんち)。


 乾燥方法(かんそうほうほう)。


 保存期間(ほぞんきかん)。


 煎(せん)じる時間(じかん)。


 煎(せん)じる水(みず)の量(りょう)。


 さらに。


 小動物(しょうどうぶつ)を使(つか)って確認(かくにん)した反応(はんのう)。


 眠(ねむ)りの深(ふか)さ。


 刺激(しげき)への反応(はんのう)。


 呼吸(こきゅう)。


 脈(みゃく)。


 そして。


 再(ふたた)び自力(じりき)で動(うご)き始(はじ)めるまでの時間(じかん)。


 そのすべてに。


 青洲(せいしゅう)は番号(ばんごう)をつけていた。


 番号(ばんごう)は。


 使(つか)った動物(どうぶつ)の数(かず)ではない。


 一(ひと)つ条件(じょうけん)を変(か)えれば。


 新(あたら)しい実験(じっけん)として記録(きろく)する。


 薬草(やくそう)の量(りょう)を変(か)える。


 配合(はいごう)を変(か)える。


 煎(せん)じ方(かた)を変(か)える。


 乾燥条件(かんそうじょうけん)を変(か)える。


 そして。


 実際(じっさい)に生体(せいたい)へ与(あた)え。


 反応(はんのう)を確認(かくにん)する。


 一(ひと)つずつ。


 一(ひと)つずつ。


 積(つ)み重(かさ)ねてきた。


 青洲(せいしゅう)が頁(ページ)をめくる。


【研究記録(けんきゅうきろく)】


【実験番号(じっけんばんごう):112】


【薬草配合(やくそうはいごう):複合(ふくごう)】


【投与量(とうよりょう):基準量(きじゅんりょう)】


【結果(けっか):鎮静作用(ちんせいさよう)を確認(かくにん)】


【呼吸(こきゅう):安定(あんてい)】


【脈(みゃく):軽度低下(けいどていか)】


【刺激反応(しげきはんのう):低下(ていか)】


【覚醒(かくせい):確認(かくにん)】


【判定(はんてい):経過良好(けいかりょうこう)】


 青洲(せいしゅう)の指(ゆび)が。


 次(つぎ)の記録(きろく)へ移(うつ)る。


【研究記録(けんきゅうきろく)】


【実験番号(じっけんばんごう):117】


【薬草配合(やくそうはいごう):実験(じっけん)112と同系統(どうけいとう)】


【投与量(とうよりょう):基準量(きじゅんりょう)】


【結果(けっか):強(つよ)い鎮静作用(ちんせいさよう)】


【呼吸(こきゅう):著(いちじる)しく低下(ていか)】


【脈(みゃく):低下(ていか)】


【刺激反応(しげきはんのう):著(いちじる)しく低下(ていか)】


【処置(しょち):実験中止(じっけんちゅうし)】


【覚醒(かくせい):確認(かくにん)】


【判定(はんてい):危険(きけん)】


 青洲(せいしゅう)の眉(まゆ)が動(うご)く。


「……同(おな)じ量(りょう)なのに」


 さらに。


 頁(ページ)をめくる。


【研究記録(けんきゅうきろく)】


【実験番号(じっけんばんごう):123】


【薬草配合(やくそうはいごう):実験(じっけん)112と同系統(どうけいとう)】


【投与量(とうよりょう):基準量(きじゅんりょう)】


【結果(けっか):鎮静作用(ちんせいさよう)】


【呼吸(こきゅう):安定(あんてい)】


【脈(みゃく):安定(あんてい)】


【刺激反応(しげきはんのう):残存(ざんそん)】


【覚醒(かくせい):確認(かくにん)】


【判定(はんてい):麻酔効果不足(ますいこうかぶそく)】


 青洲(せいしゅう)は。


 三(みっ)つの記録(きろく)を並(なら)べて見(み)た。


 実験番号(じっけんばんごう)112。


 十分(じゅうぶん)な鎮静作用(ちんせいさよう)があり。


 呼吸(こきゅう)も保(たも)たれている。


 実験番号(じっけんばんごう)117。


 同(おな)じ程度(ていど)の量(りょう)でありながら。


 呼吸(こきゅう)が危険(きけん)なほど落(お)ちた。


 実験番号(じっけんばんごう)123。


 こちらは逆(ぎゃく)に。


 十分(じゅうぶん)な効果(こうか)が得(え)られていない。


「……やっぱり違(ちが)う」


 青洲(せいしゅう)が呟(つぶや)いた。


 以前(いぜん)から。


 反応(はんのう)に差(さ)があることには気(き)づいていた。


 だからこそ。


 条件(じょうけん)を一(ひと)つずつ記録(きろく)してきた。


 採取時期(さいしゅじき)。


 産地(さんち)。


 乾燥方法(かんそうほうほう)。


 保存状態(ほぞんじょうたい)。


 煎(せん)じ方(かた)。


 それでも。


 説明(せつめい)できない差(さ)が残(のこ)る。


「薬(くすり)だけじゃない……」


 青洲(せいしゅう)は実験帳(じっけんちょう)を見(み)つめた。


 薬(くすり)の条件(じょうけん)が似(に)ていても。


 反応(はんのう)する身体(からだ)が違(ちが)えば。


 結果(けっか)も変(か)わるのではないか。


 身体(からだ)の大(おお)きさ。


 健康状態(けんこうじょうたい)。


 薬(くすり)に対(たい)する感受性(かんじゅせい)。


 そして。


 まだ自分(じぶん)が気(き)づいていない何(なに)か。


 そこまで考(かんが)えて。


 青洲(せいしゅう)は初(はじ)めて。


 意識(いしき)を集中(しゅうちゅう)した。


【完全記録(かんぜんきろく)】


【研究記録(けんきゅうきろく)を照合(しょうごう)】


【対象実験(たいしょうじっけん):128】


【条件比較(じょうけんひかく)を開始(かいし)】


 視界(しかい)に。


 一年間(いちねんかん)の研究(けんきゅう)が広(ひろ)がった。


 最初(さいしょ)は。


 薬草(やくそう)一(ひと)つずつの作用(さよう)を調(しら)べるところから始(はじ)まった。


【実験番号(じっけんばんごう):001】


【曼陀羅華単独(まんだらげたんどく)】


【結果(けっか):強(つよ)い鎮静作用(ちんせいさよう)】


【副作用(ふくさよう):著(いちじる)しい】


【判定(はんてい):不採用(ふさいよう)】


【実験番号(じっけんばんごう):002】


【草烏頭単独(とりかぶとたんどく)】


【結果(けっか):鎮痛作用(ちんつうさよう)】


【副作用(ふくさよう):重大(じゅうだい)】


【判定(はんてい):不採用(ふさいよう)】


 そこから。


 配合(はいごう)を変(か)え。


 量(りょう)を変(か)え。


 煎(せん)じ方(かた)を変(か)え。


 何度(なんど)も失敗(しっぱい)した。


 危険(きけん)な反応(はんのう)が出(で)たこともある。


 思(おも)ったほど効果(こうか)が出(で)なかったこともある。


 だが。


 一(ひと)つも無駄(むだ)ではなかった。


「強(つよ)い反応(はんのう)を示(しめ)したものだけ抽出(ちゅうしゅつ)」


【該当記録(がいとうきろく):31】


「その中(なか)で、呼吸(こきゅう)が大(おお)きく落(お)ちたもの」


【該当記録(がいとうきろく):14】


「共通点(きょうつうてん)は?」


【解析中(かいせきちゅう)】


【候補条件(こうほじょうけん)】


【体格(たいかく)】


【全身状態(ぜんしんじょうたい)】


【投与量(とうよりょう)】


【薬草品質(やくそうひんしつ)】


【抽出条件《ちゅうしゅつじょうけん》】


【複数条件(ふくすうじょうけん)の関与可能性(かんよかのうせい)】


 青洲(せいしゅう)は表示(ひょうじ)を見(み)つめた。


「やっぱり……」


 一(ひと)つではない。


 薬草(やくそう)だけでもない。


 量(りょう)だけでもない。


 薬(くすり)を受(う)ける側(がわ)の身体(からだ)まで含(ふく)めて。


 考(かんが)えなければならない。


「あなた」


 声(こえ)がした。


 青洲(せいしゅう)が振(ふ)り返(かえ)る。


 加恵(かえ)が戸口(とぐち)に立(た)っていた。


「……早(はや)いな」


「それはこちらの台詞(せりふ)です」


「眠(ねむ)れなくて」


「またですか?」


「ああ」


 加恵(かえ)は机(つくえ)の上(うえ)を見(み)る。


「麻酔(ますい)のお薬(くすり)ですか?」


「そうだ」


「何(なに)か分(わ)かったのです?」


 青洲(せいしゅう)は少(すこ)し考(かんが)えた。


「薬(くすり)のことが分(わ)からなくなってきた」


「え?」


「でも」


 青洲(せいしゅう)は笑(わら)った。


「患者(かんじゃ)のことが少(すこ)し分(わ)かってきた」


 加恵(かえ)が首(くび)を傾(かし)げる。


「逆(ぎゃく)では?」


「いや」


 青洲(せいしゅう)は紙(かみ)を取(と)り出(だ)した。


 そこへ。


 二(ふた)つの丸(まる)を描(えが)く。


 一(ひと)つは大(おお)きく。


 一(ひと)つは小(ちい)さく。


「同(おな)じ薬(くすり)を使(つか)う」


「はい」


「同(おな)じ量(りょう)を使(つか)う」


「はい」


「でも、身体(からだ)は同(おな)じじゃない」


 加恵(かえ)の視線(しせん)が紙(かみ)へ落(お)ちる。


「身体(からだ)の大(おお)きさも違(ちが)う。年齢(ねんれい)も違(ちが)う。体力(たいりょく)も違(ちが)う」


 さらに。


 病(やまい)を抱(かか)えているかもしれない。


 食事(しょくじ)を取(と)れていないかもしれない。


 呼吸(こきゅう)が弱(よわ)いかもしれない。


 脈(みゃく)が弱(よわ)いかもしれない。


「薬(くすり)を完成(かんせい)させるだけじゃ足(た)りない」


 青洲(せいしゅう)は言(い)った。


「使(つか)い方(かた)まで作(つく)らないと駄目(だめ)なんだ」


「では」


 加恵(かえ)が尋(たず)ねる。


「完成(かんせい)した薬(くすり)が一(ひと)つあれば、誰(だれ)にでも同(おな)じように使(つか)えるわけではないのですね」


「そういうことだ」


「大変(たいへん)ですね」


「……今(いま)さら気(き)づいた」


 加恵(かえ)が少(すこ)し笑(わら)った。


「あなたらしいです」


「どういう意味(いみ)だ」


「一(ひと)つ分(わ)かると、三(みっ)つくらい新(あたら)しい問題(もんだい)を見(み)つけますから」


「否定(ひてい)できないな」


「以前(いぜん)お話(はな)ししたお酒(さけ)と同(おな)じですね」


 青洲(せいしゅう)の手(て)が止(と)まった。


「酒(さけ)……」


「同(おな)じ量(りょう)を飲(の)んでも、平気(へいき)な人(ひと)もいれば、すぐに酔(よ)う人(ひと)もいるのでしょう?」


 青洲(せいしゅう)は笑(わら)った。


「ああ」


 以前(いぜん)。


 加恵(かえ)から聞(き)いた話(はなし)。


 同(おな)じ酒(さけ)でも。


 人(ひと)によって酔(よ)い方(かた)が違(ちが)う。


「加恵(かえ)の酒理論(さけりろん)」


「まだそう呼(よ)んでいるのですか?」


「分(わ)かりやすいからな」


「恥(は)ずかしいのでやめてください」


 朝(あさ)。


 新吉(しんきち)がやってきた。


「先生(せんせい)、おはようございます!」


「声(こえ)」


「……おはようございます」


「今度(こんど)は小(ちい)さすぎる」


「どっちなんですか」


 青洲(せいしゅう)は机(つくえ)の上(うえ)から。


 一冊(いっさつ)の帳面(ちょうめん)を取(と)り上(あ)げた。


 表紙(ひょうし)には。


 これまで診(み)てきた患者(かんじゃ)たちの記録(きろく)が残(のこ)されている。


 一人(ひとり)ひとりの症状(しょうじょう)。


 診察(しんさつ)。


 治療(ちりょう)。


 その後(ご)の経過(けいか)。


 青洲(せいしゅう)にとって。


 それは単(たん)なる帳面(ちょうめん)ではない。


 患者(かんじゃ)たちが残(のこ)してくれた。


 医学(いがく)の記録(きろく)だった。


 青洲(せいしゅう)は頁(ページ)を傷(いた)めないよう。


 両手(りょうて)で持(も)ち。


 新吉(しんきち)の前(まえ)へ差(さ)し出(だ)した。


「これを」


 新吉(しんきち)も。


 自然(しぜん)と両手(りょうて)を出(だ)した。


 丁寧(ていねい)に受(う)け取(と)る。


「患者(かんじゃ)の記録(きろく)ですね」


「ああ」


 青洲(せいしゅう)はその様子(ようす)を見(み)て。


 わずかに目(め)を細(ほそ)めた。


 以前(いぜん)なら。


 ただの帳面(ちょうめん)として受(う)け取(と)っていたかもしれない。


 だが。


 今(いま)は違(ちが)う。


 ここに書(か)かれている一(ひと)つ一(ひと)つが。


 患者(かんじゃ)から得(え)た大切(たいせつ)な情報(じょうほう)だと。


 理解(りかい)し始(はじ)めている。


「今日(きょう)は何(なに)を見(み)るんです?」


「脈(みゃく)と呼吸(こきゅう)」


「はい」


「それから体格(たいかく)」


「体格(たいかく)?」


「大(おお)きい、小(ちい)さいでいい」


「そんな大雑把(おおざっぱ)でいいんですか?」


「今(いま)はな」


 正確(せいかく)に身体(からだ)の重(おも)さを測(はか)る環境(かんきょう)など。


 どこにでもあるわけではない。


 なら。


 今(いま)ある条件(じょうけん)で。


 使(つか)える方法(ほうほう)を作(つく)るしかない。


「それと年齢(ねんれい)」


「はい」


「食事(しょくじ)が取(と)れているか」


「はい」


「長(なが)く病(やまい)を患(わずら)っているか」


「はい」


「全部(ぜんぶ)まとめろ」


「何(なん)のためです?」


 青洲(せいしゅう)は答(こた)えた。


「薬(くすり)で殺(ころ)さないためだ」


 新吉(しんきち)の顔(かお)から笑(え)みが消(き)えた。


「……麻酔(ますい)ですか」


「ああ」


「本当(ほんとう)に、人(ひと)を眠(ねむ)らせたまま切(き)るんですか?」


「いつかは」


「怖(こわ)くないんですか?」


「怖(こわ)い」


 即答(そくとう)だった。


 新吉(しんきち)が驚(おどろ)く。


「だから調(しら)べてる」


 青洲(せいしゅう)は新吉(しんきち)を見(み)る。


「怖(こわ)くなくなったら、使(つか)わない方(ほう)がいい」


「どうしてです?」


「人(ひと)を殺(ころ)せる薬(くすり)だからだ」


 研究室(けんきゅうしつ)が静(しず)かになった。


 青洲(せいしゅう)は曼陀羅華(まんだらげ)を見(み)る。


「効(き)く薬(くすり)ほど、危険(きけん)なことがある」


 次(つぎ)に。


 草烏頭(とりかぶと)。


「眠(ねむ)らせる力(ちから)が強(つよ)くなれば、呼吸(こきゅう)まで弱(よわ)らせるかもしれない」


 青洲(せいしゅう)は紙(かみ)へ。


 二本(にほん)の線(せん)を引(ひ)いた。


 一方(いっぽう)に。


 効(き)かない。


 もう一方(いっぽう)に。


 危険(きけん)。


 その間(あいだ)へ。


 文字(もじ)を書(か)く。


「安全域(あんぜんいき)」


 新吉(しんきち)が読(よ)む。


「ここを探(さが)す」


「安全域(あんぜんいき)……」


「眠(ねむ)る。でも呼吸(こきゅう)は止(と)まらない」


「はい」


「痛(いた)みは抑(おさ)える。でも命(いのち)は奪(うば)わない」


「はい」


 青洲(せいしゅう)は線(せん)を見(み)つめた。


「そして」


 一拍(いっぱく)。


「必(かなら)ず目(め)を覚(さ)ます」


 その日(ひ)の午後(ごご)。


 青洲(せいしゅう)は患者(かんじゃ)を診(み)ながら。


 新(あたら)しい記録(きろく)を始(はじ)めた。


 麻酔(ますい)を使(つか)うためではない。


 人間(にんげん)というものを知(し)るためだ。


 脈(みゃく)。


 呼吸(こきゅう)。


 年齢(ねんれい)。


 体格(たいかく)。


 病歴(びょうれき)。


 食事(しょくじ)。


 体力(たいりょく)。


 一人(ひとり)。


 また一人(ひとり)。


 記録(きろく)していく。


【完全記録(かんぜんきろく)】


【生体基礎情報《せいたいきそじょうほう》を蓄積(ちくせき)】


【生命解析(せいめいかいせき)との連携(れんけい)を確認(かくにん)】


【個体差解析(こたいさかいせき):進行(しんこう)】


 夕方(ゆうがた)。


 一人(ひとり)の老人(ろうじん)が診療所(しんりょうじょ)を訪(おとず)れた。


 咳(せき)が長(なが)く続(つづ)いている。


 身体(からだ)は細(ほそ)い。


 食欲(しょくよく)も落(お)ちている。


 青洲(せいしゅう)は老人(ろうじん)の顔(かお)を見(み)る。


 頬(ほお)はこけている。


 呼吸(こきゅう)も浅(あさ)い。


「歩(ある)くと息(いき)が苦(くる)しくなりますか?」


「坂道(さかみち)は……少(すこ)しつらいです」


「食事(しょくじ)は?」


「最近(さいきん)は半分(はんぶん)ほどしか」


 青洲(せいしゅう)は脈(みゃく)を取(と)る。


 弱(よわ)い。


 もし。


 この患者(かんじゃ)に。


 今(いま)研究(けんきゅう)している麻酔薬(ますいやく)を使(つか)ったら。


 危険(きけん)ではないか。


 青洲自身(せいしゅうじしん)が。


 そう考(かんが)えた。


 その直後(ちょくご)。


【生命解析(せいめいかいせき)】


【対象(たいしょう):成人男性(せいじんだんせい)】


【全身状態(ぜんしんじょうたい):低下(ていか)】


【呼吸予備能力《こきゅうよびのうりょく》:低(てい)】


【薬物負荷耐性(やくぶつふかたいせい):低下可能性(ていかかのうせい)】


 青洲(せいしゅう)の目(め)が止(と)まる。


 だが。


 答(こた)えを求(もと)めない。


 もう一度(いちど)。


 老人(ろうじん)を見(み)る。


 痩(や)せている。


 食事量(しょくじりょう)も少(すく)ない。


 呼吸(こきゅう)にも余裕(よゆう)がない。


 身体(からだ)へ強(つよ)い負担(ふたん)を与(あた)える薬(くすり)なら。


 危険性(きけんせい)は高(たか)い。


「新吉(しんきち)」


「はい」


「この人(ひと)に強(つよ)い眠(ねむ)りの薬(くすり)を使(つか)うとしたら、どう思(おも)う?」


 新吉(しんきち)が老人(ろうじん)を見(み)る。


「身体(からだ)が細(ほそ)いです」


「それから?」


「息切(いきぎ)れがあります」


「うん」


「脈(みゃく)も……強(つよ)くありません」


「それで?」


 新吉(しんきち)は考(かんが)えた。


「薬(くすり)に耐(た)える力(ちから)が、弱(よわ)いかもしれません」


 青洲(せいしゅう)は小(ちい)さく頷(うなず)いた。


「そうだ」


 そこで初(はじ)めて。


 心(こころ)の中(なか)で問(と)いかける。


「危険度(きけんど)は?」


【推定(すいてい)】


【呼吸抑制危険度《こきゅうよくせいきけんど》:高(こう)】


 青洲(せいしゅう)の目(め)が細(ほそ)くなる。


 自分(じぶん)が先(さき)に考(かんが)えた。


 その判断(はんだん)を。


 生命解析(せいめいかいせき)が。


 後(あと)から補強(ほきょう)した。


【SYSTEM (システム)】


【特殊条件(とくしゅじょうけん)の一部(いちぶ)を達成(たっせい)】


【生命解析(せいめいかいせき)】


【完全記録(かんぜんきろく)との連携率上昇《れんけいりつじょうしょう》】


【安全域個別推定《あんぜんいきこべつすいてい》】


【研究進行(けんきゅうしんこう)を確認(かくにん)】


 青洲(せいしゅう)は表示(ひょうじ)を消(け)した。


 今(いま)は。


 患者(かんじゃ)の診察(しんさつ)が先(さき)だ。


 老人(ろうじん)を見送(みおく)った後(あと)。


 青洲(せいしゅう)は研究室(けんきゅうしつ)へ戻(もど)った。


「表示(ひょうじ)」


【SYSTEM (システム)】


【固有(こゆう)スキル:生命解析(せいめいかいせき)】


【熟練度上昇《じゅくれんどじょうしょう》】


【進化条件(しんかじょうけん)】


【症例蓄積(しょうれいちくせき):達成(たっせい)】


【個体差解析(こたいさかいせき):達成(たっせい)】


【完全記録連携《かんぜんきろくれんけい》:達成(たっせい)】


【自己診断(じこしんだん)との統合(とうごう):進行中(しんこうちゅう)】


【進化条件達成率《しんかじょうけんたっせいりつ》:上昇(じょうしょう)】


「まだか」


【肯定(こうてい)】


「何(なに)が足(た)りない?」


【回答(かいとう)】


【使用者自身(しようしゃじしん)による危険予測精度(きけんよそくせいど)が基準値(きじゅんち)に達(たっ)していません】


 青洲(せいしゅう)は。


 しばらく黙(だま)っていた。


 そして。


 小(ちい)さく笑(わら)った。


「なるほど」


 システムが先(さき)に答(こた)えるのではない。


 俺(おれ)が。


 患者(かんじゃ)を見(み)て。


 考(かんが)えて。


 危険(きけん)を予測(よそく)する。


 生命解析(せいめいかいせき)は。


 答(こた)えを与(あた)える力(ちから)ではない。


 自分(じぶん)の判断(はんだん)を支(ささ)える力(ちから)なのだ。


「それでいい」


 青洲(せいしゅう)は机(つくえ)へ向(む)かった。


 新(あたら)しい頁(ページ)を開(ひら)く。


 そこへ。


 五(いつ)つの項目(こうもく)を書(か)く。


 年齢(ねんれい)。


 体格(たいかく)。


 呼吸(こきゅう)。


 脈(みゃく)。


 全身状態(ぜんしんじょうたい)。


 その下(した)へ。


 大(おお)きく。


「危険度(きけんど)」


 と書(か)いた。


 麻酔薬(ますいやく)を作(つく)る。


 それだけでは。


 足(た)りない。


 誰(だれ)に。


 どれだけ。


 どの状態(じょうたい)なら。


 使(つか)えるのか。


 そして。


 誰(だれ)には使(つか)ってはいけないのか。


 青洲(せいしゅう)は実験帳(じっけんちょう)へ目(め)を向(む)けた。


 百二十八(ひゃくにじゅうはち)。


 それは。


 百二十八回《ひゃくにじゅうはちかい》の成功(せいこう)ではない。


 失敗(しっぱい)もある。


 危険(きけん)もある。


 答(こた)えが出(で)なかった記録(きろく)もある。


 それでも。


 一(ひと)つとして。


 捨(す)てていい記録(きろく)はなかった。


 失敗(しっぱい)した実験(じっけん)も。


 次(つぎ)の命(いのち)を守(まも)るための知識(ちしき)になる。


 患者(かんじゃ)の記録(きろく)も。


 同(おな)じだ。


 だからこそ。


 一頁(いちページ)も。


 一行(いちぎょう)も。


 粗末(そまつ)にはできない。


 薬(くすり)を作(つく)る研究(けんきゅう)から。


 命(いのち)を守(まも)る研究(けんきゅう)へ。


 青洲(せいしゅう)の麻酔研究(ますいけんきゅう)は。


 また一(ひと)つ。


 新(あたら)しい段階(だんかい)へ入(はい)り始(はじ)めていた。


 安全(あんぜん)とは。


 危険(きけん)がないことではない。


 危険(きけん)を知(し)り。


 その境界(きょうかい)を見極(みきわ)めること。


 華岡青洲(はなおかせいしゅう)は。


 その見(み)えない境界線(きょうかいせん)を。


 一(ひと)つの実験(じっけん)。


 一人(ひとり)の患者(かんじゃ)。


 そして。


 一頁(いちページ)の記録(きろく)から。


 探(さが)し続(つづ)けていた。



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