【第16話】治せない病い
天明六年、秋。
朝の空気に、わずかな冷たさが混じり始めていた。
華岡家の庭では、加恵が薬草を一つずつ確認している。
採取の時期。
葉の状態。
乾燥させるもの。
種を残すもの。
以前なら青洲が一人でしていた仕事だった。
「これは?」
新吉が曼陀羅華へ手を伸ばす。
「触らないで」
加恵の声が飛んだ。
新吉の手が止まる。
「そんなに危ないのですか?」
「先生から勝手に触らないよう言われています」
「先生が?」
「はい」
新吉が曼陀羅華を見る。
「これも薬になるんですよね」
「なるそうです」
「毒なのに?」
加恵が少し笑った。
「先生は、薬と毒の境目を探しているそうですよ」
「境目……」
「新吉!」
診療所から青洲の声がする。
「はい!」
新吉が走っていく。
「気をつけて」
加恵の声が背中から飛んだ。
診療所へ入ると。
青洲が帳面を整理していた。
「これを」
一冊渡される。
「何です?」
「昨日までの患者の経過だ」
「全部ですか?」
「全部」
「多い……」
「嫌なら帰っていいぞ」
「やります!」
新吉は慌てて座った。
青洲は笑う。
最近。
診療所の患者が増えていた。
近くの村だけではない。
山を越えて来る者。
人づてに話を聞いて訪れる者。
他の医者から紹介される者までいる。
華岡青洲。
その名は。
本人が思っている以上に広がり始めていた。
その日の昼。
一台の駕籠が華岡家の前で止まった。
「青洲先生はこちらでしょうか」
男の声がした。
加恵が応対する。
しばらくして。
「あなた」
診療所へ入ってきた加恵の顔が、少し硬かった。
「患者か?」
「はい。遠くから来られたそうです」
「通して」
入ってきたのは。
五十歳ほどの女性だった。
娘と思われる若い女性が身体を支えている。
「こちらへ」
青洲が座るよう促す。
「どうされました?」
女性は答えない。
代わりに娘が口を開いた。
「母の胸に……しこりがあります」
青洲の表情が変わった。
「いつからです?」
「半年ほど前です」
「痛みは?」
「最初はなかったのですが、最近は……」
母親がようやく口を開く。
「少し痛みます」
「大きくなっていますか?」
沈黙。
娘が頷いた。
「かなり」
青洲の胸の奥に。
嫌な感覚が走った。
「診せていただけますか」
加恵に頼み。
診察の準備をする。
新吉は離れた場所で待たせた。
青洲は慎重に患部を診る。
硬い。
形も整っていない。
皮膚にも変化がある。
指先に嫌な感触が伝わる。
【生命解析】
【対象:成人女性】
【乳房組織に異常領域】
【組織増殖:確認】
【周辺組織への影響:あり】
【良性・悪性判定】
【解析精度不足】
青洲は黙った。
もう一度。
指先で境界を探る。
【医神の眼】
意識した瞬間。
視界がわずかに変わった。
「……!」
皮膚の下。
そこに何かがある。
はっきり見えるわけではない。
だが。
正常な組織とは違う。
歪んだ存在。
まるで。
身体の中に。
異物が根を伸ばしているような。
【異常組織を検出】
【境界解析】
【現在の熟練度では解析不能】
表示が消えた。
青洲は拳を握りそうになる。
見える。
だが。
分からない。
力があるのに。
届かない。
「先生?」
女性の声で我に返った。
「はい」
「悪いものですか?」
青洲は答えられなかった。
胸の奥に。
別の記憶が蘇る。
明るい手術室。
無影灯。
消毒された器具。
患者を眠らせる麻酔。
腫瘍を切除する自分の手。
華岡蒼真だった頃なら。
検査をする。
画像を見る。
組織を調べる。
病の性質を確認する。
手術が必要なら。
麻酔のもとで切除する。
だが。
今は。
天明六年。
そのほとんどがない。
「先生」
娘が不安そうに青洲を見る。
「母は治りますか?」
その問いが。
重かった。
「今の段階では」
青洲は言葉を選んだ。
「治るとも、治らないとも言えません」
娘の顔が曇る。
「では……」
「ただ」
青洲は女性を見る。
「放っておいてよいものではありません」
「切れば治りますか?」
青洲の呼吸が止まった。
切る。
その言葉が。
あまりにも簡単に響いた。
身体を切ること自体はできる。
青洲には外科の技術がある。
京都で学んだ知識もある。
蒼真として積み上げた経験もある。
だが。
手術とは。
切れば終わりではない。
痛み。
出血。
感染。
そして。
術後の管理。
特に。
痛み。
胸を大きく切除するような手術を。
意識のある患者に行う。
青洲には。
それがどれほど残酷なことか分かっている。
「今は」
青洲は静かに言った。
「すぐに切るとは言えません」
「なぜです?」
娘が尋ねる。
「危険だからです」
「でも、このままでも危険なのでしょう?」
青洲は黙った。
その通りだった。
何もしない危険。
手術する危険。
二つの危険の間に。
患者がいる。
「少し時間をください」
青洲は言った。
「もう一度、よく調べます」
「分かりました」
女性は静かに頷いた。
診察が終わったあと。
青洲は一人。
研究室へ入った。
机の上には。
曼陀羅華。
草烏頭。
白芷。
当帰。
川芎。
そして。
長い年月をかけて記録してきた薬草の資料。
「間に合わない」
思わず言葉が漏れた。
麻酔研究。
まだ。
完成には遠い。
安全域も分からない。
個体差も大きい。
人に使える段階ではない。
それなのに。
目の前には。
手術が必要になるかもしれない患者がいる。
【SYSTEM 】
【生命解析】
【対象症例を登録】
【完全記録】
【類似症例を検索】
「……検索?」
青洲が顔を上げる。
【経過比較 起動】
【過去症例との照合】
【類似症例:4件】
【一致率:低】
【長期経過情報:不足】
青洲は目を閉じた。
四件。
少なすぎる。
しかも。
その後どうなったのか。
十分な記録がない。
「これじゃ分からない」
【回答】
【情報不足】
「分かってる」
青洲は吐き捨てるように言った。
【生命解析】
【熟練度:上昇中】
【医神の眼】
【熟練度:上昇中】
【進化条件:未達成】
「進化すれば救えるのか?」
沈黙。
「答えろ」
【回答】
【不明】
青洲は目を見開いた。
「……不明?」
【スキル進化は治療成功を保証しません】
【最終判断は使用者に委ねられます】
青洲は。
しばらく画面を見つめていた。
そして。
小さく笑った。
「そうだよな」
当たり前だ。
神から力をもらったからといって。
すべての患者を救えるわけではない。
医者は。
神ではない。
その夜。
新吉が研究室を覗いた。
「先生」
「何だ?」
「今日の患者さん……」
「ああ」
「治せないんですか?」
青洲はしばらく黙った。
「今の私には、分からない」
新吉は驚いた顔をする。
「先生でも?」
「私だから分からないんじゃない」
青洲は新吉を見る。
「医者だから分からないと言わなければならない時がある」
「……」
「分からないのに、分かったふりをする方が怖い」
新吉は黙った。
「でも」
青洲は立ち上がる。
「分からないから終わりじゃない」
研究帳を開く。
「調べる」
別の帳面を開く。
「過去を見る」
さらに。
京都から持ち帰った医学書を机へ置く。
「学ぶ」
そして。
薬草を見る。
「試す」
新吉が青洲を見つめる。
「それでも分からなければ?」
「また考える」
「それでも?」
「考える」
青洲は即答した。
「患者がいる限りな」
新吉は。
静かに頭を下げた。
深夜。
誰もいなくなった研究室で。
青洲は一冊の本を開いていた。
永富独嘯庵。
『漫遊雑記』
そこに記された。
西洋で行われているという乳房の手術。
病んだ部分を。
切り取る。
救うために。
身体を切る。
しかし。
患者は。
その痛みに耐えなければならない。
青洲は目を閉じた。
今日の女性の顔が浮かぶ。
「やっぱり必要だ」
麻酔が。
ただ眠らせる薬ではない。
外科医が今まで届かなかった病へ手を伸ばすための。
もう一つの医術が。
【SYSTEM 】
【長期研究目標を更新】
【麻酔薬研究】
【目的情報を追加】
【外科治療可能領域の拡大】
【医神の眼】
【新規進化条件を検出】
【異常組織解析】
【条件:症例蓄積】
【条件:解剖学的理解】
【条件:外科経験】
【条件:???】
青洲は画面を見つめた。
「簡単にはくれないか」
【回答】
【肯定】
「それでいい」
青洲は笑った。
簡単に手に入る力なら。
命を預けるには。
軽すぎる。
机の上には。
医学書。
診療記録。
麻酔研究帳。
そして。
今日診た女性の記録。
青洲は新しい頁を開いた。
そこへ。
ゆっくりと書く。
「治せない病を、治せる病へ」
今は。
まだ届かない。
だが。
いつか必ず。
そのために。
学ぶ。
記録する。
研究する。
技術を磨く。
華岡青洲の長い挑戦は。
また一つ。
明確な目的を持ち始めていた。




