名前の魔女ヘルマ①
その青年は、自分が何者であるか、ずっとわからずにいました。
器用ではなく、かといって不器用でもなく、何かに秀でているわけでも、致命的に欠けているわけでもない。幼い頃から何者かになりたいと思い続け、しかし何者かになるための足がかりを、どこにも見つけられないまま年だけを重ねていました。
仕事もあり、食うには困りませんでしたが、彼は満たされないままでした。
彼がよく訪れる広場の端に、古い石の縁台があります。そこに座り、行き交う人々を眺めるのが、彼のささやかな習慣でした。粉屋の息子は父の仕事を継ぎ、商人の娘は店頭に立ち、誰も彼も、自分の輪郭をはっきりと持って歩いているように見えました。
ある日の夕暮れ、向かいの家の初老の男が、白い犬を庭に放しているのが目に入りました。
犬は彼の足元にぴったりと寄り添い、歩くたびにつきまとい、男が立ち止まるとそこに座り、とにかく傍にいるのでした。名前を呼ばれると耳をぴんと立て、撫でられると目を細めています。
青年は気づけば、ぽつりとつぶやいていました。
「いっそ犬に生まれればよかった」
誰かの傍にいること。ただそれだけが、ちゃんと自分のかたちになる生き物に。
その声は、石畳を渡る風の中に溶けていきました。
次の瞬間です。突然、広場を歩く人々から、名前が消えました。
青年の視界で、粉屋の息子が、ただの「動くもの」になりました。商人の娘が、石畳が、向かいの家の窓が——何と呼べばいいのかわからない、輪郭だけのものに変わっていきました。青年は目をしばたかせましたが、崩れた世界は戻りませんでした。
彼は、思わず自分の手に目を落としました。
石畳の上に伸びた、五本の指。
これは、何だろう。
何と呼ぶのか。誰のものなのか。一瞬、完全に、わからなくなりました。
名前の魔女ヘルマは、そのときには青年の隣に座っていました。
その銀色の髪を肩口でまっすぐに切り揃えた、小柄な少女がいつからそこにいたのか、青年には分かりませんでした。銀縁のモノクルが、沈みかけた夕陽を静かに弾いています。
ヘルマは広場を眺めたまま、青年には目を向けずに口を開きました。
「あなたには、名前がないのね。かわいそうに。——私がつけてあげるわ」
舌の上にある、銀色の紋様が、冷たく光りました。
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翌朝、向かいの男の家の庭には、白い犬が一匹増えていました。
毛並みは柔らかく、目が穏やかで、人慣れした犬でした。男はしばらく不思議そうに首を傾げていましたが、やがてしゃがみ込み、その頭をひと撫でしました。
その犬はときおり、広場のほうをじっと見つめることがありましたが、男が名を呼ぶと、目を細め、彼の足元に幸せそうにぴたりとくっつくのでした。
そして広場の石の縁台に、あの青年が現れることはもうありませんでした。




