共鳴の魔女ヒルデ①
ある町に、一人の男がいました。
妻とは早くに別れ、息子と二人で長いこと暮らしてきましたが、その息子ももう五年前に逝ってしまい、今は、小さな家に一人で暮らしています。
妻も、息子も、春に逝ったので、花が咲くたびに、男の家だけが季節に置いていかれるような気がしました。
朝に湯を沸かし、昼に畑を回る。
そんな日々の隙間に、男は息子のことを思い出します。
そんな日の夜には、きまって、棚の上にある形見の横笛を手に取りました。
息子が使っていたその笛は、音は細く、どこかかすれています。男は息子が好んだ短い旋律を、ぽつりぽつりとなぞりました。うまく吹けないときは、ただ指先で笛をなでて、夜が更けるのを待つのでした。
ある春の晩のことです。
窓の外から花の匂いが流れてきて、ふと寂しさに駆られた男は、棚の笛に手を伸ばし、ひとつ音を鳴らしました。
すると、消え入りそうなその一音が、何かの眠りを妨げたのでしょうか。
足元の床が鈍くぬらりとひかりました。
見れば、油が薄く広がるような光沢が、床板の隙間から染み出しています。角度によって、緑にも紫にも変わる、見たことのない色でした。男が立ち上がろうとするより先に、それは壁まで広がり、天井を這い、部屋全体をぬめる光で満たしていきました。
光の中から、人の形が盛り上がりました。
肌は油膜そのものでできているようで、よく目をこらすと、その表面のあちこちに唇らしきものが浮かんでは沈んでいます。瞳は絶えず分裂し、万華鏡のように混ざり合い、どこを見ているのかわかりません。どうやら、女のかたちをしているようでした。
「かわいそうに」
声は、壁から、床から、男を取り巻く光のすべてから、同時に滲み出るように部屋中から響きました。
「たった一人で響いているのね」
男は逃げようとしました。しかし足は油膜に吸いついたように動かず、声は耳の奥を直接揺らすように響き続けます。
「寂しいでしょう。私が、みんなと混ぜてあげる」
女が歌い出すと、音が重なりました。どこからか、無数の声が。男の口もとが震え、喉の奥から、意志とは関係なく和音が漏れ出していきます。手の中の笛が、指と縒り合わさるように溶けはじめ、息子の短い旋律は、女の声の中に呑み込まれていきました。
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翌朝も、その次の朝も、家は静かなままでした。
窓の外には、川がいつものように流れています。
棚の上は空っぽのまま、春の光だけが、主のいなくなった部屋に、いつもと変わらず差し込んでいました。




