挿話1 たどり着いた拳に落ちた
半分、いやほとんど生きることをあきらめていた自分にかまされた、激烈な一撃。一瞬、知らない世界のお花畑が見えたぞ。
だらだらと血が落ちる鼻を押さえて尻もちをついている僕は、まさに丸められたクズだっただろう。
「加賀美良一、お前は一体何を考えている。いや、愚問だったな、どうせ考えることを放棄して楽になりたいだけだろう」
たった今、僕の横っ面に叩き込まれたのがあの小ぶりな拳だとは。
握りしめた拳をそのままに、彼女はその場に仁王立ちして僕を見下ろしている。
蔑みでも失望でもない、その目に宿るのは──怒りと、それから。
目が覚めた、とはこういうことか。
脳味噌が思い切り揺らされ、今の今まで麻痺していた外界への感覚が復活した。
惚れてしまうのも、無理はないと思う。
後にその時のことを話したら、彼女の友人であり相棒ともいえる和田さんに、えらく不気味なものを見る目を向けられた。
ほっといてくれ。
僕が自分の出自と立場をを知ったのは、曾祖父が亡くなったからだ。
僕の父親は、小さな事務所を営む行政書士。母親は内職をしながら家事をこなす専業主婦。
物心ついて以来、長くそう信じていた。
だから小学五年生のある日、年に数回会っていたひいじいちゃんが死んだと聞かされても、悲しみこそすれ生活が激変するなんて思いもしなかったんだ。
それまでの僕は、地方の公立小学校に通って、野球やサッカーを楽しむただの餓鬼だった。
友達だって大勢いて、今日はあいつと明日はこいつと、色んな場所で遊んで、適当に勉強もする普通の少年。
それなのに。
曾祖父の死という避けられない宿命によって、幸せな少年時代は強制終了させられた。
加賀美グループは明治時代に初代が起こした小さな商会が元の、成り上がり企業だ。
百数十年の激動を乗り越えて、現在では国内でもトップクラスの一大コングロマリットを形成しているが、その内側では常に内で抗争を展開しているような歪さを含んでいる。
後継者争いとか派閥争いとか、そういう仕事上の競争じゃない。とにかく相性が悪い身内を、憎悪レベルまで嫌い抜くんだ。
加賀美の男たちは、どうしてかそういう破滅的な心情を持って生まれる奴が時々出る。
その行き着いた先が祖父の死である。
僕にとって父方の祖父という人は、仏壇の中にある位牌と梁にかかった写真だけ。父によく似た面差しで微笑む姿は、とても穏やかな人となりを感じさせる。
実際、優しくて朗らかな人だったらしい。
けれども、この国でも有数の大企業を営む富豪の家に生まれてしまったのが、彼の不幸だった。
死因は病死。ただし、これは表向き。
実際は、殺された。
悪意をもって、無理矢理命を奪われたのだ。なにをしたってわけじゃなく、ただ彼が幸せになるのが気に喰わない、という理由でだ。
だが、それが公で断罪されることはなかった。
何故なら。
実行犯こそ、何の縁もない者を金で利用したらしいが、黒幕は当時の加賀美の中心人物と言っていい人間の息子と、その取り巻き。
祖父と同年代の者達だ。
黒幕はもちろん、共犯者全員罪の意識など全くなかった。自分たちが罪に問われれば会社が傾く、それでもいいのか、と言い放ったというのだから、当時の加賀美の腐り具合がよくわかる。
連中はその後始末も徹底していた。
実行犯は黒幕共の手で処理されていたらしい。
その他にも明確な証拠はほとんど破棄。裏の筋だけじゃない、かなりの公的機関に属する人間も関わっていなければ無理なほどの隠蔽っぷりだった。
祖母は早すぎる連れ合いの死に、早々と実家に戻って再婚した。――それが後々仇になるのだが。
まだ小学生にもなっていなかった父は、曾祖父が引き取って育てた。当時はまだ曾祖母も健在で、子育てもどうにかやり切れたそうだ。
息子を殺され、尚且つそれを目こぼしせねばならなかった曾祖父の心情など今の僕に理解できるわけもないが、どれほどの苦悩を抱えたのかは想像して余りある。だが彼は事実を冷静に見据え、犯人も犯行の理由も充分理解した上で黙り込んだ。
その時は。
その後曾祖父は、数年をかけて犯人たちに壮絶な復讐を遂げた。
元凶とも言える主犯の父親は、その地位を追われて強制引退。その後世間から完全に切り離されて軟禁状態のまま、数年後衰弱死した。
完全に消息不明となり、数年後失踪期限切れで死亡届が出された息子よりは、マシな終わり方だったんじゃないだろうか。少なくとも、葬式は上げてもらえたようだから。但し、その後加賀美家の墓に入れてもらえたという話は聞かないが。
そいつらを始めとした、祖父の死に関わった連中は、徹底的に潰された。
それまで大企業の庇護でやりたい放題やっていた不正や違法行為を暴露されて、まともに世間を渡っていくことすら覚束なくなってしまったのだ。
聞いた話では、当時パトカーが会社玄関に横付けされて、警官たちがぞろぞろと役員室や事務室の上席へ直行、という光景が繰り返されたそうだ。上役たちは衆目の前で連行され、二度と社内で見ることはなかった。
自業自得だ、僕もそれについてはザマァミロと吐き捨てるしかない。ただ、何の罪もない家族には気の毒だったろうな、とは思う。
犯人たちの命までは取らなかったと、事情を説明してくれた父は言っていた。
けれども僕は知っている。一人ならず自殺者が出ていて、生き残った面々も人生終了としか言えない状態にされて、消えていった事を。
復讐の代償は、加賀美グループの総裁という重い立場を背負い続ける人生だ。
曾祖父が、高校生時分の父に言ったそうだ。
「誰か一人くらいは這い上がって逆襲してくる奴がいるかもと覚悟していたが、蓋を開けてみればどいつもこいつもヘタレだった。あんな奴らに大事な息子をと思うと、泣くに泣けん」
と。
曾祖父の嘆きはわかる。だが、無理もないと思う。
加賀美という富裕な家に生まれ、物心ついて以来安心安定なレールの上しか歩んで来なかったお坊ちゃまたちの成れの果てだったんだから。
失敗しても悪さをしても、親や会社の関係者が揉み消してくれるのが当然。自分たちはなにをやっても経歴に傷がつくことはないんだ。世間に出てみれば、仕事の評価や手柄までカネとコネで何とでもなる。
そんな性根でいたから、はしごを外された途端、転落の一途をたどったんだ。
一丁前だったのは、妬み心と邪魔者の排斥だけ。自分のやっていることがどれほど危険で許されないか、まったく知ろうともしなかった。
だから、金で抑えられない恨み辛みを初めて受けて、まったく打つ手がなかったんだ。
曾祖父により、加賀美の看板をひっぺがされれば、人を脅したりすかしたりするための金も権力も無くなり、妻や子供どころか、とうとうパパやママからも見切りをつけられた。もう後に残るのはただのゴミクズだけ。
一時とはいえ、そんな奴らに牛耳られてたのに、加賀美グループはよく潰れなかったものだ。
そして時が経ち、成人した父は闇深い加賀美グループとは無縁の、一般庶民として生きることを決めて国家資格を取得。結婚と同時に家を出て独立を果たした。
はずだった。
現在、父は曾祖父に代わって加賀美グループの総裁だ。
膨大な仕事に巨額の報酬、幅広い社交にキリのない事業展開と、日々忙しく過ごしている。
母親はそんな父にくっついて、あれやこれやとこれまた繁忙な毎日。
元は有能なキャリアウーマンだった母だからこそこなせる仕事は多いらしい。
僕が知っていた母親は、買い出し以外は常に家にいて家事や内職をする専業主婦だったから、スーツ姿で車の後部座席に乗り込む母が、まったく違う人に見えてしまう時がある。
ある程度成長すれば、両親にも独自の人生があるとわかりはするが、あまりにも親としての二人と社会人としての彼らのギャップがありすぎて、正直どうしていいのかわからない。
僕の戸惑いに両親は気づいている。だから、一度だけ謝られた。
中学の夏休み、久しぶりに家族で出かけた。海辺の別荘で夕飯のバーベキュー。
炭火を起こしながら、父がぼそりと呟いた。
「お前にまで苦労を掛けることになって、すまない」
宵闇で、煙の向こうだったその表情はハッキリとは見えなかったが、多分幼い頃に見た、遊園地へ行けなくなった時と同じだったんだろう。
幸か不幸か父には商才があったようで、加賀美グループはこの数年で業績をかなり上げている。
しかし、加賀美家の中で揺蕩っている澱みのようなものは、決して無くなりはしない。
曾祖父が自らの半生をかけて大掃除を果たしてから、もう長い時間が経っている。そろそろ新しい闇の種が芽吹き始める頃合いだ。
その昏さが、ある時とうとう僕たち家族に降りかかった。そして、僕は一年余りの時をぶっ壊れて過ごす羽目になる。
あのままなら今頃僕はもう生きていないか、その手の病院にでも放り込まれていただろう。
けれども、そこに現れたんだ、彼女が。
「渡瀬詩乃美だ。随分ヘタレていると聞いたが、なんだ、まだ生きているのか、存外しぶといじゃないか、おまえ」
鍵が掛かっていたドアを、チェーンソーと蹴りで破って乗り込んできた少女は、膝を抱えていた僕を容赦なく外へ蹴りだして背負い投げを決めた上で、その名を名乗った。
それが、何十年も続いた加賀美家の澱みをきれいさっぱり消した女神の登場だった。




