8.愛はオイルで砂漠を満たす
イスラムでは一人の男性が四人までの妻を持てるのだと、雑学的に知ってはいた。
とは言え、そんな結婚は今の時代ほとんど無いのだとか。
だからってわけじゃないけど、実例を見聞きする機会がこの日本であるとは思いもしなかった。
「イスラム教徒が妻を四人まで持てるとされたのは、厳しい生活環境や社会情勢もあったんだ」
王子との邂逅を終えた後、詩乃美がその辺りを説明してくれた。
アラビア語を習った際に、イスラム教徒の風習や文化についても色々教わったそうだ。
「なにしろあちらは、人が住まう場所と隣接して不毛の砂漠が広がる土地だからな。石油が出る前の時代、それはもう住み得る土地を巡っての戦争があっちこっちで起こっていた。まぁ、面子や意地での戦闘も多々あっただろうが、とにかく生き残るために争った歴史が長い」
砂漠か。
確かに、人は砂漠を制覇するのに長い工夫と努力を重ねてきたはず。
「あの王子が生まれた王家は、今でこそ強大な権力を誇るが、系譜をたどればあの辺りにたむろしていたいくつかの部族、その族長の一つに過ぎん」
頭を布や兜で覆って、円月刀片手に馬や駱駝で走り回っていた集団。アラビアン・ナイトの世界だわね。
中東一帯では、そんな連中が勃興を繰り返して、歴史を紡いできた。と、詩乃美は語る。
「過酷な環境の中、力の弱い女性は生きていくにも苦労する。ましてや、幼い子供を抱えた未亡人など、どれほどの苦労を背負わねばならないか」
戦争を厭わない世ではそんな存在が山のように出来る。
「だからな、元を糺せばそうした社会的弱者な女性を助けて守るための集団婚だったんだ。だからこそ、そういう結婚には厳しい条件が付く」
「条件?」
「そうだ、言いだせば切りがないが。まず四人の――いや、二人以上の妻を娶る場合、妻たちの扱いや注ぐ寵愛に、一切の偏りは許されない」
はい?
「中国の後宮や日本の大奥とかで、皇帝や将軍が特定女性だけに寵愛を授けて、他の妻妾たちをないがしろにする、なんて話はよくあるだろう」
「ああ、ドラマや映画なんかではそれが肝になってたりするわよね。史実でもよく聞くし」
それはまぁ、人としてはありがちな事ではなかろうか。恋心は、自分でもどうしようもないし。
「イスラム教で多人数の妻を迎える際は、そんな不公平は許されない。万が一そんなことになれば、導師と呼ばれる存在に、大勢の妻を持つ資格なしと厳しく叱責されるし、多額の賠償を請求された上で離婚となることもあるそうだ。どちらも、イスラムの男としては大きな汚点だな」
「うわぁ、それはなんかすごい」
「すごいなんてものじゃないぞ。妻たちの扱いを全て平等にしなけれなばならないと言う事は、経済的にも当てはまるんだからな」
「え、経済的にってことは、誰か一人だけが贅沢するとかは駄目なの」
「そういう事だ。四人いれば四人ともに、全く同じだけの生活水準と贅沢を保証しなければならない」
それは…。
「旦那さんは、すごく大変なんじゃない」
自身の収入が無い配偶者の生活全般を支えなきゃならないとなると、それなりのお金が必要になる。それが×4。大変だ。
「だからイスラム教徒は、今やそのほとんどが一夫一妻だ。宗教的なモノじゃなく、経済的にそうならざるを得ないんだ」
キリスト教みたいな、教義での配偶者条件じゃなく、現実問題ってことか。
「それに、石油の輸出で成り立つという事は、否が応でも国際化社会に対応しなければならない。現代ではほとんどの国は一夫一妻だ。中東の産油国はあの国以外にも幾つかあるが、今や大国と言われる国の王太子ですら、正妻は一人だけらしいからな」
じゃああの王子様って、時代を逆行してるってことなの。
確かに一夫多妻は、良いイメージとは言えないけど。
「だがな、逆を言えば財政的に充分な余裕があって、自分が愛情を平等に与えられると自信があるなら、古からの風習通り、四人まで、いや許可があればそれ以上の妻を娶れるだろう」
「つまり」
「あの王子なら、余裕で多重結婚できるということさ」
だから、第三夫人…。
「ただし、イスラム教徒の多妻には、もう一つ絶対的なルールがある」
「え、まだなにかあるの」
「ああ。もし、二人以上の妻を迎えたいとなると、先に娶っていた妻の承諾が要るんだそうだ」
「はい?それはつまり、第一夫人以降全員ってこと」
「そうだ。第二夫人なら第一夫人、第三夫人なら第一と第二。とにかく現妻全員が良しとしなければ、新たな夫人は娶れない」
…それはまた、心情的に複雑な。
もっとも、そんな風に感じるのは、わたしが日本の一夫一妻制しか知らないせいかもしれない。
財力込みの権力者は正妻と妾多数が当然、という環境に、生まれた時からずっと暮らしていれば、感慨も違ってくるのかな。
そう言えばなにかで聞いた話だけど、昔の中国では夫と妻は急須と茶碗に例えられていたとか。
茶を淹れる急須は一つでも、注ぐ茶碗は沢山でないと役に立たない。だから、正妻だけでなく、妾を大勢迎えるべきだ、と。
日本だって、浮気は男の甲斐性だなんて言われて久しかったわよね。今でこそ配偶者以外と性的関係を持てば、人倫に悖ると非難されるが、つい数十年前までは外に妾を囲う、なんてことは、ある程度裕福な男ならよくある話だったらしいし。
まぁ、今でもやってる奴はやってる。ただ、昔と違って大っぴらにできないだけでも、違うかもしれない。
歴史の中でも、有名な側室側妾は大勢いる。中には正妻や他の女たちをほぼ押し退けて、絶大な力を振るった女もいる。そう考えると、全員を全く同様に扱うべしとする教えは、まだマシなのかな。
「じゃあ、新しく迎える第三夫人とやらは、前の二人に許可されて結婚するってことか」
「そういう事だ。だがまぁ、男としては新しい妻にはそれなりのサービスをしたくなるのが人情だろうな。後で前の二人にも同様かそれ以上のものを送らねばならないとしても、ここは敢えて最高の品を新妻に贈って喜ばせたいんだろう」
最高の品ねぇ。
確かに詩乃美が持ち帰ったエメラルドはオイルの名を冠する一級品らしいけど、なんでまたわざわざあんな大物が欲しがるんだか。
探せばもっと凄い宝石だってありそうなものだけど。
「実は、良一がその辺りの事情を調べてくれたんだが」
「え、そうなの」
「ああ、あっちの――特に貴人の妻となると、なかなか難しかったようだが、なんとか通り一遍の情報はつかめた。第三夫人になるとかいう女性は、元々アメリカ生まれのアラブ系で、去年まではモデルをやっていたらしい」
へぇー、と、思わず唸ってしまう。
自由の国アメリカから、アラブ社会へねぇ。いくら大金持ちの、それも一国のお妃になれるったって、ちょっとどうだろうって、もの知らずなわたしは躊躇するところだけど。そこは愛情が勝ったのだろうか。
「V●GUEに何度か採用されていたモデルだそうだ。あの王子殿下が随分惚れ込んで、ようやく口説き落したらしい。ほら、この女性だ」
そう言ってスマホをこちらに向ける。
そこには、数期前のオートクチュールを着てポーズを決めている華やかな女性。豊かな黒髪をふんわりと波打たせ、蜜色の肌に、ピンクの口紅が映えること映えること。
スタイルも美貌も抜群だけれど、一番印象が強いのは、その見事なまでの緑色の瞳。
――なるほど。これは確かに、エメラルドが似合いそうな美女だわ。
「なんでも祖母だか祖父だかに、ヨーロッパ系の血が混じっているらしい。アメリカじゃ珍しくもないがな」
王子様が最高のエメラルドを求めた気持ちが、少しだけわかる気がする。
「多分だが、原石のままというのも良かったんだろう。彼女にピッタリなデザインを自分で誂えたかった、そんな所じゃないかな」
うーん、こう言ったらなんだが、あの王子様ちょっと愛が重すぎないかな。
オイルで潤っている国のトップが、オイルの名を冠した宝石でもって愛を語るか。
苛酷だった時代がどんなものかは想像もできないけど、砂漠の国を満たすものは月と砂ばかりじゃないと、わたしは信じたい。
王子から交換品のリストが届いたのは、翌日。
メールに添付されたPDFは、かなりな容量を使用している。一通では足りなくて、メール三通分に分かれて届いた。
内心冷や汗ものでそれを開くと、何件もの写真と説明文。ちなみに文字は日本語に訳されていたので、読み進めたのだが。
「あの王子様とは、根本的に価値観が違うみたいね…」
わたしがしみじみと述懐すれば、同じメールを見ていた詩乃美がふっと鼻で嗤いやがった。
「当たり前だ、そもそも生きる世界が違う」
そんなことは最初っからわかってた。でも、その違う世界に堂々と突入してるのは誰よ。
「まぁこんなことになるだろうとは、思っていたがな。しかし見てみろ、このティアラなんぞどう使えと言うのか。こんなウズラの卵みたいなダイヤが嵌ってたら、庶民が身に付けていける場所もなかなかないぞ」
リストの中でも、かなりの範囲を占める宝飾品の一つを指して、困ってるんだか面白がっているんだかわからない口調で言う諸悪の根源。
「どうみても女性用だよね。わざわざ買ったのかもしれない」
いや、確かにそれが駄目とは言ってないけど、この実験検証としてはどうなんだろう。
「そのくらいなら、こっちの指輪の方がまだマシなんじゃない。こんなルビーじゃ、指が隠れちゃうでしょうけどね」
「メリケンサック代わりにはなりそうだ。コランダムは意外と丈夫だからな」
「このサファイアとダイヤのブレスレット、石が多すぎて目がチカチカする」
「爬虫類のモチーフが多いのは、鱗を宝石で表現するからなのか。ここまでくると、ジュエリーデザイナーの執念を感じるな」
「このタペストリーって、絹製なのね。わぁ、すごい文様」
「こっちはペルシャ絨毯か。ほう、十年以上もかけて織り上げた逸品らしい」
「千年近く前に作られたランプ?骨董品は正式な鑑定書付きでないと、対象外のはずだけど。ああ、一応証明書はついてるのね」
「浄水施設の技術権利か。現物でなければ遠慮したいところなんだが」
「なんでこう純金製が多いのよ。日用品なんて、使いやすさと丈夫さが肝でしょうに」
見ているうちに、価値観が麻痺してきた。
“せかいでゆうめいなたからもの”、でググったら出てくるみたいな物ばっかりだからねぇ。
「あの王子は、これが交換品だということをわかっていない様だな」
詩乃美が呆れて呟く。
「ワタシと交換した品は、必ず次の誰かへと渡る。そこを理解していないから、こうしたいかにもな贅沢品ばかり挙げてくるんだ」
まぁ、そんな所だろうけど。
「でもさ、だったらこの中のなにかと交換して、実験そのものを終了って訳にはいかないの?」
多分一番じゃないけど、それなりに穏便な結末なのかもしれない。
「マヤっち、それはいくらなんでもあり得ない。ある意味これは実証実験への冒涜だ。ワタシが検証したいのは、価値がどこまで上がるかじゃない」
いや、そうは言っても。
「ここまで高額品を提示されたら、そんなこと言ってられないんじゃないかな」
「じゃあ聞くが、マヤっちは純金の便器だのダイヤモンド付のスリッパだのが、本当に欲しいのか?」
「…丁重にご辞退申し上げます」
他にも色々あるのに、どうしてそんなイロモノを引き合いに出すんだ。
「ワタシはあの王子から、この実験に相応しいものを引き出して見せるつもりだ。こんな金ぴかや、役に立つかどうかすらわからん権利ではなく、本当の意味であの男の物と言える品をな」
いや、それって既に実証実験とは何か違ってない?
「オイルダラーだの国の首長だの、そんなものは本人についている付録に過ぎん。この世にたった一人しかいない〝本人〟。あの男は一度その原点に立ち返るべきだ」
付録って…あの財力と身分をそんなふうに言うのは、詩乃美くらいなもんだわ。
「そこで初めてワタシとワタシの実験に向き合う資格ができるのさ。それを教えてやろうじゃないか」
不敵に笑う詩乃美。ああ、これは駄目だ。
もう、詩乃美を止める術は無い。
「そう言えば、加賀美君はどうしたの?昨日から姿が見えないんだけど」
「ああ、良一なら仮免で教習所だ」
「は?」
いつも詩乃美の周りをうろちょろしている彼がいないのが不思議で、つい聞いてしまったら、意外な答えが返ってきた。
「かりめん?だって航空機の免許はこないだ取れたって」
「なにを言ってる。仮免許なんだから、車に決まってるだろう」
え?
「車って。だってまだわたしたちは、まだ」
「忘れたのか、マヤっち。良一は一年ブランクがあっただろう。次の誕生日で十八歳だ」
「あ…」
そうだった。彼は色々あって、高校入学を一年遅らせたんだった。
初めて会った時の昏い目をした少年を思い出す。傍から見ればうらやましいほどの環境で生活しながらも、不安と絶望と――どうしようもないプレッシャーに潰されかかっていた彼は。
渡瀬詩乃美の強烈なパンチによって、その息を吹き返したのだった。




