イノシシ娘、一番の苦しみ
「柚希っ!」
鋭い声が雨で心まで凍る柚希を打ち据えた。
自分の名だ。自分の存在を表す記号。
瞬き二回で睫に溜まった雨粒を散らす。
あの日の幻影が消えて、目の前が見えてくる。
真っ黒い邪気を纏った幽霊が、こちらを見ていた。
視線を動かすと、道路の真ん中に立ってこちらを睨んでいる翔がいる。
「冗談じゃねえ、何勝手なことやってんだよ、お前。俺に言っただろ」
そんなところにいては危ないと言いたいのに、音は喉に張り付いたように出てこない。
「辛くなったら呼べって。すぐすっ飛んでくるって、そう言っただろ! あれは嘘なのかよっ」
仕方ないと諦めていた翔に言った言葉だ。
雨雲から覗いた星の輝きを覚えている。
柚希は力なく首を振った。
あのときの気持ちに嘘はない。でも好かれることに対して感じるのと同じ罪悪感だ。
叶えられない約束、その場ばかりの勢いで吐き出す言葉。
全部本心だが、柚希の一番の願いは変えられない。
直情型の自分が、いまほど恨めしいと思ったことはない。
「桃華、が。桃華なら……」
「知るかっ」
「だって、……桃華は」
「知るかって言ったんだよ。お前の姉なんて会ったことはないし、興味もない。俺は、お前が良いんだよ」
「でも……」
桃華が生き残れば良かったのに。
そんな言葉がいつまでも柚希を追いかけてくる。いろいろな人の顔色の裏にその言葉が見える。
「きっと、桃華の方が。桃華の方が皆好きになる」
同じ顔同じ声、けれど皆桃華の周りに集まった。
柚希が何かをすると呆れた顔をされ、桃華が何かをやると凄いと賞賛の声が上がった。
それを柚希も誇りに思っていたが、彼女が失われると、途端に誇りは苦しみに変わる。
桃華のようになれない柚希。
本当は分かっているのだ。聞こえてくる柚希が生き残ったことへの糾弾は、柚希自身が叫んでいるものだ。
だからこそ、いつまでも振り払えない。生きている間、ずっと柚希を苛み続けるだろう。
その苦しみから解放されたいと、これは柚希の弱さだ。
「わたしだけ生きてるの、辛い」




