イノシシ娘、姉を乞う
「桃華、もういいよ。もういいんだ。……この体、桃華にあげるから。だから、もう」
中央分離帯に立って、柚希は必死に手を伸ばした。
幽霊は一昨日よりもなお邪気に濡れ、周りに災厄を撒き散らす。
先ほどから、何台もの車が柚希の横で横転を繰り返していた。
「お願いだから、もう。誰も傷つけないで」
胸の内に渦巻く激情が目頭に上ってきて、しかしそれは溢れかえる前に雨に冷やされて柚希に冷静さを取り戻させる。
意識の全てが桃華に向かっていた。
いつからいたのか、視界の端に翔と昴がいるのが見えるが、柚希の脳は彼らを認識しない。
こちらに向かって何かを叫ぶ翔の声は、柚希の聴覚の表面を撫でるだけで意味が入ってくることはなかった。
ただ柚希の全てが、焦がれ続けた目の前の存在に釘付けにされている。
「わたしね、桃華が行きたいって言ってた学校に入ったんだよ。わたしだと少し、授業に付いていくのがしんどいんだ。でも桃華なら大丈夫だよね。わたしよりもずっと頭が良いもん」
耳の奥でこの一年消えなかった音がある。
豪雨の中でもはっきりと聞こえるあの日の淑やかな雨音。
「大丈夫だよ。桃華がこの体に入っても、皆変だなって思うのは最初だけ。すぐに馴染むよ。だって私たち双子だもん。そうでしょ」
何かを考える前に体は勝手に動いていた。
車のヘッドライトに照らされた桃華を突き飛ばして、全身を襲った衝撃。
強い痛みを感じる間もなく、魂は体から抜け出していた。
「桃華はわたしなんかとは違って、しっかり者で皆から頼りにされてて、わたしの自慢のお姉ちゃんだもん。皆、桃華を待ってる。わたしなんかより……」
ちょうどいま桃華がいるあたりに漂って、桃華が傷だらけの柚希を抱きしめているのを見ていた。
真っ黒い死神が現れて、ああ自分は死んだんだと納得した。
桃華と死神が何かを話しているようだったが、雨の音に邪魔されて声は聞こえなかった。
――――次の瞬間、魂が引っ張られた。
「桃華の方が……」
柚希が目を覚ましたとき、やはり体は傷だらけで、そして桃華は息をしていなかった。
でも、あのとき本当に死んだのは誰なのか柚希は知っている。
柚希は今一度、目の前の幽霊を見つめた。その瞬間――――――。
「柚希っ!」
名を呼ばれた。




