イノシシ娘、雨の音に怯える
だが柚希のご機嫌もバスに乗ったところで終わる。
じめじめした空気に閉塞的な空間、憂鬱な窓の外の灰色の景色。
結局は思考もじめじめした方向へ帰結する。
(そういう問題じゃないって、じゃあどういう問題? 間違ったことしてないんだから堂々としていればいいのに)
バスが緩やかに停車した。
街中のバス停、三人ほど乗ってこようとするのが見えて、柚希は背筋を伸ばした。
雨の日ということもあって、バスの利用者は多い。
柚希と知穂は座席には座れず、入り口近くの吊革に掴まって並んでいた。
新たな乗客が背中ですれ違う。
奥へ入っていった客が動きを止めたのを見計らったようにバスが動き出した。
進行方向とは逆に体が引っ張られるのを、吊革に掴まった手に力を入れて姿勢を保った。
「そういえば、この先で最近事故が多いらしいのよ」
ふと思い出したように、隣に立つ知穂が呟く。
「この先?」
「柚ちゃんが降りるバス停の少し先なんだけど。駅に行く途中に県道との交差点があるじゃない? あそこで」
「……もしかして、コンビニと本屋さんと、ハンバーガー屋さんとマンションが四つ角にある交差点?」
「そうそこ。最近の雨でスリップするのかもね。ほぼ毎日なにかしらか事故があるらしいの。前から多かったらしいって噂は聞いてたんだけど」
知穂が肩に掛けている学生鞄を抱え直す。
バスが角を曲がり、柚希の鞄が大きく振れた。ぎりぎりで目の前に座る男の子に当たらずに済む。
冷や汗が出る。
迷惑そうに見上げてくる男の子は眼に入らなかった。
(あそこ? でも違う。だって一回行ったもん。でも、……もし)
バスが止まる。
空気を抜くような扉の開閉音が耳を微かに引っ掻いた。
「柚ちゃん? 降りる場所よ」
知穂の声に、柚希は緩慢な動きで顔を上げた。窓の外は見慣れた街並みだ。
柚希の家にはここで降りるのが一番近い。
「ねえ、大丈夫? 顔色が悪いよ」
「大丈夫」
知穂に向かって口角を上げて見せ、柚希は出口に向かった。
扉を閉めようとした運転手に声をかけてバスを降りる。
傘を差して窓を仰ぎ見ると、知穂が心配そうな顔でこちらを見ていた。柚希が手を振ると、小さく振り返してくる。
バスはそのまま、中に居る人や降りた人の心など関係なく発車する。遠ざかる。
柚希はバスの輪郭がなくなっても、その場に立ち尽くしていた。一緒に降りた人ももう周りに誰もいない。
ふと翔の顔が思い浮かんだ。この間、いまみたいに血の気が引いたときは彼が傍にいてくれた。
いまは誰もいない。気持ちを整理できない。紛らわせられない。思考が空回りする。
傘を叩く雨の音。
耳を劈くブレーキ音、桃華の悲鳴。
全身に走った痛み、すぐに分からなくなった。
雨の中佇む黒い人。
紙とインクの匂い、翔の微苦笑。どうして諦めてしまうの。
本屋の前の電柱に張り付いた軽自動車。
救急車のサイレン、赤い明滅。
桃華と昴、遠くて音は何も聞こえない。
知穂の声、事故が多いと。
動き出したバス。
照らされた昴の横顔。
折り重なるように倒れる自分たち。
雨が、……雨の音が――――。
傘を持つ柚希の手から力が抜けた。
雨に奪われる体温。
雨で頬に張り付く髪をそのままに、柚希は駆け出した。
***
私を庇って死んだ片割れ。
危ないことばかりすることに対しての憤りと、そこまで自分を想ってくれる喜び。
矛盾したこの醜い心が、いまもまだこの世界に私を留めている。
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