イノシシ娘、叫ぶ
「何も知らないくせに、何も見えてないくせに、勝手なこと言うなっ!」
どんなに声高に叫んでも、いまの柚希の言葉は誰にも届かない。誰の陰口も止めることが出来ない。
伝わらない。伝わらない。届かない。
「高坂くん!」
柚希は翔に駆けよった。固まる彼の視界に入り込んで、青ざめる顔を見上げる。
「帰ろう。いいよ、放っておいて。帰ろ」
翔の黒目だけが移動する。こちらを見たのを確信して、柚希は彼の腕を掴んだ。
掴みたかった。
けれど手には何の感触も残らない。
「大丈夫。ちょっと気持ち悪くなったり、お腹壊したりするだけだよ。だから大丈夫」
黒い物体は、這い上がった人間の鼻や口からもぞもぞと体の中に入っていく。
鳥肌の立つ光景だが、柚希は薄情だとしても目を逸らした。
邪気が人の影から生み出したのは、小さな悪意や嫌悪、劣等感や卑屈、その人の中にある負のなにかの固まりだ。
彼らから生まれ彼らに返る。害はあるが、大きなものではない。突き放した言い方をすると自業自得だ。
翔の影からも生まれるし、柚希に実体があって影があれば、やはり生まれてしまっただろう。
けれどその存在を知っていれば振り切れるのだ。
「…………すみません」
翔がせめてもというように、口の中で呟いて踵を返した。立ててあった自転車に乗る。
彼の漕ぎ出す気配に、柚希も慌てて荷台に飛び乗った。
「自転車、大丈夫なの!?」
「飛び出してきた奴は轢く」
「――!? 駄目だから」
「全力疾走する自転車に轢かれたがるのなんて幽霊だけだ」
「万が一があるかも!」
「知るか」
宣言した翔は立ち漕ぎで、いっそ清々しいほどの全力疾走をした。
翌日は雨だった。雨は邪気を洗い流す。
自然と幽霊たちの怨みも薄れ、柚希たちの仕事も一時休息というように休みになることが多かった。
朝のメールで昴にバイトがないことを確認し、そのことを翔に言うと、彼は素っ気なく一度頷いただけだ。
仄かに発せられる拒絶の空気に、柚希はその日、それ以上彼に声をかけることが出来なかった。
前日のことが尾を引いているのだろう。
そっとしておくべきだと思い、それでも気になって事あるごとに翔をチラ見する柚希に、知穂がこっくりと首を傾げた。
「柚ちゃん、挙動不審」
「う、そんなにあからさま?」
「チラ見じゃなくて、ガン見ね」
「ストーカーではありません!」
この前成仏していただいた幽霊男子を思い出して力一杯否定した。
「柚ちゃんがストーカーになったら、コソコソタイプじゃなくて突進タイプね」
「どっちも迷惑。って、違うし。ストーカー違う」
「当たって砕ければいいのに」
「砕ける前提っ?」
「骨は拾ってあげる」
くすくす笑う知穂に唇を尖らせて、柚希はスマートフォンを取り出した。
映し出されたネットの画面には、しばらく不安定な天気がつづくでしょうと書かれている。
雨は嫌いじゃない。自分たちが生まれたときの天気だ。
小さい頃、雨の中はしゃいで泥だらけになっても、柚希の母は怒るようなタイプではなかった。
雨は嫌いだ。耳の中の残音が消えてしまいそうで恐い。
雨の中に見る彼女の顔は、いつも最後の泣き出しそうな決意の顔だった。




