イノシシ娘、囓られる
二十一時を回った教室内は真っ暗だ。
光源はカーテンの開け放たれた窓から入ってくる星明かりのみ。
だが薄暗闇に恐怖を覚えない翔は、教壇の中から見える狭い視界をゆっくりと見回した。
暗闇に目が慣れたいまの彼には、物の輪郭だけでなく濃淡も見える。
とは言っても、近くにいる女学生が着ている着物が矢羽根柄だとまで分かるのは、やはり相手が幽霊だからだろう。
翔に見ることが出来るのは、柚希のように剥き出しの魂や、実体を持たないいわゆる妖怪のような類いだけである。
それらは見たくなくとも見えてしまうが、逆に何かに取り憑いている中のものを視ることは出来ないらしい。
実際、自分が鷲掴んでいる白うさぎも、手の中でもぞもぞと動いているのを感じなければ普通のぬいぐるみとしか思えない。
翔は手の中のうさぎに微かな声で話しかけた。
「おい、死神。あんたさっきの、どうやって幽霊を殴ってんだ?」
翔の声にぴくりと反応した白うさぎは、顔を上げてプラスチックの目で見つめてきた。
当然と言えば当然だが、表情が変わらなすぎて何を考えているのか分からない。
喋れるのかも疑問だが、翔はそのまま話しかけ続けた。
「やり方さえ覚えれば、俺でも出来るのか」
手の中にあるぬいぐるみは間違いなく実体だ。ならば翔にも幽霊に触れる方法があるのではないか。
別に、翔自身には幽霊と接触したい理由はない。
しかし、先ほどのような状況になったとき、自分では柚希の盾になることも出来ない。
もしもあのタイミングで白うさぎが来なかったら、彼女は男子幽霊に呑み込まれていたかもしれないのだ。
「もし、そうなら……」
翔の言葉を遮るように、そのとき廊下の方からたくさんの声が聞こえてきた。
「なにそれ、ちょーウケる」「ちょー可愛い」「腹が減ったよ」「うさぎの助けが」「部活行こうぜ」「次、百二ページ読んでください」「今日のメンチカツちょー旨ぇ」「漫画のつづき」「おはよぉ」「わたしに鞍替えされた?」「昨日さぁ」「かったりぃー」
「…………は?」
思わず自分の喉から間抜けな声が出た。
がやがやと騒がしい気配は、真昼間の学校そのものだ。
いったい何が起こったのかと眉を寄せている翔に、説明をしてくれたのは幽霊の女学生だ。
「雑鬼たちが起き出したのよ」
「雑鬼?」
「名前もない子鬼たち。昼間の生徒たちを真似るのが好きなの。真似ッ子たちなのよ」
「ああ、そういうことか。っていうか、あんた喋れたんだな」
翔が女学生を見て言うと、彼女は悪戯っぽく笑った。
「さっきの彼女には、話しかけない方がいいでしょ? あの子、簡単に引き摺られてしまうもの」
「引き摺られる?」
どういうことだろうか。
詳しく聞こうとしたとき、どこからか猫の鳴き声が聞こえた。「にゃあにゃあ」と子鬼たちの大合唱が始まる。
それまで手の中で大人しくしていた白うさぎが突然暴れ出した。
藻掻いて翔の手から抜け出すと、教室の外へ一目散に駆けていく。
「おい!」
一瞬の逡巡の後、翔は白うさぎの後を追いかけた。
すでに廊下には担任の姿はない。
柚希はどこへ行ったのかと思っていると、うさぎの向かう先に子鬼の山が出来ているのに気づく。
白うさぎは「みゃあみゃあ」と騒ぐハンドボールくらいの子鬼たちに飛びかかると、猛然とした勢いで山を掻き分け始めた。
なにが楽しいのか、後ろへ放り投げられた子鬼たちがキャーと歓声を上げる。
翔は中から出てきたものに息をのんだ。
「……か、囓られちゃった」
泣き笑いのような表情でそう言った柚希に、最後の子鬼を放り捨てた白うさぎがまるで溜め息をついているように項垂れていた。




