イノシシ娘、疾走する
盾にした翔の背からビクビクと知穂と守護霊を見ていると、クラスメイトと何事かを話していた知穂が、くるりとこちらを振り返って近づいてきた。
「え? え? 知穂、近いっ。眩しい眩しい目が潰れる。ぎゃあああ!」
騒ぎ立てる柚希の声はもちろん翔にしか聞こえていないだろう。
ベランダの入り口を開けた知穂が、煩そうに微かに眉間に皺を刻んだ翔ににっこりと笑いかけた。
「おはよう、高坂くん」
涼やかな知穂のいつもの声。けれど柚希はこのとき寒気を感じて震え上がった。
(これは機嫌が悪い? っていうか、なんか怒ってる)
守護霊から差す後光で知穂までも神々しい。
威圧感が半端ない姿に、柚希はいつもどおり挨拶をされても反応しない翔の背中をばしばしと叩いた。
もちろん物理的には叩けないが、そこは気分だ気分。
「高坂くん、挨拶挨拶。知穂は幽霊じゃないよ、人間だよ。挨拶は人間同士の礼儀だよ」
柚希が後ろから言いつのると、翔はしばらく黙ったあと溜め息をついた。
「なんか用?」
「それ挨拶じゃないからっ!」
「あら、あなたの声、初めてまともに聞いた気がするわ」
「そこ目を丸くするところじゃないから! というか知穂、なんかキャラ違う!」
「まあそれはいいのだけど」
当然柚希の声が聞こえない知穂は、眉を寄せて小首を傾げた。
「柚ちゃんをどこにやったの」
「え?」
急に自分の名前が出てきて、柚希は瞬きした。
知穂の疑問に答えるように彼女の後ろの守護霊が柚希を指さしてくるものだから、柚希も思わずうんうんと頷く。
そんな二人を完璧に無視した翔が、「知らねえよ」とぶっきらぼうに答えた。
「知らない? さっきあなたに連れ出されたって証言は上がっているのよ」
(ええ、連れ出されましたとも。一緒に戻ってきてますよ)
声に出して訴えても聞こえないので心の中で訴えてみたが、当然知穂には届かない。
翔が面倒くさそうに息を吐く。
知穂のこめかみに青筋が現れたような錯覚を受ける。
「高坂くんが柚ちゃんの猛攻を嫌がってるのは知ってる。確かにしつこ過ぎて鬱陶しいでしょうね。それこそ柚ちゃんは突っ走り始めたら人の迷惑を考えないような駄目な子だけど」
「だ、駄目な子でごめんなさい。色々ごめんなさい」
「誰よりも真っ直ぐで綺麗な子なんだから、傷つけたらわたしが許さない」
強い口調で告げられた言葉に、柚希は目を見開いた。
そんな風に思ってもらっていたなんて知らない。
知穂とは高校で出会ったから付き合いはまだ数ヶ月だ。気の合う友達、親友だと柚希も思っている。
けれど知穂は、柚希が思っている以上に彼女のことを見ていてくれるのかもしれない。
胸が苦しくなった。叫びたくなった。泣きわめいて抱きつきたい気分だ。
ぜったいにしてはいけないからこそ、強く思う。
「…………しいな」
ふと翔から小さな声が零れた。
正面にいる知穂には聞こえなかっただろう声に、柚希は弾かれたように駆けだしていた。
一目散に置いてきた自分の体に向かう。
――その背に向けられた暗い瞳には気づかなかった。




