後編
―――その日の夜。
咲耶は初めて和穂に電話を掛けた。
電話を取り次いだのは、お手伝いさんのような女性らしく、
そういった事実にも心が揺らぎ、受話器を握る手に力が入る。
しかし電話の向こうの和穂は、いつもと何ら変わらない。
「咲耶さんから電話をもらえるなんて、嬉しいです」
そう言って笑う。
雅耶から、あなたがどういう立場の人か聞いたの。
「小さい商事会社」なんて、とんでもなくて――
これ以上、和穂が咲耶の心に踏み込んでくる前に、
会わないことにするのが、正しい気がした。
雅耶にも、これからは彼を家に呼ばないようにと言おう。
「あのね」
「――今度は」
躊躇いがちな咲耶の口調に何か感じたのか、和穂が遮る。
「どこに行きましょうか」
「今度は――」
突然、電話で一方的に「もう会わない」と伝えるのは、
卑怯なことのような気がした。
武道を嗜む身としては、背後から不意打ちするようなことは出来ない。
「迎えに行くわ」
そして、きちんと話そう。
和穂がいつも、真直ぐに向き合ってくれたみたいに。
咲耶はそう決意して、もう一度だけ、のつもりの約束をした。
* * *
和穂はあの日、咲耶の通う女子大の前で、
こんな風に居心地の悪い思いをしていたのだろうか。
だとしたら、本当に申し訳ないことをした、と咲耶は思った。
気にならない、と言っていたし、慣れてもいるようではあったけれど。
まだ、十分ほどしか経っていないというのに、
通り過ぎる学生たちの視線を痛いほど浴びて、
咲耶は、居たたまれないような気分になっていた。
圧倒的に男子学生が多く、好奇心に満ちた視線を咲耶に向けてくる。
しかし、もっと容赦ないのは女子学生からの視線だ。
「こんな所で、待ち伏せ?」と、わざと聞こえるように囁き、
クスクス笑いながら通り過ぎたり、咲耶の格好を無遠慮に眺めていく。
咲耶は急に自分の姿を意識した。
昨今流行のパーマネントヘアとは無縁の、真直ぐな長い髪。
それを左右ですくって、後ろでリボンで止めている。
身に着けている小花柄のワンピースにカーディガンは、
色もデザインも、通り過ぎる女子学生ほど洒落ているとは言えない。
待ち人は校門の奥から、雅耶と共に数人の華やかな女子学生に囲まれて現れた。
何故か、足が一歩後ろに退けた。
――きちんと話さなくては。
そのために今日は待ち合わせたのだもの。
そう思う気持ちとは裏腹に、足は一歩、二歩、と後ずさる。
とうとう咲耶はくるりと踵を返して、駅に向かって走り出した。
何をやっているの私、と思いながら。
「咲っ!?」
背後で、雅耶の呼ぶ声が聞こえる。
「咲耶さんっ!」
もちろん、和穂の声も。
それでも。
咲耶は振り返ることも出来ずに、自分自身に混乱したまま走り続けた――
夕陽が、山並みを黒い影絵のように浮かび上がらせている。
巣に帰るのか、鳥たちが数羽連れ立って飛んでいく。
キィ、とブランコが鳴った。
結局、約束をすっぽかしてしまった。
咲耶はブランコの鎖に腕を絡め、ふう、とため息を吐く。
和穂はきっと、訳がわからないと首を捻っているに違いない。
私だって私がわからない。
俯いたままブランコを揺らすと、足元に、ゆっくりと人影が伸びてきた。
雅耶が迎えに来たのかもしれない。
この公園は、昔から咲耶が何かあると逃げ込む場所であったから。
「もう暗くなりかけているのに、
こんな淋しい公園にひとりでいたら、危ないでしょう?」
その声に視線を上げてみれば、
隣のブランコに腰掛けたのは、和穂であった。
「雅耶が、きっとここにいるはずだと教えてくれました」
「……そう」
「どうして帰ってしまったんですか」
逃げ出したと言わないところが、和穂の礼儀正しいところだ。
「ごめんなさい」
和穂がふっと笑った。
「咲耶さんが俺のことを尋ねたと、雅耶から聞きました。
貴女が、初めて俺に興味を示してくれたと喜ぶべきか、
すっぱり切り捨てられるかもしれないと心配すべきか、
少し悩みましたよ」
ギィッとブランコを揺らして、和穂は続ける。
「だから、こういった展開は想定の範囲内です」
「……そうなの?」
「当然です」
やけに自信ありげな発言に、咲耶はぷ、と噴き出した。
「じゃあ、この展開の結末はどうなるのかしら?」
和穂はやにわにブランコから立ち上がり、咲耶の前に回った。
「咲耶さん。
前にも言いましたが、
俺にはどうにもできないことで、俺を遠ざけるようなことはしないで下さい。
それを知る前の俺と、それを知った後の俺と、どこが違うというんですか?
俺は、今までと同じ、俺のままです」
「……私は、今までと同じ私じゃなくなったわ」
それはどういう意味? というように、和穂が首を傾ける。
君が現れてから、私は少し変なのよ。
自分の在り方に、疑問を持ったことなど、
不安を抱いたことなどなかったというのに。
君の存在が、私を揺るがすの。
それが、少し怖い。
「自分が、誰かに相応しいかなんて、考えたこともなかったのに」
咲耶が思わずそう呟くと、和穂は珍しく声を荒げた。
「俺に相応しいかどうかってことですか? それを決めるのは俺でしょう?」
ああ違う、別に責めているわけじゃなくて、と
和穂は、ぐしゃっと髪を掻き乱した。
咲耶は目を瞬かせた。
余裕のある態度を装ってはいるものの、
和穂の瞳も、自分と同じように不安に揺れている?
キィ、とブランコが小さく軋んだ。
「貴女ならきっと、
切り捨てる時にも正面切ってバッサリだろうと思っていました。
だったら、俺にも機会がある。
その刃、必ず躱してみせる。
この展開の結末は、まだ出ていませんよ。
結末を出すほど局面は進んでいない」
瞳を不安に揺らしながらも、口にする言葉は、あくまでも強気で。
「そんな中途半端な勝負、咲耶さんはしないでしょう?」
和穂の背負っているものがどんなものであれ、
そんな風に、「最後まで勝負に付き合え」と言われたら。
咲耶は、ぐ、とブランコの鎖を掴んだ。
「……帰りましょう、咲耶さん」
いつも、咲耶の手を強引に取る和穂であったが、
今は少し離れた場所に立ち、手を差し延べている。
咲耶の意思で、その手を取ることを望んでいるのだ。
――僅か、三歩の距離。
ゆっくりと立ち上がった咲耶は、和穂を見た。
「すっぽかして、ごめんなさい」
それから和穂に歩み寄り、その手に自分の手を滑り込ませる。
咲耶の手が、そっと握り返された。
「……『七人の侍』を選んじゃうような私でいいの?」
君の周りにいる女の子ほどお洒落ではないし、
これからも、そんな風になれないと思うけれど。
「お勧めだって言っていたじゃないですか」
「そうよ、あれは名作だと思うの」
「確かに」
「少し長いけど」
「休憩が入って、驚きましたよ」
「でも、雅耶は何か言いたそうだった」
「俺がいいんだから、それでいいんですよ」
和穂はそう言って微笑んだ。
日が暮れて、空は藍色に染まり始めている。
リリリ、と、そこここで虫の音が響く。
そのままの貴女でいいんですよ。
そう言われたようで、咲耶は思わず頬を染める。
「『恐怖の報酬』っていう映画も、面白いのよ」
耐えきれない、というように、和穂は肩を震わして笑い出した。
「……なかなか手強いですね、咲耶さん」