第十話
「そこをどけ」
黒ずくめから発された声は、睡蓮の養父、奴隷商人のもの。
「あとをつけてきたのね」
蓮姫が刃の向こうから、奴隷商人をにらみ据える。
「おれの娘を」
言いかけた奴隷商人の半月刀を、春男が剣で払い、蓮姫の額から遠ざける。
春男に払いのけられた刃を柚姫に向け、奴隷商人は後を続ける。
「おれの娘をコケにした女を、見逃すとでも思ったか」
奴隷商人は睡蓮の周囲に間諜を置いていた。
今回の、誘拐事件も情報は逐一耳に入っていた。
蓮姫や銀月が動かなければ、部下に睡蓮を救出させ、二度と手元から離さずにおく心づもりだった。
たとえ当の睡蓮が、銀月恋しさに泣こうと喚こうとだ。
一方。
蓮姫に庇われた格好の、柚姫は。
唐突に湧き上がる殺意に身を任せた。
庇われた、というより、立ち塞がられた、と柚姫は感じた。
いつも、いつも、自分の前にそびえる影。
自分と同じ姿の。
いや、蓮姫が自分の前に立つなら。
柚姫こそ、影ではないか。いつも、いつも、今も、これからも、ずっと。
今、倒さなければ。
あたしはずっと、影のままなんだ!
懐剣を取り出し、抜き放って、蓮姫の脇腹へ。
それは、からくも陸史によって阻まれた。
自分の身に降りかかった、背後からの災難を知らぬげに。
蓮姫は奴隷商人を鼻先で笑う。
「あなたは一度、睡蓮を捨てた人よ。理由はどうあれ、陽花楼へ置いて去った。そのとき、すでにもう父親の役は、降りたのではなくて?」
奴隷商人は、蓮姫が放った、痛烈な皮肉を悟った。
「あれはおれの娘ではなく、今はおまえの妹だと、言いたいのか」
蓮姫は、不敵に微笑んでみせた。肯定の意味で。それが答え。
今度は奴隷商人が、蓮姫を鼻先でせせら笑う。
「おまえが庇ってやった、おまえと同じ顔をした双子の妹のザマを振り返ってよく見てみろ。実の妹に刺されるところだったおまえに、おれの娘を守れるのか、それをおれに信じろと?」
蓮姫は、不敵な笑みを崩さない。
「でも、刺されてはいないわ。世の中は結果がすべてよ。そうじゃない?」
「ああ、おまえの有能な手下に阻まれて、どうにかな」
「ええ、おかげで、刺されてはいないわ。世の中は結果がすべてよ。そうでしょう?」
蓮姫を見据える、奴隷商人。
奴隷商人に刃を向けて構える、春男。
不敵に笑って奴隷商人を見返す、蓮姫。
敵意をむきだしに、懐剣を蓮姫へ向けた、柚姫。
それを阻む剣に、一層の力を込めて押し返す、陸史。
鞭が巻きついた手首を押さえて、うずくまる苦力。
朝焼けの砂漠。
動かない六つの人影。
巻き上がる金色の砂。
一陣の風が各々の裳裾や髪を揺らして過ぎる。
やがて。
最初に動きをみせたのは、奴隷商人。
「おまえたちの姉妹喧嘩に、おれの娘を巻き込むな。今度やったら、八つ裂きにしてやる。よく覚えておけ」
馬に乗り、駆け去っていく。
その影を遠く見送ってから。
「頼まれたって、もう真っ平よ、あんな魔女に関わるのなんか」
柚姫が、吐き捨てる。蓮姫が、聞き返す。
「魔女って、睡蓮のこと?」
「他に誰がいるって言うのよ」
蓮姫は呆れ、次に声をあげて笑い出したい衝動と必死で闘わねばならなくなった。
柚姫、それじゃああんたは自分がお姫様にでもなったつもり?
お姫様はね、かどわかす側じゃなくて、かどわかされる側よ。いつだって。
あんた、自分のやったことこそ魔女めいてるって、いいかげん、わかってもよさそうなものよ!
この、自覚のなさ。
自分がやらかしたことより、つねに、自分がされたことばかりをあげつらう。
曲芸にも似た、事実の歪曲。
あんたはなにも変わってないのね、変わらないのね柚姫、もう一生。
ならば、もういいわ。手放してあげましょう、妹よ。
あなたは青がいれば、それでいいのよね。
あなたのお守りは、青に任せるわ。頼んだわよ、青。
「なにを笑ってるのよ」
咎める口調で、柚姫が聞いてくる。
「べつに」
蓮姫はそれを、受け流す。柚姫はまだ、食って掛かる。
「謝らないわよ、あたし」
「なにをよ、ああ、刺そうとしたこと? いいわよ、謝ってもらわなくても。これもね、ついでに言っておくわ、謝らなくてもいいわよ」
自分の頬の傷を、指差す蓮姫。
「だから謝らないって、言ってるでしょ!」
地団太を踏む柚姫。子供みたい。今度こそ蓮姫は声をあげて笑い、片手をひらひらさせて、柚姫の横を通り過ぎた。
陸史の手を借り、駱駝の背に乗る。
春男は油断なく、柚姫を見張っている。
いつまた豹変し、懐剣を抜いて襲ってくるかわからない、との用心を、あからさまに匂わせて。
幸い、春男の用心は杞憂に終わった。
柚姫は地団太を踏んだあと、くるりときびすを返し、苦力を気遣いながら、自分たちの駱駝が待っている方へ、歩いていった。
陸史は蓮姫の、これまで見たことのないような快活な様子に驚いた。
それで、気づいてしまった。
蓮姫大姐は、あのけったいな妹が大好きなのだ、と。
陽花楼の愛らしい妹たち、希代の花形・睡蓮や、けなげな努力家・英愛など、彼女たちを慈しむ気持ちに嘘はない。女将・房子に寄せる敬愛も、本物。男嫌いも真実。だけれども。
大姐は、誰にも言ってない秘密を抱えてる。
大姐は、自分よりも、自分の分身、あの柚姫が、最愛なんだ。
たとえ報われなくとも。殺意を向けられるほど、憎まれていても。
いや、報われないからこそか。
理解に、苦しむ、が。
そんな蓮姫を、陸史は笑えない。
陸史とて、誰にも言わない秘密を持っている。
男嫌いを公言してはばからない蓮姫大姐を愛している、などと。
知られればたちまち、身の破滅。側近くに侍ることも、叶わなくなる。
春男にすら、打ち明けてはいない。
あーあ、なんでこんな、ややこしい女性を、よりにもよって、好きになっちまったんだかなあ。
おれはずっと、この秘密を抱えたまま、こうやって、大姐の背中を見守り続けるんだろうなあ。
駱駝に揺られる蓮姫の後姿を盗み見て、陸史は、ため息をこぼす。
が、それは深刻でなく、自嘲まじりの、軽いもの。
太陽を巡る惑星に、何故巡るのか、などと問うたところで、どうなるものでもありはしない。
引力にとらわれたなら、そうするしか、ないじゃないか。
蓮姫の背中を見守る陸史、そのさらに後方から、陸史と蓮姫を見守りながら、春男は思う。
自分は、色恋沙汰をとっくに引退した身でよかった、と。
自分は、運がよかった、と。
妻とは親の決めた縁で、とくに心を動かすこともなく結婚した。
妻は一見これと言って人目を引く特徴もなかったが。
控えめで、よく家庭を守り、細やかな気遣いのできる、貞淑な女だった。
その気質をそっくり受け継いだ、愛娘にも恵まれた。
その娘が悪党に攫われたときは、自分は鬼と化すのではないかと不安になるほど頭に血が昇ったが、それも蓮姫の尽力で事なきを得た。
陽花楼の面々が最近、上演して好評を博したという、芝居。
その主人公となった二人、李家の御曹司・銀月と花街の踊り子・睡蓮よりも。
もしかしたら、自分は、幸福であったかもしれぬ、と春男は思う。
平凡で、目立たない、ささやかな暮らしが、結局いちばん尊い。
誰にも知られないから、嫉妬もされず、壊されたり奪われたりする心配も、ずっと少なくて済む。
自分たち家族も、舞台に乗るような華々しい物語の主人公たるあの二人も。
波乱万丈と、平々凡々、両極端ながら。その幸福の度合いは、奇妙なことにおそらくは、同等。
ともに僥倖に恵まれた、稀有な人間なのだろう。
もしかしたら、この砂漠の砂の中で喩えるならば、ほんの一握りでしかないほど、稀有な。
大抵の人は、もつれた糸の先に、どんな相手がいるのかも知れず。
運命の悪戯、勘違い、誤解、曲解の果て、滑稽な群舞の渦に放り込まれてもがき苦しむ。
だが春男は、こうも思う。
自分はたしかに、幸運だが。
群舞の渦に放り込まれてもがく彼らとて、必ずしも不幸とは限らない、と。
たとえば、憎まれながらも心の奥底で双子の妹を愛してやまない蓮姫。
たとえば、そんな蓮姫を、真性の男嫌いと知りながら密かに恋い慕う陸史。
そう、陸史の思いなど、打ち明けられずとも手に取るようだ。
春男は武骨な容貌だが、朴念仁ではない。
朴念仁に、平穏な家庭を築き、守り通せはしない。
どれほど妻が、できた女だとしてもだ。
百人の女と浮名を流す男と、一人の女を生涯愛し貫く男。
果たしてどちらがより男女の機微に通じるか?
それでも、だからと言って、かれらを哀れとも思わない。
むしろ、羨ましくさえ、思う。
無論、ほんの少しだけだが。
自分は、恋の深淵に嵌ることを、免れた。
それは本当に、ありがたい。
だけれども、恋の深淵を覗いた者には覗いた者なりの。
春男には計り知れないなにかが、たしかに、あるのだろう。




