第八話
やや時をさかのぼって、蓮姫が柚姫と再会を果たすまで。
蓮姫はジュンガルで、無為に過ごしていた。
中華から来た医者は、いるには、いた。
おそらく名医でも、あろう。
だが、二度診察してもらったきり、蓮姫は会うのを拒んだ。
懸想されてしまったからだ。
「あなたのその頬の傷など、わたしはなんとも思わない、そんなもの、あなたの美しさを少しも損なえるものではない」
医者はそう叫んだが。
その無神経ぶりが、癇に障った。
これだから、男などというものは。
声高に宣言すれば押し通ると思ってでもいるのか、愚かな。
力任せで、心の扉が開かれるとは、限らない。
ましてや蓮姫の心が、力などで強引に開けられるものか。
加えて、璃安から届いた便り。
国移しのため上演された芝居。
この目で見たかった。
国移しへと導く睡蓮、久しぶりに舞台を踏むその晴れ姿や、芝居そのものも、さることながら。
睡蓮の母を演じたという、英愛の舞。
あの娘は、蓮姫と同じ。才の不足を根気で克服した努力家。
そして蓮姫を、慕ってくれている。見て欲しかったにちがいない。
蓮姫も、見てやりたかった。
なにやら、あの李銀月に、うまいこと丸め込まれて蚊帳の外へ追いやられた、ような。
占い札は、それは蓮姫の邪推にすぎぬ、と訴えてはいたが。
どうだか。真相は、わかったものではない。なんとなれば。
ここジュンガルへ来てからというもの、それまで百発百中だった蓮姫の読みは、当てがはずれてばかり。
中華からの名医とやらは、先述のとおり。
そして肝心の方術師は、見つからず。
水晶球、水鏡、占い札、暦、八卦、なにを駆使しても、春男と陸史 に徒労を課すのみ。こんな失態は、いまだかつてない。
苛立ちが重なり、酒量も増える。手下の二人が心配するほど。その心配すらも、鬱陶しい。
今夜も二人を早々に追い払い、寝室でひとり、泥酔寸前まで飲み明かす気で杯を傾けていた。
巨大な満月を、肴に。
いつにもまして、月が、近い。
こんな夜には、魔力も一段と強まる。
方術を授かるには、絶好の機会なのだが。
肝心の、方術師が、雲隠れ。
通り名くらいしか、つかめていない有様。
「一体どこにいる、白王!」
自棄が募って、杯を床に投げつける。
沈黙の深さで、異変に気づく。
こんな不穏な物音がしたら、たとえ深夜でも気配を察して駆けつけてくるはず。
隣室に控える春男か陸史の、どちらかが。
「……切実な、呼びかけだな」
控えの間から現れたのは、見知らぬ男。
床に転がった杯を拾い上げる。
長身。右目に眼帯。長い白髪がさらさらと肩から流れ落ちる。
これが、白王か。
「二人に、なにをした」
「いちばんの気がかりは、それか。手下思いなことだ」
答えろ、と蓮姫は目で脅す。
侵入者はおもむろに杯を袖で拭い、酒を注いで飲み干した。
それからようやく「眠ってもらっているだけだ、朝まで目覚めぬように」と物憂げに答えた。
「なんの用だ」たたみかけるような蓮姫の問いに。
「これは異なことを。用があるのはそちらではないのか」
ぐっ、と言葉につまる蓮姫を興味深げに見下ろして。
「授けてやっても、いいぞ」と、男は言い、こう続けた。
「手っ取り早いのは、おれと交わることだが」
なるほど。中華の秘術、閨房術の亜種か。
蓮姫は納得した。蓮姫の頭は。しかし。
精神と肉体が、それを拒絶した。
受け入れられるものか。初対面の、しかも、男と。
「……他の方法で、願いたいものだ」
どうにか平静を装って、交渉を試みる。
が、唐突に出没した方術師・白王は、にべもなく。
「生憎と、他の方法をとるには、おれの方に、もう時間がなくてな」
寿命か。
「察しが良いな。気に入った」
ならば何故、もっと早くに出てこなかった?
「おまえが焦れるのを、待っていた」
なんのために。
「必要だったんだよ、その渇望が。どうしても術を手に入れたいという必死な思いがな」
白王は蓮姫の傍らへにじり寄り、首をしめあげる格好で蓮姫を自分のほうへ向かせた。
蓮姫のほうは、一言も言葉を発していなかったのに。
会話が成立していた。
それだけでも白王の実力のほどが、知れた。
欲しい。この力。たしかに、喉から手が出るほど。しかし。
男が、至近距離で自分を見つめている。それだけで蓮姫は吐き気をおぼえた。
嫌でたまらない。それでも、目を逸らさず、蓮姫は問いただした。
「わたしの力を、封じていたな」
「ああ、おまえがジュンガルへ来てからこっち、ずっとな」
欲しいだろう、この力、喉から手が出るほど。そうだろう?
蓮姫の首にかけた手を、白王は蠱惑的に動かした。
「その力を授かれば、わたしは柚姫を封じられるようになるのか?」
「うまくすればな」
「うまくすれば、とはどういう意味だ」
「つまり、おまえが嫌々ではなく、本気で全面的におれを受け入れられる器になれるかどうか、ということだ」
だから切実な渇望が必要だったんだよ。そうでなきゃおまえ、おれと寝るなんてできないだろ、と。
白王の思考は、続いた。
これは、白王とて蓮姫に悟られるとは心外だったらしく。
「なかなか、やるな。今度こそ、失敗しなくてすむかもしれん」と一人ごちた。
それを蓮姫は、聞き逃さなかった。
「待て、しくじったことがあるのか?」
「というより、しくじったことしかない」
「なに?」
「逆にいうと、成功したためしがない」
「きさまっ!」
蓮姫の怒りは頂点に達し、首にかかった白王の手を払いのけ、
「ふざけるな!」と一喝したが。
「ふざけてなどいない、おれには本当に時間がないんだ」と、真摯な答えが返ってきた。
「第一、だれかに術を授け終えているなら、おまえのところへ忍んできたりするわけないだろ、こんな厄介な、男嫌いのところへさ。わざわざ渇望を煽ってやったり、手間ひまかけてやってさ」
拗ねたようにそっぽを向き、ぶつぶつと続ける。
蓮姫は呆れて「一体いままで何人と試して、駄目だったのだ」と聞くと。
「男も含めてか」と聞き返すので、
「男とも試したのか」と、またまた呆れると。
「なりふりかまっていられないからな」と返ってくる始末。
ぷっ。
気の毒だが。不謹慎だが。
蓮姫は、しまいには、吹き出してしまった。
「蓮姫」
蓮姫が笑いたいだけ、好きに笑わせてやってから。白王は蓮姫の頬を両手で包んで、自分のほうを向かせた。先刻、首をしめあげた際とは打って変わった、やさしげな所作で。いっそ懇願でもするように。
「死 ぬのは仕方ない。無念なのはなにも残せず、死ぬことだ。おれは子も弟子も持たなかった。が、ことここに至って急にな、無念になってきたんだよ。おれはおれ の培ってきたものを継いでくれる誰かが欲しい。おまえ継いでくれよ。おれだってもうこんなことは最後にしたいよ。ていうか、もう余力ないんだよ。たぶんお まえで最後なんだよ。最後の、頼みの綱ってやつなんだ、おまえが。だから」
「ひとつ、聞く」
蓮姫は白王をさえぎって、頬の傷を指し、これをどう思うか、と聞いた。
「べつに、なんとも」と、白王は答えた。
それは、中華から来た名医の口から出たのと、さほど変わらぬ言葉だったが。
白王の言葉は、医者のそれよりもずっと、不快ではなかった。
白王は眼帯をはずし、隠されていた右目をさらした。焼け爛れてもう開けないまぶたが、そこにあった。
これをどう思う、と白王は聞いた。べつに、なんとも、と蓮姫は答え、そこに触れた。くちびるで。
術を授けたい者と、授かりたい者との間で儀式が始まり。
終わった。
翌朝。
しらじらとした空気の中、寝台でひとり目覚めた蓮姫は。
白王の力をすべて受け取ったのを、感じた。
白王。もう会うことはない。もう、死んでいるかもしれないが。
彼が持っていた力は、今、継がれて、ここにある。
それにしても、肉体は、起き上がれないほど消耗している。
蓮姫は、ぼそりと、つぶやいた。
「やはり、男は好かんな」
いずれわたしも、だれかに術を譲るときが来るだろうか。
来るな、まだいつかはわからないが、確実に。
そのときは、できるなら、女を選びたいものだ。
蓮姫は、まだなかば朦朧とする頭で、そんなことをとりとめもなく、夢想した。




