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誓言 ~砂漠を渡る太陽は銀の月と憩う~  作者: 中山佳映&宝來りょう
シーズンⅨ(かえ担当)
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第一話

 あれからおよそ一月ぶりの、昼下がり。

「これは、お帰りなさいませ、銀月様」

 帰宅した銀月を、李家の召使いたちが、あたふたと出迎える。


 お宅に使いを走らせようか、と旅の間中なにくれとなく良くしてくれた官吏、綜水楊ゾン・シュイヤンが、故郷が間近くなってきた頃、申し出てくれたのを「そんな大仰な、いいよ」と断って単身、馬を駆ってきたのだが。

 召使いたちの慌てふためくさまを見て、これは素直に親切を受けておくべきだったか、と李銀月リ・インユエは少しく悔やむ。


 また、やってしまった。

 こういう扱いには、いまだ慣れない。

 ついこの間まで、花街通いの放蕩者として名を馳せていた身ゆえ、自覚がまるで足りないのだ。豪商、李家の跡継ぎ、という自覚が。(それは、表向きではあったけれど)


 旅先でも、そうだった。

 思いの外、皆に重用され頼りにされて戸惑った。

 そんな銀月をもっとも近くで見守っていてくれたのが、綜官吏。

 自覚のなさを指摘され、からかわれたことも度々あったが、無邪気な明るさが綜官吏という人物の美点。それに彼自身も周囲も、そして銀月も救われていた。


  端麗すぎる容姿に加え、油断ならない環境で育ったせいで表情が乏しく、それゆえ神秘的で、まさしく冴えた月の如く近寄りがたい印象を周囲に与える銀月が、 それほど浮かず一団に馴染めていたのは、綜官吏が潤滑油の働きをしてくれていたからだ。それを恩義に感ずればこそ、多少のからかいなどは銀月の胸内で軽く 相殺されていた。


「……睡蓮スイレンは?」

 馬から降り、手綱を馬丁に任せ、きまり悪げに銀月は訊ねる。

明華ミョンファ様のお部屋に、お嬢様方といらっしゃいます。ちょうど布やら装飾品やらを扱う商人が参っておりまして、お召し物などをいろいろと……」

 銀月は、最後まで聞いていなかった。

「お、お待ちください、銀月様、ただいまお取次ぎを……銀月様!」

 待て、だと。待てるものか。

 押しとどめようとする召使いを振り切って銀月は大股に歩を進める。


 睡蓮。

 その名を、この一月ばかり、口にすることは、なかった。

 意識して、封じていた。

 今、口にして、それは正しかったと思った。

 睡蓮。

 名を呼んだだけで、もう駄目だ。

 いてもたっても、いられない。


 制止が無理と悟った召使いは、ならばせめて先回りをと、銀月を懸命に追い抜いて明華の部屋の扉へたどり着き、息を切らせて叫ぶ。

「銀月様、お帰りでございます!」

 その叫びと、銀月が扉を押し開くのと、ほぼ同時。

 室内にいた者全員が、扉のほうを向く。


 商人が四人、侍女が三人。

 明華と、その二人の娘、つまりは銀月の異母姉、麗華リィフォア春華チュフォアそして睡蓮の親友、英愛ヨンエと。

 睡蓮。


 麗華は、かつてないほど美しく着飾っていた。

 着飾らされていた、といったほうが正しいか。

 睡蓮と英愛が、腕によりをかけて見立てたものと一目瞭然。

 銀月は、異母姉にこれほど薄紫の衣が似合うとは知らなかった。

 また、春華の肩には若草色の衣がかかっていた。

 そのような愛らしい色の衣をまとっているのを今まで見たことがない。

 麗華で思うさま「着せ替えお人形ごっこ」を楽しんだ睡蓮と英愛は、次に春華を標的にしていたところだったにちがいない。


「銀月!」

 石になったかのように動かなくなった室内の者たちのなかで、いち早く睡蓮が石化から脱し、止まった時が再び動き出す。

「お帰りなさい、銀月!」

 咲きこぼれるような笑みを浮かべて、駆け寄ってくる。

 陶然と佇む銀月の両手を取って、再会の嬉しさを目一杯、表現する。

 石像と化したのは、今度は銀月のほう。


 両手から伝わってくる、睡蓮のぬくもり。

 生身の、睡蓮。

 ああ、どんなにかこの日を。

 どんなにかこの日を、待ちわびたことだろう。


 睡蓮。

 名前さえ、発することを意識して封じていた。

 山積する業務に囲まれて忙殺されている間は、まだよかった。

 が、ひとり寝床に横たわると、脳裏に浮かぶのは。

 無心な寝顔、なまめかしい姿態、芳香を放つ肌、闇の中でもほの明るく輝く金髪。

「銀月……」

 異邦人独特の発音。自分を呼ぶ甘い声。

「銀月……」

 全幅の信頼をよせて、うっとりと自分を見つめる紫の瞳。ふたつの宝石。


 それが、今、現実に。目の前に。

 毎夜、夢想してきた、それは。

 所詮、夢想に過ぎなかったと、思い知る。


 奇しくも銀月は、砂漠を渡ってきたばかり。

 彼方の蜃気楼に目を奪われても、それは手の届かぬもの。

 渇望の果て、現実に、そこに水があるならば。

 満たさずにいられるわけがない。


 ゆえに銀月のそれは、苦悶の表情に見えた。

 泣きそうな、怒ってでもいるかのような、険しいものに。

 そんな顔で、じっと見下ろされて、睡蓮は不安になった。

「あの、銀月、疲れてる? 具合でも悪いの? それとも、それとも……」

 あたしに会えても、そんなに嬉しくないの?

 最後の言葉は、背伸びをして、銀月に、そっと耳打ち。

 耳朶を甘い吐息でくすぐられて、完全に火がついた。


 自分が、火をつけておきながら。

 銀月の心情などお構いなしに睡蓮は話題を変え、銀月を室内に招き入れようとする。

「今、麗華さんと春華さんのお着物を選んでるのよ、後ほど、あたしたちのも仕立ててくださるんですって、ねえ英愛?」

「え、ええ」

 話をふられ、英愛が慌てて返事をする。

 が、英愛は睡蓮よりも、銀月の異変に気づいていた。

 英愛は自分の声は、銀月の耳には届いていないだろうと思った。事実、そのとおりだった。

 英愛以外の者も、銀月の目の色に気づいていた。

 なんとなれば銀月の瞳は、先刻からずっと睡蓮ひとりに釘付けだった故。


 銀月を室内へ招じ入れようとした睡蓮の手は逆に、銀月に捉えられ。

 室外へと、引きずり出された。

 そのまま、廊下を連行される。

「えっ、ちょっと、銀月、まって、あっ、あの、皆さん、ごめんなさい、失礼します、銀月、銀月ったら……」

 困惑しきった睡蓮の声が、遠ざかる。


「……あんな様子の銀月、初めて見たわ」

「私もよ」

 明華の娘、麗華と春華が呆然とつぶやく。

「でも、なんだかちょっと、気味が良いわね」

「そうね、私もよ」

 あの子も案外、可愛いところがあるじゃないの、と。

 姉妹は笑いあった。

 その笑いに、明華が加わった。

 その笑いは、つい一月ばかり前、あの女に骨抜きにされてしまえと意地悪く毒を吐いていた嘲笑とは、まったく別物。その変化が、我ながら喜ばしく、ありがたく。

 屈託なく、爽快で。

 思わずつられて、英愛までが。

 くすっと、微笑んでしまうほど。

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