第七話
「なんだ、この匂いは?」
いやに甘ったるい匂いが鼻につく。
これが蓮姫の言った媚薬なのか。
銀月は、鼻を手でおおいながら、ほうぼうの窓を開け放していった。
そして、月食が終わった満月を頼りに探しだしたランプの火を点ける。
ランプの明かりがぼうっと照らし出したのは、己が親友のだらしない姿。
夢龍は、上半身裸のまま、膝を抱き、そこにまろい頭を伏せている。
「ううぅ・・・・!」
「どうしたんだ、お前?」
銀月は、時折、振り絞るような呻き声を上げる親友に声をかけた。
すると、血で真っ赤に額を染めた夢龍が顔を上げる。
夢龍は、そんな状態なのに、目の前の銀月が幻でもあるかのように虚ろな様子で返事をした。
「俺さ・・・・めちゃくちゃ睡蓮ちゃんが好きだったわけよ。
もう昼も夜も彼女の姿がまぶたから離れなくて、抱きたくて抱きたくてたまらなかったの。
それなのにさ、こんなお膳立てされちゃってんのに抱けないんだよ。もう自分が情けなくて泣けてくるよ・・・・」
「夢龍・・・・」
「銀月、俺はお前なんか嫌いだよ!」
(すまない)
銀月は、心の中で親友に詫びていた。
だが、お人よしの夢龍のおかげでわかったことがある。
夢龍の恋心を知った恐ろしく親切な誰かが、夢龍を攫い、媚薬付きで睡蓮を放り込んでくれたらしいと。
そして、その親切な誰かとは陽花楼の関係者、おそらく蓮姫のだろう。
先ほど『陽花楼は火事に遭いましたゆえ』と答えた彼女の声は、冷静な彼女であっても押さえきれないほどの怒りに震えていた。
だが、友達思いの夢龍は、誰かさんの思惑を思いっきり外した。あの額の血は、媚薬に幾度も抗ったせいだろう。
「このバカがっ・・・・!」
銀月は、懐から取り出した手巾で夢龍の額の怪我を押さえると、その辺にあった薄物を包帯代わりに巻きつけてやった。
そして、床に投げ捨ててあった上着を乱暴に放り投げてやる。
「着ろ! お前の裸なんか見ても少しも楽しくないんだからな!」
「えっ、銀月? お前、なんでここに居んの?」
夢龍は、治療された痛みに覚醒したのか、親友の存在にようやく気付いたようだ。
「さっきからいるだろう。まったく、お前ははた迷惑な男だ」
「・・・・銀月、俺、ふらふらで歩けないかも。おぶって連れて帰ってくれない?」
もし、犬だったら確実に尻尾と耳を垂らしている、そんな有様で夢龍は、銀月を見上げた。
「はっ? お前みたいな大男、おぶえるわけないだろう。
他に睡蓮もいるんだぞ。酔い覚ましの水でも飲んでろ!」
だが、ご主人様(銀月)は悲しいほどそっけなかった。
そんな、ふたりの男が麗しくない友情を温め合っている中、こんこんと眠り続ける少女が一人。
睡蓮 ―――――― 。
睡る蓮とはよく言ったものだ。
「睡蓮ちゃん、ほんとよく寝てるな」
水差しから直接、水を飲みながら夢龍が言った。
「ああ、そうだな。
お前、このまま彼女をわたしの家へ送り届けてくれないか?」
「彼女に会って行かないのか?」
「ああ、他にやることが出来た」
夢龍は、銀月に「それはなんだよ?」と、訊かなかった。
「こんなふらふらで可愛そうな俺にそんなこと頼むなんて、お前って鬼畜だよな」と言いはしたが。
「お前、わたしが何も気づいてないと思ってるのか?
今回のは百回分、貸しだからな、よっく覚えておけよ」
銀月は、睡蓮の破れた裳を顎でしゃくりながら言った。
その顔は、冥界の鬼も裸足で逃げ出すほどの剣呑さである。
「お前ってなんでそんなに目がいいわけ? 遊牧民じゃあるまいしさ。
俺は、泣く泣く睡蓮ちゃんをお前にゆずってやったんだよ。ほんのちょっとおっぱい触るくらい大目に見ろよ!」
「ほお、夢龍くん、きみは人の妻にそんなこともしたんだね?
夫たる僕に、撲殺されても文句言えませんねぇ~?」
銀月は、絶対零度の笑みを浮かべると、夢龍の襟を締めあげ、無理やり立ちあがらせた。
「俺、もしかして墓穴掘った?」
「ああ、本当の墓を掘らしてやってもいいぞ」
銀月の目は少しも笑っていない。冴え冴えとした美貌なだけに激怒した顔は、まさにド迫力だ。
怖い、怖すぎる。このままでは、本当に自分の墓を掘らされかねないと考えた夢龍は、がばっとその場に蹲り、土下座した。
「すまん、銀月。香丹ちゃんの件は引き受けるから許してくれ」
香丹とは、銀月が睡蓮を娶る前まで懇意にしていた妓女だ。
長く通ったのが仇となり、香丹は、すっかり銀月の妾になれるものと思い込んでしまった。
だが、銀月が実際、娶ったのは睡蓮。気位の高い香丹の怒りが頂点に達したのは言うまでもない。
銀月の父・水月が言った「後顧の憂い」とはまさに彼女のこと。
今のところ、楼主が必死で止めているため大事になってはいないが、いつ香丹が陽花楼に怒鳴りこむかと考えると一時も気が安まらない。
万が一、房子と蓮姫を怒らせたら、香丹も香丹のいる花月楼も無事では済まないだろう。そして、その理由が自分と知れたら、あの蓮姫がどんな仕返しをしてくることか。それを考えると、おちおち沙漠の旅もしていられないのが正直なところだ。
だが、妓女に受けのいい夢龍なら香丹を納得させる手が打てるのかもしれない。香丹に弟のごとく可愛いがられていた夢龍ならば、おそらく。
「ああ、頼む。
もし、香丹の件を解決することが出来たら、わたしの睡蓮の周りをちょろちょろうろつくことを許してやる。ただし、一年後にな」
「い、一年? お前ってどうしてそんなに心が狭いんだよ!」
「狭い? めちゃくちゃ広いだろうが! 妻に手を出した男を一年で許してやろうっていうんだぞ!」
銀月は、少しの間も開けず、噛みつくように言い、そして、夢龍がそろそろ歩ける状態まで回復してると見てとると、夢龍の手を取り立ちあがらせた。
「ここを出るぞ。鬼が出るか蛇が出るかわからん場所だからな」
「ああ、あの玉凰とかいう女は確かに鬼か蛇だな!」
なべて女に優しい彼にしてはめずらしくそう吐き捨てた。
「玉凰というのか? お前と睡蓮をご丁寧にも一緒に放り込んでくれた女は?」
「ああ、チャドルでよく見えなかったが、俺とお前と同じ年くらいのきれいな女だったな」
もし、銀月がその場に居合わせたら、蓮姫との相似に気付いたろうが、夢龍はあいにく、蓮姫と顔を合わせたことがない。
「そうか・・・・」
女とはまた面倒な。銀月は心中舌打ちしながら、それでも手は少しも休めない。
日毎、自室に仕掛けられた毒や罠を回避している銀月には、この部屋に残された女の痕跡を見つけ出す位、造作もなかった。
けれど、注意深い女は、これといったものを残していかなかった。夢龍に使った媚薬以外は。
薬は、門外不出のもの。調合法は、派閥によって大きく異なるという。
もしかしたら女の素性を知る手掛かりになるかもしれない。そう考えた銀月は、媚薬の焚かれた香炉を持ち帰ることにした。
「行くぞ!」
親友にひと声かけると、睡蓮を抱き上げる、王から下賜された宝物のように慎重に。
その宝物は、自分を抱き上げたのが恋人であると気付いたのか、猫のようにすりすりと身を寄せてきた。ああ、なんと愛しいのだろう。
(きみは何も知らなくていいんだ。
わたしは、きみの笑顔を曇らすものを取り除いて歩こう)
銀月は、別邸を出ると、待っていた春男とまだふらふらな夢龍に睡蓮を託し、再び馬上の人となったのだった。




