第三話
「睡蓮、少し長くなるかもしれないけれど、いい子で待っていてくれるかい?」
子供の時のように睡蓮の金色の髪を優しく撫でて、銀月は旅立っていった。
残された睡蓮は、つゆ知らぬことだが、目的地はカジュガルではなく、睡蓮の故郷・マリカワト王国。 いや、すでに滅んでいるのだから「マリカワト王国跡」というのが正しいかもしれない。
睡蓮は、銀月を少しも疑わず、まるで初々しい新妻のように、「旦那様、お帰りをお待ちしています」と手を振った。
けれど、そこは睡蓮のこと。
最前まで「行かないで」としがみつき、銀月の旅装束を涙と鼻水で盛大に濡らしたのはいうまでもない。
睡蓮は、銀月を送りに出た足で、陽花楼へ里帰り。
ほんの数日振りだというのに、陽花楼の女将・房子も、英愛も、皆が盛大に歓迎してくれた。
その上、房子は、七才の時に別れて以来、二度と会えないと思っていた義父さんまで呼び寄せてくれていた。なんと気のきいた結婚の贈り物だろう。
睡蓮にとって今日が人生最良の日。
英愛に呼び出され、柚姫の手のものに攫われるまで、睡蓮はそれを少しも疑わなかった。
けれどそれは一瞬で覆される。
英愛の視界の中、みるみる小さくなっていく睡蓮。
柚姫の手のものに攫われていく親友を見送るでもなく見送って、英愛は、ふらふらと歩き出した。
先ほど、ようよう上がった朱い満月が彼女の後を追ってくる。
「ええ、そうね、蓮姫姐さん、燃やしてしまいましょう」
英愛は、茂みから枝の束をむしりとり、火をつけると木壁に押し付けた。
夏は、火の季節と呼ばれるほど大気の乾燥は著しい。
陽花楼が炎に包まれるのはあっという間だった。
すぐに、「火事だ」と、叫び声が聞こえ、店舗から客や踊り子達が先を争って逃げ出してくる。
その怒号と悲鳴は、耳を塞ぎたいほどだが、英愛の耳にはまったく入らない。それどころか、燃えさかる炎をうっとりと見つめている。
「なんて・・・・美しいの」
彼女にとって炎は浄化。
もっと燃え上がれ、焼き尽くせ。
睡蓮はもういない。
後は陽花楼さえなくなれば、あたしを苦しめるものは存在しないのだ。
炎は、とうとう使用人棟まで及ぶ。
陽花楼前は、近隣の商家や揚屋から逃げ惑い、泣き叫ぶ人々で阿鼻叫喚の有様。
しかし、英愛の目にはそれらとて映らない。
「ええ、そうね、蓮姫姐さん、燃やしてしまいましょう」
白痴のように同じ言葉だけを繰り返す。
その言葉を幾度、繰り返したときだろうか、英愛は、ふいに肩を強く掴まれた。
姿の見えない英愛と睡蓮を探しに来た蓮姫に。
「英愛、何を言ってるの?
この火事は、まさか・・・・」
蓮姫は、『あなたなの?』と続けたかったのだが、英愛の尋常ではない様子に言い淀んだ。目の焦点が少しもあっていない。この分では、己の声も聞こえていやしないだろう。
それでも・・・・愛しいものの姿だけは認めたのか。
チャドルを纏っていない蓮姫の傷もあらわな頬に手を伸ばし、子供のように顔をくしゃくしゃにした。
「蓮姫姐さん、さぞつらかったでしょうね。
あたしも、姐さんが心配で、何度も何度もお見舞いに行こうとしたの。
でも、いけなかった。
だって、あたしは睡蓮みたいにきれいじゃないから、蓮姫姐さんに好いてもらえる自信がなかった・・・・」
英愛は、酔っ払いが繰り言を言うように続ける。
「あたしはね、蓮姫姐さん。
いつも二番手なの、舞も、蓮姫姐さんの愛も、睡蓮には絶対にかなわない。
だからね、睡蓮も、陽花楼もいらないのよっ・・・・!」
正体を失くしたまま、英愛はそう絶叫した。
(ああ、そうだったのか・・・・)
ことここにいたって蓮姫はすべてが飲み込めた。
英愛が、己と睡蓮とを引き比べ、長年、劣等感と戦っていたことを。
そして、その劣等感を柚姫の策略にまんまと利用されたことを。
英愛は、柚姫に陽花楼に放火するよう柚姫に暗示を受け、そして、睡蓮誘拐にも一役買わされたのだ。
(なんと不憫な・・・・)
蓮姫は、頬にあてられた英愛の手を優しく握り返すと、彼女の虚ろなままの双眸を覗き込んだ。
かつて、蓮姫も激しい劣等感にさいなまれた時期がある。
稽古を怠けているくせに本番となると、自分と遜色なく踊れてしまう双子の妹・柚姫。しかも、同じ顔だというのに客の目はいつも柚姫を追っていた。
『なぜ? わたしは、毎日、努力してるのに、なんで皆、怠けている柚姫のほうばかり見るの?』
悔しくて、嫉ましくて。
それでも、柚姫のように我が儘に感情をぶつけられない、いい子ちゃんの自分に幾度、反吐を吐きたくなったことか。
だから、柚姫が陽花楼を追放された時、傷を負って踊り子として立てなくなった時、どこかほっとしていた。もう、これで柚姫と比べられることはないと。
双子だからと周囲に比べられ、苦しかったのは、柚姫ばかりではないのだ。
だから、英愛の気持ちは、手に取るようにわかる。
「そんなことはないわ、英愛。 あなたは、あなたよ。
わたしは、睡蓮とあなたを比べたことなどないわ」
本当にそう思っていた。
空ろな英愛にその言葉が届いたかどうかはわからないけれど。
けれど、穏やかな上辺とは真逆に蓮姫の心中は、激しい嵐が吹き荒れていた。
(柚姫、あなただけはどんなことをしても許さない!)
英愛の手を握っていない左手が、腰に巻かれた飾り帯を引きちぎらんばかりに握り締める。
柚姫が、陽花楼に触手を伸ばしているのはとうに気づいていた。
ほんの少しも備えを怠ったつもりはない。
しかし、現実はどうだ。陽花楼は火の海に沈み、睡蓮は柚姫の手のものに攫われてしまったではないか。
蓮姫は、己の甘さに口唇を噛み締める。
しかし、だからといってまだ取り返しがつかないわけではない。睡蓮を取り返し、柚姫の魔の手から陽花楼を守る手立てを一刻も早く整えねばならぬ。
蓮姫はため息をひとつ吐くと、
「春男、李銀月を追いかけなさい。
旅慣れぬ一行のこと、今夜はチャルチャンの地下井戸泊まりだろう。あの男に、『玉に変事あり』と言えばそれでわかるはずだ」と、自分の影に潜む男達のひとりに命じた。
春男と呼ばれた中年の男は一礼した後、璃安中心部へと駈け出して行く。
蓮姫は、続けてもうひとりの男に、
「陸史、成夢龍の足跡を辿りなさい。
あの放蕩息子はおそらく、睡蓮とともに、楊家の別邸に閉じ込められているはずだ。おまえはそれを確かめておいで」と、命じた。
だが、陸史は首を縦に振らない。
おそらく蓮姫の意を図りかねたのだろう。
「大姐、救い出して来なくてよろしいんで?」
と、目を眇めながら訊ねた。
「ああ、何せお姫様を救う役だ、おまえでは役者不足であろう?」
陸史は、揶揄するように言い放った蓮姫に二度は聞き返さなかった。
にやりと笑って見せてから、猿のように身軽に、野次馬でごった返しはじめた夜の街へ消えていった。
これで、考えられる限りの手は打った。
後はあの男の仕事、いや、あくまでも自分は、裏の顔役なのだ。
だが、この娘のことは ―――――― 。
蓮姫は、放心したように火事を見ている英愛の顔をのぞきこむと、ぴたりと視線をあて、ゆっくりとした口調で、けれど、深く深く暗示をかけていった。
「英愛、わたしがあなたの額を弾いたら、睡蓮を攫わせたことも、陽花楼に火をつけたことも、忘れなさい」
蓮姫は、人差し指で英愛の額を跡が残るほどに強く弾いた。
およそ占術師とは、占いと同時に、呪いも方術も請け負うもの。蓮姫とて例外ではない、稀にしか使わなかったとしても。
「痛ったーい!」
英愛の黒目が焦点を結ぶと同時に、彼女は、ひりひり痛む額に手をあてた。
けれど、目の前に蓮姫の姿を認めると、戸惑ったように首を傾げる。
「あれ、蓮姫姐さん?
あたし、いつの間に帰ってきたのかな?」
英愛は、そう言ってみたものの、あたりに充満するきな臭さに火事だと気づいたのだろう、蓮姫の袖をぐいぐい引っ張りながら叫んだ。
「蓮姫姐さん、か、か、か、火事・・・・!」
「だから、逃げるわよ!」
蓮姫がそう返すと、英愛は黙って蓮姫に肩を貸し、足早に歩き始めた。
だが、二人がようよう歩きだした刹那、陽花楼の梁がみしみしと音を立てて倒れ始めたではないか。
「「あっ・・・・」」
大きな柱が凄まじい音と火の粉を舞い散らせ、二人の目前をかすめるように倒れていく。
間一髪を逃れた蓮姫と英愛は、身じろぐことも忘れて炎をあげ続けている柱を茫然と見ていた。
「英愛、向こうへ」
茫然としている場合ではない、一刻も早く安全なところへ逃げなければ。先に我に返った蓮姫が風下を指差す。
そして、蓮姫と英愛は、手に手を取って歩き出した。
「ここなら大丈夫そうね」
ふたりは、一町先の茶屋の店先の緋毛氈を敷いた台の上に座ると、そろって安堵の溜め息をついた。
「姐さん、お体は大丈夫ですか?」
英愛が纏っていた領巾(ひれ)を蓮姫の頭にかぶせ、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ええ、あなたのおかげで大丈夫よ」
蓮姫がにっこり笑うと、英愛は安心したのか、子供のように恥ずかしげに足をブラブラさせた。
「それにしてもあたし、いつ帰ってきたんだろう?
帰ってきた覚えがぜんぜんないんですよね」
「ふふ、そりゃないでしょうよ。
あなた、帰りの馬車の中ですっかり眠り込んでいたそうよ」
「あちゃー。それからずっと眠ってたんですか?」
「そうよ、かわいい英愛」
蓮姫の言葉に真っ赤に顔を染める英愛。
だが、すぐそれどころではないことに気づいたのか、陽花楼の方角に視線を向けた。
「姐さん、陽花楼はどうなっちゃうんでしょう?」
「大丈夫よ。
女将さんは、あの通りの人だもの、すぐに陽花楼を立て直してしまうわ」
「そうですよね」
英愛が、うんうんとうなずく。
それに、房子なら今頃、陽花楼の使用人すべてを避難させた上、隣家の避難誘導まで怠りなくしているはずだ。
それ故、蓮姫は、火事の心配はしなかった。
しかし、柚姫については。
もう裏の顔役だから表舞台に出ないなどと言ってはおれないだろう。
(どうも、あの銀月という男は好きになれぬが・・・・)
それでも力量からいっても、睡蓮の恋人という点からいっても、彼を相棒とするしかない。
だが、果たして自分は柚姫に勝つことが出来るだろうか?
柚姫は、阿媚の街で高名な占術師・夜語に教えを請うたという。
自分のように辻占い師から学んだものと違い、あらゆる種類の方術が使えるはずだ。
「蓮姫姐さん?」
押し黙った蓮姫に、英愛が心配そうに声をかける。
「少し疲れただけよ」
蓮姫はそう答えると、英愛の頭を優しく撫でてやった。
可愛い英愛 ―――――― 。
もし、自分が柚姫に負け、神の元に旅立ったなら、この娘は、どうするだろう。生きる希望を失ってしまうだろうか。
そうだ、真摯な想いを寄せてくれるこの娘のためにも、自分はけして負けてはならなない。例え、汚辱と嘲笑にまみれようとも、どんな汚い手を使うことになろうとも、柚姫に勝たねばならない。
「あっ・・・・月が・・・・」
蓮姫が、そう誓いを立てたとたん、今まで煌々と光っていた満月がいきなり欠け始めた。
皆既月食である。
まるで何か喰われていくよう。
その黒ずんだ赤褐色の月面を蓮姫は、物も言わずに見つめ続けた。




