第十四話
夕暮れ時。
陽花楼へ戻ってきた英愛は、睡蓮をひそかに呼び出した。
裏庭へ。
睡蓮は、親友の呼び出しに、なんの疑いもなく応じた。
ただ、少なからず心配そうな様子で。
「ねえ英愛、大丈夫? なんだかいつもと違うような気がするわ。どこか具合が悪いんじゃないの? 英愛、いつもはもっときびきび動くじゃない? 話し方だってもっとはきはきしてて……」
睡蓮は最後まで友を気遣うことができなかった。
背後から、あろうことか陽花楼の護衛に襲われたのだ。
昼間の英愛と同じように、布に仕込まれた眠り薬を、かがされて。
いや、正確にはその男は、護衛の服に身をやつした、別人。
昼間、英愛に付き添った者の服を奪い取り、英愛があらかじめ開けておいた裏口から進入してきた、柚姫の手先。
裏口の門番は、すでに殴り倒され緊縛されて、物置の中へ投げ込まれ。
そこへ馬車が現れ、ぐったりと正体をなくした睡蓮は、護衛の格好をした不審者に引きずり込まれ。
英愛はひとり、裏庭に佇んで。
ぶつぶつと、独り言を。
睡蓮、おまえさえ、いなければ、と。
それは。
昼間、柚姫にこじ開けられた、英愛の心の中の、闇の扉の向こうから、湧き出てきた言葉。
「英愛……かわいそうな英愛……」
手足を縛られ、寝台に横たえられた英愛が意識を取り戻すと、柚姫がささやきながら、英愛の頬を、撫でていた。
やさしげに、でも、執拗に。
一体いつから、そうされていたのか。
ぞっとして、英愛は、まだ自由にならぬ首を必死に動かし、柚姫の手から逃れようと虚しくもがいた。
熟しきった果実に似た、甘酸っぱい香りが辺りに充満している。
少し首を動かしただけで、呼吸が荒くなった英愛は、その空気を鼻腔いっぱい吸い込む羽目になり、むせて空咳をくりかえした。
柚姫の、いかにも楽しげな含み笑いが英愛の頭蓋に響く。
「英愛……」
やめて。やめて。蓮姫姐さんと同じ声で呼ばないで。
耳元でささやかないで。
気が、狂いそう。
かわいそうな、英愛。
『安心して、英愛。あなたに食指は動かないから』
そう。
蓮姫姐さんに言われて、あたし、悲しかったわ。
とても、傷ついたわ。
直後は、そうでもなかったけど。
遅効性の毒みたいに、じわじわ、じわじわ、蝕まれていったわ。
抜けないの、あの言葉が。
錆びた釘を刺したみたいに、胸が痛むの。
優しくて、凛々しい、蓮姫姐さん。
昔から、憧れてた。
認めてほしくて、褒めてもらいたくて、お稽古も一所懸命がんばった。
でも。
姐さんがいちばんに可愛がってたのは、いつも、睡蓮。
こっちを見て。
ねえ、あたしを見てよ。
『あなたに食指は動かない』
「いや……」
英愛は絶叫した、つもりだったが。
実際にその口からもれたのは、ため息に近い嘆き。
蓮姫姐さんが、柚姫姐さんに傷つけられて。
顔と足に深手を負ったとき。
あたしも、お見舞に行きたかった。
でも、勇気がなくて。行ったところでどうしたらいいか、なにを言えばいいのか、わからなくて。
睡蓮は、ちがってた。
邪険にされても、毎日、お花をもって訪ねてた。
あげく、額に怪我までしちゃって。
でもそれで、蓮姫姐さんは、ますます睡蓮を、溺愛するようになった。
あたしだって。
額だけじゃなくて、たとえ全身切り刻まれたって、それで姐さんの心が手に入るなら!
だけど。
実際には、なにも行動できなかった。
臆病者。
だって、あたしは。
睡蓮みたいに、綺麗じゃない。
あんな華は、持ってない。
自信がないの。持てないの。どんなに努力しても、かなわないの。
睡蓮が、銀月様と結ばれて、嬉しかったのは。
これで、陽花楼の花形はあたしだ、あたしの時代だ、天下だって、そんな気持もあった。
蓮姫姐さんにも、他のみんなにも、認めてもらえるって。だけど。
違った。
やっぱりあたしは、睡蓮になれない。
お客さまの反応も、全然ちがう。
あたしは、睡蓮のようには人々を魅了できない。
誰も。蓮姫姐さんも。
英愛の頬を、涙が伝う。幾筋も。
「かわいそうな英愛、あなたはいつまでたっても、二番手ね」
柚姫が、その涙を舐め取る。
蓮姫と同じ声で、同じ舌で、英愛をなぐさめる。
わかるわ、英愛。
あたしにも。
あたしの上にも、いつも、蓮姫が、いたから。
「もう、なにもかも、壊してしまいたいわよねえ?」
陽花楼なんか、燃えてしまえばいいのよ、そうでしょう?
「ええ、そうね、蓮姫姐さん、燃やしてしまいましょう」
英愛のなかで、柚姫と蓮姫は溶け合い。
柚姫の言葉と、蓮姫の言葉の境目が、あやふやに。
「ええ、そうね、蓮姫姐さん、燃やしてしまいましょう」
柚姫に涙を舐め取られながらつぶやいた言葉を、裏庭でもつぶやき。
英愛は、茂みから枝の束をむしりとり、火をつけた。
それを、壁に、おしつけた。
睡蓮は。
暮れかかる薄暗い寝室、天蓋つきの豪奢な寝台に、そっと横たえられていた。
黄金の髪が、透きとおるような肌が、淡い色合いの衣が、濃い臙脂色の寝台の上で、ほのかな輝きを放つ。
丁寧に包装された、優美な花束のよう。
無残に、散らされるために。
あえて、清楚に整えられて。
贅沢な家具調度の並ぶ室内。
寝台の手前には、長椅子。
長椅子の上には、夢龍。
着衣は乱れ、長い手足は椅子におさまりきらず、しどけなく端から垂れ下がっており。
こちらもやはり、正体をなくしている模様。
暮れなずむ薄暗い寝室。
寝台には、睡蓮。長椅子には、夢龍。
陽花楼は夕焼けと炎に炙られ。
銀月は璃安を離れ、旅の空。




