第九話
睡蓮の寝姿を、銀月は。
おそらく一晩中でも、飽かず眺めていられた。
消耗が激しいだろうから、それほど早く目覚めるとは、思っていなかった。
だから、小半時も経たず、睡蓮がぱっちりと目をあけたときには、いささか驚いた。
「睡蓮、大丈夫かい?」
「……あ、あたし、どうして……あっ、待って、思い出したわ、銀月、ひどい!」
のぞきこむ銀月の胸を、睡蓮はめちゃくちゃに打って拒絶。
最初はおとなしく打たれていた銀月だが、頃合をみてゆっくりとのしかかり、おだやかに睡蓮の腕を封じた。
怒りと悔しさで乱れた睡蓮の呼吸が肩にかかる。
のしかかられてもなおその下で抵抗をやめない、やわらかくあたたかい、なまめかしい肢体。興奮した睡蓮の肌からは、麝香に似た体臭が漂ってくる。
銀月の呼吸まで荒くなる。
それは睡蓮を押さえ込むのが大変なのではなく、官能を刺激されているが故。
「あ、あたしに乱暴したら、母さんが許さないわよ、言いつけてやるから、銀月なんか、うんと叱られるといいんだわ、蓮姫姐さんだって、銀月をただでは置かないんだから!」
蓮姫か、それはたしかに、厄介だな。
銀月は苦笑をもらしつつ、睡蓮を抱きしめた。
可愛い睡蓮。可哀想な睡蓮。
自分ひとりでは、男の暴力に立ち向かえなくて、悔し涙に暮れながら女将や蓮姫を引き合いに出して。
大切に守らなければ、たちまち壊れてしまう。
かよわい、はかない、いとしい、花。
きみを脅かすすべてから、守ってあげると誓ったのに。
他ならぬこのわたしが、脅威になど、なっては決して、いけなかったのに。
「ごめんよ、本当に、すまなかった」
煽られた官能は慈しみに凌駕され、小さい子をあやすように、髪をなでてやる。
睡蓮はその感受性で、銀月の短い謝罪の言葉に含まれた意味をことごとく理解した。
だから、おずおずと、和解を申し出た。
「……反省してる?」と問いかけて。
「してる、ものすごく」銀月は即答。
「じゃ、いいわ、許してあげる」
あまりにもあっさりした言い方に、銀月は思わず顔をあげて睡蓮の目をのぞきこんだ。
「母さんにも姐さんにも、言わないでいてあげる、ふふっ」
まだ涙のあとが頬に残っていたけれど、睡蓮は明るく微笑んで、銀月の鼻を軽くつまんで面食らわせる。
そのすきに銀月の腕をすりぬけ、寝台からも抜け出して、頬に残った涙のあとを素早く拭い去り。
「お留守の間は、陽花楼へ帰っているわね」
と振り向いた瞬間には、きっぱりと宣言。
「え、どうして、だって、先刻は、あんなに」
あんなに嫌がっていたじゃないか、と言いかけた銀月をさえぎる勢いで、
「あれは、銀月があんまり横暴な言い方をしたから、頭にきて反抗しただけ!」
腕組みをしてあごを突き出し、憤懣やるかたない、という、いささか大仰なそぶりをしてみせる。
「明華さんとは、まだまだこれからいくらでも仲良くなる機会はあるわ、だって同じお家で暮らしてゆくんですもの、だからそんなに焦ってはいないの、本当はちょっと里帰りもしたかったの、みんなといろんなお話をしたいし、それに……」
きちんと、色事も、習っておこう。
けだものな銀月も好きだって言っちゃったけど、本当は。
まだ慣れてないだけかもしれないけど、とっても、痛かったわ。
銀月は、できるかぎり精一杯やさしくしてくれてるのは、わかるけど。
それでも、痛かったわ。そんなの、困るもの。
陽花楼へ里帰りしたら母さんに相談してみよう。
そうだ、いっそ一流の一牌を紹介してもらうのは、どうかしら。
いろんな手ほどきをしてもらって、旅から戻ってきた銀月をあっといわせるのよ、そしてあたしのほうが銀月をメロメロに……!
「ふふ、ふふふふふ」
突然わらいだした睡蓮に、銀月はぎょっとして、訊ねる。
「ど、どうしたんだ、いきなり」
「べつに、なんでもないわよ、ふふふふふ」
「目がすわってるんだが」
「そう? ふふふふふ」
「……なにか、よからぬことを企んでいるんじゃないだろうね?」
「あら、よからぬことなんか、企んでいないわ、ふふ、ふふふふふ」
とっても、いいことよ、ふふふ、ふふふふ。
……なにかは、企んでいるわけだな。
銀月は、前髪をかきあげて、どうにか気をとりなおそうと努めた。
まあ、いい。泣かれるよりも、笑っていてくれたほうが、ずっといい。
多少、不気味だが。
おいで、と銀月が手をさしのべると。
睡蓮は、不気味な笑いを可憐な微笑にかえて、歩み寄ってきた。
そうして寝台の上でしばらく愛し合っていると。
銀月は、睡蓮が泣きじゃくっているのに気がついた。
官能に、感極まって泣いているのではない。
行為をやめて、睡蓮の顔を両手ではさみ、紫の瞳をのぞきこむ。
「どうして泣いているんだ?」
「……言ったらきっと銀月は困るわ」
「今だって困ってる、理由をきかせてくれないか」
睡蓮の口から出た言葉は、銀月の意表をつくもので。
「……淋しいの。はなれるのは、いや。もっと一緒にいたい。だって、せっかく、せっかく……」
そんなこと、今まで言ってなかったじゃないか、やれ明華と一緒にいるだの、陽花楼へ帰るの帰らないの、散々もめたけれど、銀月と離れるのが淋しいなどとは、一言も……。
「ほらね、やっぱり、言っちゃいけなかった」
困惑しきった銀月を見ると、頬にかかっていた手をふりほどき、睡蓮は寝床へ突っ伏した。
「銀月がいけないのよ、こんなの、わがままだってわかってるから我慢していようと思ったのに。言わせるんだもの、銀月が、銀月が……」
銀月は愛おしさに突き動かされるまま、寝床へうつ伏せになった睡蓮におおいかぶさった。
「睡蓮……きみがわたしに言っちゃいけないことなんて、なにもない……なにも、ないんだ……」
なんてめまぐるしく感情が動く娘だろう。
泣いたり、笑ったり、怒ったり、からかったり、よろこんだり、淋しがったり。
そのたびに、こちらまで、ふりまわされて。
睡蓮の激しすぎる感情の起伏を、鎮めてやりたいとも願い、同時に。
ずっと翻弄されていたいとも、銀月は思った。
まるで、波に揺られているようだ。酔いそうだ。しかし、悪い気が、しない。
睡蓮の感情に揉まれていると、生きている実感が、する。
これまでにないほど、生きている、実感が。
「……じゃあ、もうひとつ、言っても、いい?」
睡蓮がこう言い出したので、銀月は腹をくくって、いいとも、と頷いた。
睡蓮は今朝、銀月と別れてすぐ、胸に湧き上がってきた不安を口にした。
即ち、自分が銀月の重荷になってはいないか、と。
銀月は睡蓮に上を向かせ、その目を見つめて、真剣に答えた。
「いずれ男は誰もが愛する者を背負って生きてゆく運命なのだよ、睡蓮。他の女を背負うくらいなら、わたしはきみを背負っていたい。他のだれにも、どんな男にも、きみを背負わせたくはない。たしかに、きみは宝物だ。宝物は、重いものさ。だからこそ、強くあらねばと思う。睡蓮、きみがわたしを、強くしてくれる。一人前の、男にしてくれる。わたしにとって、きみはただひとりの、女だ」




