第八話
「銀月……わたしの銀月……」
親子とも恋人ともつかぬ、狂おしい抱擁に、しばし身を任せた後。
胸に銀月の頭を埋めさせたまま、母、月梅の声で、睡蓮は語り始めた。
「明華ばかりを責めるのは、間違いよ。
わたしもまた、罪人。
皆の幸福を思えば、実家へ帰るべきだったのに。
歓迎されていないと思い知った時点で、身を引いていれば、誰もこれほど傷つかないで済んだのに。
明華に酷い仕打ちを受けて、悲しくて悔しくて、それで。
逆にわたしは、居座ってやろうと決めたの。
最初は、そう、水月への恋心よりも、明華へ当てつける気持が強かった。
こんなこと、あなたは聞きたくないわね。
わたしだって、できれば、あなたの中でいつまでもきれいなままの思い出でいたかったわ。
でも、それではあなたは、ひとを憎んで、ずっと苦しみながら生きていかなくてはならないでしょう、わたしにとっては、そちらのほうが、より耐え難かったの。
わたしがこの世に生きているとき、あなたはまだほんの少年だった。
健やかで、潔癖な、少年のあなたには、とても打ち明けられなかった。
けれど、今のあなたなら、きっと、清濁あわせ呑んで受け止めてくれる、そう信じて、お話するのよ。
わたしがこの家へ入ったせいで、水月と明華の仲は急速に冷めて、水月はわたしへ、傾いてきた。
そうなるように仕向けたとまでは言わないわ、けれども結果として、そうなったのは、まぎれもない、事実。
それはわたしが明華に誇りを傷つけられて、それを許せず、根に持って、こだわって、みずから檻に囚われるような生き方を選び取ったのが、そもそもの発端だったのよ。
ゆるして、銀月。
あなたを一番に考えたなら、あなたを得た幸福だけで満足し、ここを出てゆくべきだった。
そうしなかったのは、いつしか明華への意地よりも、水月への愛情が、どうしようもなく膨れ上がっていて。
離れられなかった。
今さら、出戻って、いずれ他の男に手渡されるなど、想像するだに、おぞましくて。
それにもし、再婚の話が持ち上がれば、銀月、あなたとも引き離されてしまうわ。
それでもあなたはわたしの実家で、なに不自由なく暮らしてゆけたでしょう、でもそれはわたしが嫌だったの。あなたを手放したくなかった。あなたの傍にいたかった。水月の傍にいたかった。
そうできないなら、いっそ、水月の家で、あなたに看取られて死にたいと願い……それは、叶えられたわ。
安らかでいられたのは、息を引き取った、その瞬間だけ。
自分がしでかした過ちの大きさと、あなたの行く末に思いを馳せ、わたしはたちまち激しい後悔に、苛まれた。
もう、取り返しがつかなくなってから、今日まで、ずっと。
わたしは、あなたに楽になって欲しい。
あなたに楽になってもらわないと、わたしが辛いから。
それほどの憎しみが胸に渦巻いていたら、この娘を幸福にできないわ。
現に今だって、あなたは彼女を恐怖で気を失うまで追いつめた、そうでしょう?」
彼女。
月梅は自分の魂が宿った睡蓮を指して、そう呼んだ。
「水月や明華を責めるなら、わたしも責めなくては、片手落ちよ。
誰も勝てない恋の戦に身を投じたのは、わたしも同罪。
いいえ、この戦を始めたのは他ならぬわたしなのだから、もっとも重罪。
銀月、もしもわたしを哀れと思い、恨まずにいてくれるなら、どうか明華への恨みも水に流してちょうだい。
すぐに捨て去るのは無理でしょうけれど、あなたのため、わたしのため、この娘のために、お願いよ」
明華への恨みを水に流す。
たやすいことではない。
物心ついてからこのかた、ずっと抱えてきたわだかまりなのだ。
砂漠を大河に変えろ、と言われたようなもの。
それでも銀月は月梅に対して口答えをしたくなかった。
金輪際、会うことの叶わない宿命だった母に、思いも寄らず再会できたというのに。
その切なる願いを無下に退けるなど、到底。
また、月梅の願いは睡蓮のそれとも一致している。
明華への恨みを、水に流す。
月梅と、睡蓮。
愛する女性が二人ながら銀月にそうすることを望むのならば。
もはや、折れるしか、あるまい。
「……できる限り、努力します。あなたが、そう望むのでしたら、媽々」
「ありがとう。
銀月、くれぐれも、睡蓮を大切に守ってあげてね。
彼女を、悲しませないで。わたしや、明華のようには、決して」
「それはもう、何にかけても誓います」
「彼女は珠玉よ。
幽霊のわたしを見ても、ひるむどころか、微笑みながら話しかけてきて、逃げると追いかけてきたのよ。迷子になったのは、そのせい。あなたに言わなかったのは、信じてもらえないと思ったからよ。実際、あなたは彼女の口から語られても信じなかったわ、そうでしょう?」
「……たしかに、信じなかったでしょうね」
銀月は苦笑しながら、肯定。
「彼女だったから、身体を借りることができたの。
もう、こんなことはしないわ。
おいそれとは、できないしね。
やれるものなら、もっと早くにしていたわ」
銀月の頭を胸から離し、目と目を合わせてから、おどけて眉をあげてみせる。
そうだ。母はこうした茶目っ気も持ち合わせていた。
どんな冷遇の中でも、明るさは失わなかった。
身体こそ病弱だったけれども、精神は強靭だった。
風に翻弄されようとも、容易には折れぬ、柳の如く。
そのしなやかな芯の強さは、睡蓮にも備わっていた。
戦災孤児という不幸をものともせず、苦界に身を置きながらそこで大輪の花と咲き誇り。
月梅と睡蓮は、外見はともかく、根底では、酷似していた。
だからこそ、銀月は、睡蓮に恋焦がれたのだと、自覚した。
「彼女を守るために、戦うべきは、明華ではなくてよ、銀月」
月梅は不意に真摯な顔になり、諭す。
「他の誰でもない、自分自身と戦うのよ。睡蓮は、あなたひとりのものにはならない。ただ、一番には、なれるわ。
現に今、あなたは睡蓮にとって最愛の存在だし、これからもそうありたいと願うならば、その胸の奥で暴れている独占欲や嫉妬心を上手に飼い馴らさなくては。
彼女は万民に望まれる宿命。彼女を愛したのなら、その宿命ごと、受け入れるべきよ。彼女を失いたくなかったら、いつまでも最愛の存在でいたいなら、誰かと何かを奪い合うのではなくて、世界と調和するために、みずからを律し、弱さに打ち勝つことよ」
「肝に銘じておきます」
神妙に請け負った銀月を、ふたたび胸に抱き、ついに月梅は別れを告げた。
「……あまり長く身体を借りていてはいけないの。彼女に負担が、かかってしまうから」
「…………」
月梅は銀月の両のまぶたへ、交互に口付け、さようなら、とささやいて、消えた。
先刻まで胸に抱えられ、赤子のようにあやされていた銀月は、月梅が離れた途端、瞬時に男の立場を取り戻し、脱力した睡蓮を難なく抱きとめ、そっと寝台へ横たえた。
霊に憑依されると、激しく消耗すると聞く。
月梅本人も、負担がかかる、と言っていた。
銀月は、無理に起こそうとはせず、規則正しい寝息を立てる睡蓮を傍らで見守り続けた。
彼女が自然に、目を覚ますまで。




