第七話
その夜。
柚姫の陰謀とは関わりのない理由で。
銀月と睡蓮の仲は、険悪に。
急用で、数日後、銀月は隊商を率いて旅立たなくてはならなくなったのだ。
今朝、銀月が父、水月に呼ばれた食事の席で、決まったのだと言う。
睡蓮は、銀月の商用それ自体に不服があったのではない。
なにせ銀月は、この都では五指に入るほどの豪商の御曹司。睡蓮を手に入れるため、これまでの素行を改めて、稼業に精を出すと誓った身。
たとえ蜜月を妨げられようとも、それは仕方のないこと。睡蓮とて心得てはいる。
諍いの元は、銀月が留守の間の、睡蓮の身の処し方について、だった。
銀月は睡蓮に、陽花楼へ里帰りさせたがった。
睡蓮は、陽花楼へ帰ること、それ事態に不服があったのではない。
あるわけがない。
とりあえず、ひととおりの衣服や身の回りの品は、日の高いうちに届けられたから、不自由はないにしても、女将や姐さんたちや親友、妹たちとは、会いたかった。
それでも。
睡蓮が銀月の提案に、素直に頷かず駄々をこねたのは、銀月が。
「この家にきみを置いておくわけにはいかない。明華が、きみに何をするかわからないからだ」と言い出したのが、発端。
「明華さんは、そんなひとじゃないわ!」
「どうしてそんなことが言えるんだ……まさか、会ったのか?」
「ええ、お会いしました。ここまで、送っていただいたわ」
「なんだって?」
「送ってもらったのよ、お庭で迷子になって、それで、明華さんと偶然会って」
「……睡蓮。来た道をまっすぐ戻ればいいだけだったはずだ。一体どこをどう歩いたら、迷子になれるんだ?」
「そ、それは……」
銀月、亡くなったはずのあなたのお母さまを見かけたの。それで追いかけていったら、明華さんのもとへ辿り着いたのよ、などと。
事実をそのまま語ったとしても、きっと信じてはもらえない。
それで睡蓮は、少し話をはぐらかそうと、
「明華さん、親切にしてくださったわ。雪蓮花っていう珍しいお茶を淹れてくれたりして。銀月、知ってる? 雪の蓮の花って書いてね、雄花と雌花が……」
銀月は、最後まで聞かなかった。
「飲んだのか、明華が差し出したものを!」
睡蓮の肩をつよく掴んで、揺さぶる。
「大丈夫か、どこか具合が悪いところは? 気分はどうだ?」
心配のあまりの行動だったが、それは睡蓮をいたずらに怯えさせるだけだった。
「ど、どういう意味よ、もちろん、どこもなんともないわ、それより銀月の手のほうが痛いわ、離してよ、痛いって言ってるでしょ!」
はっとして力を緩める銀月。
銀月の腕をふりはらうと、睡蓮は慌てて距離を取り、掴まれた肩を庇った。
痛みが引くのを待ってから、強情なまなざしで銀月を射抜き。
「……陽花楼へは、戻らないわよ、あたし」
ここで、あなたのお帰りを、お待ち申し上げております、と。
いつもより丁寧な言葉遣い。頭にきたときの、睡蓮の癖。
「睡蓮……」
額をおさえて絶望の表情を隠し、途方に暮れた銀月は、所在無く呼びかけた。
どうして、わかってくれないんだ。
きみのことが、心配なんだよ。
あいつは、明華は、母をいびり殺したんだ。
この上もしもきみまで滅ぼされ、失ってしまおうものなら、今度こそ。
わたしは鬼になって。
明華以上の、悪鬼になって。
明華だけでは飽き足らず、父も、姉たちも、弟でさえ、そして、わたしの忠告をきかず、わたしの心をふみにじり、おめおめと明華の毒牙にかかったきみの愚かさをも責め抜いて、この世界に信じられるものひとつとしてなく、永遠の業火に焼き尽くされるだろう、それでもいいのか、睡蓮、きみはわたしがそうなっても構わないと言うのか。わたしよりも明華を選ぶのか。わたしをないがしろにし、事情も知らず、そうして明華を庇うのか!
やめて。銀月、やめて。
睡蓮の声が、遠くから聞こえる。
気づくまでに、時間がかかった。
いつのまにか胸のつぶやきは、無意識に口から漏れ、睡蓮の肩をまたひどく掴んで揺さぶり、彼女が泣くまでそれを続けていたことに。
「睡蓮!」
自身の暴力に驚き、思わず手を離した途端、睡蓮は気を失った。
脱力した身体を、床に崩れ落ちる寸前で受け止め、急いで寝台へ横たえる。
「なんてことだ……わたしは、なんということを……」
焦りで震える手で水差しをつかみ、口に含んで睡蓮の口へ、流し込む。
「目をあけてくれ、睡蓮、頼むから……」
銀月の祈りは、すぐに叶えられた。睡蓮は目をあけた。
ほっとしたのも、つかの間。
目をあけた睡蓮は、いつもの睡蓮ではなかった。
どこがどう、とは言えなくても。
もの言いたげな表情。銀月を見つめる瞳には何故か、懐かしさが滲んで。
睡蓮は上体を起こそうとした。
とっさに銀月は、ふらつく睡蓮を支えた。
睡蓮は謎めいた表情のまま、銀月を見上げると、銀月の肩に手を置いた。
銀月はその手に促されるまま、寝台のかたわらに、跪いた。
睡蓮は、銀月の肩に手をかけたまま、それを支えして自分も寝台の上に膝をついた。
今度は銀月が、睡蓮を見上げる格好に。
睡蓮の左手は銀月の肩から頬へ移り、上を向かせ続け。
右手は銀月の髪をやさしく撫でる。
頬を持って上を向かせ、髪を撫でる、それは。
まだ幼い頃の銀月に、母が好んでしていた、触れ方。
そして、そのあと。
みずからの額を、銀月の額へくっつけて、それから、鼻の頭も。
それから。
銀月の頭を、みずからの胸に埋めさせて。
睡蓮が、知っているはずがない。
それなのに、何故、こうも正確に、踏襲するのか、今は亡き母の愛撫を。
何故。何故。
嘘だ、こんなこと、あるわけがない。
どうかしている、それなのに、何故。
「……媽々(マーマ)……ッ!」
何故、自分は、睡蓮の背中に手をまわし、母と呼び涙を流し、すがりついているのか。
馬鹿げている、と自嘲しつつも、銀月は。
どうしても、それを止めることが、できなかった。




