第六話
成夫人、と呼ばれ、肩に手を置かれ、軽く揺さぶられて。
明華は自分が今、社交の場に身を置いていたことを思い出した。
今は、昼下がり。
ともに豪商を夫に持つ、令閨たちとの茶話会の席。
睡蓮との邂逅は、今朝の出来事。
以来ずっと、それが脳裏を占め、社交辞令が飛び交う退屈な会話の最中、つい夢想に耽っていたのだった。
いけない、隙を見せてはならなかったのに。
ここは上流階級や富豪の正妻たちの集う会。
本来ならば明華は側室、立ち入れる場ではないのだけれど。
夫、李水月は明華の他に妻を持たなかったし、それに明華自身も本来、出自は確か、しかも生来の勝気と聡明をもって「正妻でない」という不利をはねのけ、並み居る令閨の間にあっても、決して引けはとらない気概と存在感を放ち、社交場で果敢に戦ってきたのだった。
そうだ。
たとえ水月の正妻だった銀月の母、月梅が生きていたとしても。
この一見、華やかな、けれど陰湿で過酷な場に臨むなど、不可能だったにちがいない。
あの引っ込み思案な、かよわい箱入りのお嬢さんには。
わたしこそが、事実上、李家を支える妻なのだ、と。
内外に、知らしめるため、明華はここでも、戦ってきた。
睡蓮に、態度の軟化を無意識に促されたとしても、それはそれ。
公式の場で、まだ鎧を脱ぐわけには、いかない。
明華は気を引き締めなおし、無礼を率直に詫びた。
「無理からぬことですわ、ねえ?」
明華の肩に手をかけて、現実に引き戻した右隣の令閨が、その手を離して含み笑い。
「ええ、聞いていましてよ」
他の令閨たちが、目配せを受けて、話に乗ってくる。
「なんでも、花街を飛び回る夜の蝶が、お宅に入り込んだとか」
ご心痛、お察ししますわ、と、左隣の令閨に手を重ねられ。
明華は複雑な心境で、曖昧に微笑み、いつになくしおらしく、うつむいて見せた。
本当は、振り払いたくて、たまらない。
見え透いた、おためごかし。吐き気がする。
あきらかに、明華の苦境を悦んでいるくせに。
駆け引きとも飾り気とも一切無縁な睡蓮と、接したあとだけに。
いつもは軽く受け流せる悪意でも、ことさら醜悪に感じられる。
反撃はおろか、不快感を表さないよう努めるだけで、精一杯。
そんな明華に助け舟を出したのは、茶話会の主催者、楊太々。
「今日は、あなたのために特別なお客様を招いておりますのよ、どうぞ、こちらへ」
絢爛たる装飾品の数々を揺らし、楊太々は優雅に席を立つ。
促されて明華も立ち上がり、後を追う。
座を辞する前、ちらりと背後を振り向いてみた。
主催者に置き去りにされようとしているのに、残された令閨たちは。
かくべつ不満を示すでもなく、どこか意味深長な微笑を浮かべて、明華を見送っていた。
薄気味悪さを覚えつつ、太々に従い、次の間へ足を踏み入れると、そこに。
黒いチャドルで全身を覆った女が、待ち受けていた。
大玉の水晶をのせた卓をまえに、座し。
窓を閉ざした室内は、昼下がりの陽光を拒み。
こころなしか気温までもが、なにやら寒気を感じるほど。
「あなたは、ご存知ではないでしょうけれど」
明華を誘ってきた主催者は、チャドルの女の背後へ回りこみ、いかにも身内、という親密な空気を作りつつ、先を続ける。
「こちらは近頃、上流階級で評判の占術師ですのよ。この度わたくしの親戚が、宮中で異例の出世をしました、それはご存知よね? 実はこの方の貢献が大でしたの」
「玉凰と申します、どうかお見知りおきを」
占術師は、そう名乗ったが。
黒いチャドルのその下は、柚姫だった。
黒いチャドル、それは。
奇しくも、かの二十三夜待ちに、双子の蓮姫が銀月を誘い出した折と同じ。
黒布を取り去ったなら、同じ顔が現れる。
頬に傷が、あるか、ないか。その差のみ。
「お困りでしたら、わたくしが、お力になれるものと存じます、奥様」
たとえば邪魔者の排斥などは、得意分野でございます、奥様の周りをうるさく飛び回る、いかがわしい迷い蛾の始末ならば、わたくしにお任せを……と、したり顔で続ける占術師へ、明華は。
「結構よ」
我ながら、驚くほどに、ぴしゃりと拒絶。
いかがわしいのは、あなたのほうよ、と喉元まで込み上げてきた罵声を、すんでのところで呑み込んだ。
断るにしても、もっと注意を払わなければ。
いかがわしくとも、この占術師は、茶話会の主催者であり、派閥の実力者でもある楊太々の肝煎りなのだ。
太々の面目を潰すわけには、いかない。
「成夫人……」
案の定、太々は、訝しげに表情を曇らせ、失望のまなざしを明華へ投げてくる。
「お心遣い、恐れ入ります。折角のお申し出ではございますが、太々」
明華は深々とこうべを垂れ、太々へと最敬礼。
「この件につきましては、わたくしはみずからの手で決着をつけたいと、そう望んでおります。また、わたくしにはその力があると信じております、いいえ、信じたいのです。太々からご覧になりますれば、未熟なわたくしのいたすこと、さぞや危ういとは存じますが、どうか、わたくしの心情をお察しくださいますよう、伏してお願い申し上げます」
楊太々は、深いため息をついた。
そのため息は明華の背をなで、服の下に、うっすらと冷や汗が滲む。
「……わかりました。あなたがそこまで言うのなら」
ため息のあと、長い沈黙が続いた、と感じたのは明華の気のせい。
実際は、そう長い時間ではなかった。
明華は深々と下げた頭をさらに、がっくりと垂らした。
安堵のあまりの仕草だったが、礼を深めた、とも解釈できた。
訪れた際と同様、楊太々の後に続いて部屋を出ようとした明華だが。
「……成夫人」
占術師、玉凰に呼び止められて、つい立ち止まり、振り向いてしまった。
無視すれば、よかったのに。
玉鳳の声には、無視を許さぬ気迫があった。
「奥様は、もう睡蓮と、お会いになってしまわれたのですね」
玉鳳の言葉に宿る毒気は、明華の神経を逆なで。
「あなたには、関わりのないことでしょう」
楊太々の手前、声を荒げはしなかったけれど。
小声ではあるものの、苛立ちもあらわに言い捨てて、去った。
薄暗い部屋に一人残された占術師、玉鳳は。
黒いチャドルの下で、誰にも知られず、柚姫に戻る。
「……睡蓮……」
おのれ、どこまでも。
なんと、忌々しい存在。
成夫人が、冷静でなくて助かった。
柚姫もまた、憤怒のあまり、冷静でいられなかった。
「奥様は、もう睡蓮と、お会いになってしまわれたのですね」
とっさに口走ってから、内心、相当、焦った。
何故、その名をまるで知己でもあるかのように気安く口にしたのか、と問い詰められたら、いささか窮するところであった。
「……睡蓮……」
呪詛をこめて、その名をつぶやく。
昔から、いけすかない娘だった。
陽花楼へやって来た経緯からして、異例。
誰も彼も、柚姫や蓮姫も、奴隷として売り飛ばされたのに。
あの娘は、そうではなかった。
奴隷商人から無償で譲り受け、しかも「大事にしてやってくれ」と言い渡されたと聞く。
陽花楼の中でも、誰にでも好かれ、可愛がられ。
女将の房子や蓮姫には、溺愛されて。
房子は柚姫の最愛の男、青を追放した仇敵。
蓮姫は自分と同じ顔。
自分と同じ顔の人間が、自分の敵、房子と同じように、睡蓮を溺愛。
その光景は、柚姫の神経に障った。
だから意地悪な真似もした。
能天気な顔を、曇らせてやりたくて、なのに。
あの娘ときたら、ちっとも堪えやしない。
それどころか、味方をどんどん増やしていって。
意地悪をすればするほど、こちらの分が悪くなるばかり。
なによりも。
睡蓮には、銀月がいた。
李銀月。
睡蓮の名付け親、兄がわり、豪商の嫡子、冴えた美貌の持ち主、そして。
身分の差こそあれ、誰が見てもそうとわかる、相思相愛の睦まじさ。
一方、柚姫は。
生木を裂かれるように最愛の青と、引き離され。
自分の不幸と睡蓮の幸運を、嫌でも見せつけられる日々は、さらなる地獄だった。
今も、また、睡蓮は。
柚姫の計画を、台無しに。
銀月をこころよく思っていない継母の成夫人を使って、李家に潜り込んだ睡蓮を誘拐させ、催眠を施した夢龍の鼻先へ獲物さながら投げ出させる、というのが復讐の序章への筋書きだったのに。
ええい、返す返すも業腹なっ!
一から、練り直さねばならないではないか。
おのれ、睡蓮め。
あたしに言わせれば、あんたこそ魔女よ。
ことごとく、あたしの邪魔をして。
一体どうやって、長年の恨みに凝り固まった成夫人まで、たぶらかしたの。
ちくしょう、一足おそかった。
先に睡蓮と会ったが最後。
まるで伝染病にかかったみたいに、皆あの娘の虜になってしまう。
柚姫は歯噛みしながら、目の前の水晶玉を、砕けてしまいかねないような強さで、ぎりぎりと握りしめ、絶叫したい衝動を堪えた。
……落ち着け。
機会は、まだある。
落ち着いて、待つのだ。
そうだ、今さら。
焦ることは、ない。
青は、もう、死んでいる。もう、戻らない。どのみち、取り返しはつかないのだから。
じっくりと、練り直せばいいだけのこと。
さて、どうしたら、あいつらを。
より深い地獄の淵へと、引きずり込むことが、できるかしら?




