第十話
里帰りした睡蓮を、陽花楼は総出で迎え。
「睡蓮!」
親友、英愛が、その中から飛び出してくる。
いきおいよく睡蓮に抱きついて、反動を利用し、くるりと一回転。
リスのように身軽な、英愛。
反射的に丹田へ力をこめて受け止める、睡蓮。
舞で鍛えた、阿吽の呼吸。
再会の抱擁も、まるで演舞のごとく、決まる。
二人の周りで陽気な笑い声が、はじける。
「英愛、せっかくの衣装が乱れてしまうよ」
女将、房子も笑いながら、たしなめる。
「あら、本当。おめかししてるのね、とってもきれいよ、英愛」
睡蓮は一旦、英愛の腕をほどいて、きらびやかな絹の重ね着にひとしきり見惚れた。
ふと、髪飾りが少し傾いているのに、気づく。
先刻とびついてきた拍子に、ずれてしまったのだろう。
さりげなく手をのばし、直してやる。
英愛は頬を紅潮させて、じれったそうにつぶやく。
「じつは、お呼ばれなの。さるお屋敷に招かれてて……ああんっ、入れ違いになっちゃって残念だわ!」
「何時くらいに、帰ってくるの?」
「んとね、夕方には戻れるかなあ……」
睡蓮と、英愛。
親友同士でもある、新旧ふたりの花形たちの、他愛なくも親しげな、やりとり。
他の人々とともに、その微笑ましい光景を見守りながら。
女将、房子は、ある特別な達成感に酔い、遠い過去へと思いを馳せた……。
十四で母を惨殺され、また、みずからも処女を散らされ、あまつさえ女の機能をも破壊され、瀕死の重傷を負わされた房子。
寝床から身を起こせるまで、半年かかり。
どうにか動けるようになるまで、さらに半年を要した。
身体よりも、精神の回復が早かった。
ともすれば絶望に沈みそうな心を、復讐の炎で煽り立て。
親代わりの花郎女たちに介抱されながら、あらゆる書物を読み漁り。
やがて身体も回復すると、武術の修行に励んだ。
と言って、まともな道場が花郎女に育てられた房子を相手にしてくれるはずもなく。
腕の立ちそうな男を、客の中から選んで教えを乞い。
何人目かで、当たりくじを引いた。
「寺で修行してたんだが、破門されちまってな」
くぐり抜けてきた修羅場をあっさりと語り、軽やかに笑い飛ばす男に出会った。
おそらく冤罪だろうと、房子は思った。
濡れ衣を着せられたか、あるいは、誰かの罪をみずから被ったのか。
詳細は知らなくても、小娘相手と侮らず真摯に師事してくれる態度をはじめ、その言動の端々から感じ取れる誠実さなどに、鑑みて。
聖人君子とまでは、いかなかったけれど。
房子の身体は、当然の報酬として、自由に抱いたし。
だれに何をされても、なにも感じない房子だったが。
それまで、馬鹿馬鹿しいと腹の奥でせせら笑いながらしていた「感じる」ふりも、彼相手ならば、嬉々として、やってのけ。
真剣に「演じて」いるうちに、不思議と心が満たされる瞬間も、あり。
庇護してくれていた花郎女たちは、房子のそんな変化を敏感に察知し。
そして「いいよ」と言ってくれた。
「いいんだよ房子、あんたが幸せになれるなら、あたしたちに遠慮せず、ここを出てお行き。せめて、あんただけでも幸せになってほしいんだ」
彼も、言ってくれた。
「ついてくるか?」
房子は、答えた。行かない、と。
あんたとは一緒に行かない、と。
そうか、と彼はあっさりと軽やかに笑って、去った。
それっきり。
房子は、復讐に、邁進。
身につけた教養や隙のない所作を武器に、花郎女から一牌へと、のし上がり、大物の客を何人も、掴んだ。
花街一の顔役さえも。
不感症を、逆手に取って。
自分よりもはるかに年かさの男たち、父と呼んでもおかしくはない男たちを、いたぶってやることで、虜に。
房子が相手にする一流の男たちは、押し並べて。
人知れず重圧に、喘いでいた。
悪辣な手口で登り詰めた者ほど、いずれやり返されるかもしれぬ仕打ちに、怯え。
間違いの許されぬ決断の連続に、舐められまいと下す命令の過酷さに、押し殺す良心の悲鳴に耐えかね、神経をすり減らし。
搾取され虐げられる側の人間が、いっそ羨ましいとさえ、思う。
嫉妬すら、おぼえる。
宝を抱える龍は、孤独。
抱え続ける腕が、守り続ける眼が、限界まで疲れ果てても、誰も交代してはくれない。
この財宝は、果たして恩寵か、それとも、罰なのか。
もう、なにもかも手放して、身も世もなく泣き崩れ、汚れ、堕落しきってしまいたい。
花街の頂点に立つ顔役とて、例外ではなく。
房子と二人きりになれる夜には。
当時まだほんの小娘だった房子に支配され、翻弄されて、あやうい精神の均衡を保っていた。
房子は欲求に応じ、ことごとく満たしてやった。
苛虐という形で奉仕する、偽女王。
最初は、閨の中だけでの、関係。
徐々に、閨の中だけではおさまらぬ聡明さを、発揮。
房子は、療養中にあらゆる書物を読んだ。
特に、占術は、熱心に学んだ。
生来の勘のよさに、知識が加わり、先見の明は、まるで神がかり。
顔役は仕事上の悩みまで相談するようになり、房子は的確な忠告を与え続け。
ついには、絶大なる信頼を勝ち得て。
いくつもの災いを未然に防ぎ、莫大な利益をもたらしてやった後に。
花街の大掃除を、提案。
母を殺し房子を陵辱した連中は、一掃された。
結果、この界隈はかつてないほどの発展を遂げたのだった。
母と自分の復讐を果たしてからも、房子は燃え尽きたりしなかった。
むしろ、これから人生が始まるのだと、希望に燃えた。
客たちに出資してもらい、恩ある花郎女たちを苦界から救い、また、これからも決して後を絶たないであろう不幸な娘たちを水際で、出来る限り救うため、陽花楼を作り上げた。
むろん復讐を果たしたからといって、客たちをおろそかにも、しなかった。
なにせ、復讐を遂げただけ。
いまだに、いいや世の続くかぎり、この地上に住まう半分は、男。
いいようにあしらわれないように、上手に渡り合ってゆく、共存という形の静かな闘争は、終わらない。
が、その頃にはもう、房子は「顔役の妓」という肩書きが定着していて。
他の客たちは自然に、円満に、距離を置いてくれるようになっていた。
商売上の相談ならば、ときどき持ち込まれたけれど、身体まで要求されることは、顔役以外には、いなくなった。
だいぶ、生き易くなっていた。
ようやく、生き易く。
このとき、房子は十七。
いまの睡蓮と同じ年齢。
そして、かつての双子の花形、蓮姫と柚姫の運命が激しく変動したのも、やはり十七の頃だった。
ようやく生き易くなった十七の房子には、しかし。
その直後、恋の嵐が。
相手は、厄介なことに。
顔役の息子。
若様と、呼ばれた男。




